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カエル 映画『ジョヴァンニ』を観て思ったこと…


これはイタリアの美術です。ただヴィスコンティのような重厚な美術とは違います。ごたごたと絵の具を塗りこめるようなこともありません。自然な光を利用した、光と影の絵画です。 窓辺にたたずむジョヴァンニの妻の肖像、蝋燭を真ん中に食卓で向かいあう母と子、柔らかい光に包まれた彼女の横顔は、ルーブルにあるマリア像の彫刻のような優しさをたたえています。 瀕死のジョヴァンニ、薄れ行く午後の光が壁に描かれた絵画の数々を柔らかく照らしだします。外には遊びに戯れる子供たちの歓声。死が間 近に迫ったこの夕刻のこの穏やかさ。やがて光は彼の命のごとくゆっくりと力を弱め、静寂へと向かいます。絵の具を塗り込めてはいませ んが、下絵にはその静けさとは裏腹に、情熱や怒り哀しみが丹念に描かれているのです。

スクリーンをじっくりと見つめてください。すると、それらのものが突然こちら側に迫ってくることでしょう。息苦しいくらいに。

<ルネッサンス、最後の騎士…その死に様と生き様>
映画の中のジョヴァンニ ジョヴァンニ・デ・メディチ(写真右、クリスト・ジフコフ扮)。母は、領土フォルリを守るためあのチェーザーレ・ボルジア相手に篭城したという女傑カテリーナ・スフォルッツァ。勇猛なその血を濃く引くゆえに17歳にして100騎の騎兵隊の隊長として名をなした男。

映画は、彼の28歳若すぎた死を描きます。この映画の荘厳な静けさは、ひとりの人間の死についての映画ゆえに他なりません。映画のファースト・シーンはジョヴァンニの死についての作家の語りから始まります。「戦争でもっとも必要とされている時に無益な死が、高貴で勇敢な隊長に訪れた」これがひとりの有望な若者の死の意味について考える映画であることを初めに示します。

ジョヴァンニの生については、死が身近にあるときの幻想やまどろみの中の夢という形で出現しています。

手術のシーン。痛みにこらえるジョヴァンニは、ロイゾ屋敷の壁画をみつめます。裸婦の絵があり、快楽の図があり、小鬼のような動物のどこかぞっとさせる顔が、目の前に迫ってきます。そしてうつらうつらとする意識の中で、いつしかマンドヴァ侯の宮殿での馬上槍試合にと映像は変わります。

ジョヴァンニは馬上から観衆の中にマントヴァの貴婦人の姿をみとめます。初めての出会い。試合後彼は貴婦人の姿を追い求め、ついに近く まで寄っていきます。すると突然一陣の強風が吹き荒れました。そのすごいこと、長テーブルにかけてあったテーブル・クロスが踊るかの ごとく舞い上がり、華麗な銀食器、金食器、山のように盛られた料理や果物が、音をたてて散乱していきます。人々が散り散りになりあた りが暗くなると、そこにはジョヴァンニと貴婦人だけが、取り残されます。激しい愛を感じたこの瞬間、熱に浮かされるような情熱がほとば しります。ここに生身の彼の姿が存在します。

いっぽう家庭のイメージ、妻のイメージはどこか安心感があります。彼女は母親のような まなざしを持っています。

身体が少し回復したように見えた黄昏のベッドの中、あの強烈な印象を残した壁画も今は午後の黄金の光を浴びて、とても穏やかに見えま す。やがてそれも光を失い、暖炉に火が焚かれる頃、まどろみながら見た妻と子の幻影。暖炉の前で寄り添いあう母子の姿の温かさ。疲 れや苦しみや、怒りや恐怖すべての感情を打ち消し穏やかな気持ちにさせてくれるような優しさ。慈愛が心の中に満ちてくるようです。

兄妹のようにしていっしょに育ったジョヴァンニと妻。そこには確かに激しい情熱的な感情はありませんが、豊かな家族愛があったのでしょう。

ジョヴァンニはその戦いぶりにおいて大変勇敢な人物です。手術のときには、医師以外の人たちをすべて退出させ、自ら燭台をにぎり、痛みにも絶える人です。 しかし、彼にも恐怖があることが、夢の中に現れます。それは罪の意識からくるものといったらよいのでしょうか。

兵士たちがキリスト像を薪がわりに火にくべます。怒ったジョヴァンニは架かっていた鍋を叩き落とし、その場で剣を抜きます。 そのシーンの後に見る夢は不気味です。木に兵士たちが吊り下げられています。その木の傍には小さな焚き火があることから、彼らはキリスト像を火にくべようとしていた兵士たちかもしれません。 そこから少し離れたところに子供がひとりいます。ジョヴァンニは馬上で剣を抜いてしばらくの間子供と見つめあいます。永遠とも思える沈黙。 この子供はさらに臨終の床にも幻影として現われ、やはりふたりは見つめあいます。そしてジョヴァンニの目からはひとしずくの涙が流れ落ちます。

戦いに明け暮れた彼の恐怖とも哀しみとも取れる意味深いシーンです。 彼は生まれてくる時代を間違えてしまったのかもしれません。 暴れ者で手をつけられなかった自分を取り立ててくれた法王レオ十世に対する純粋な忠義心も、彼の勇敢な戦闘も、政治によって押しつぶ されます。しかも彼はただ純粋なだけではなく、現実をしっかりと見る目も持っていました。そのむなしさ。

彼の涙は、純粋ではいられなかった彼の哀しみ、そして戦闘のむなしさからくる罪の意識や恐怖心として心の中に蓄積されていったものなのかもしれません。 もし自分が兵士の服でなく修道士の服を着ていたとしたら…臨終間際の言葉です。 これが映画で描かれたひとりの有望な若者の、28歳で命を散らした若者の、まぎれもない生の部分です。なんだか哀しいですね。

<ジョヴァンニの生きた時代>
では、ジョヴァンニの生きた時代とはどんな時代だったのでしょうか。 このときヨーロッパは隆盛を極めたハプスブルク家(ドイツ、スペイン皇帝で、神聖ローマ帝国皇帝)のカール五世とヴァロワ家(フラン ス王)のフランソワ一世がイタリアの覇権を巡り争っていました。 しかしカール五世にフランソワ一世は敗れます。そこで、メディチ家出身のローマ法王クレメンス七世と同盟して、フランスは再びイタリアを狙い始めます。

当時のイタリアは、様々な自治都市国家に分かれていました。ヴェネチア共和国、マントヴァ侯国、フェラーラ侯国、フィレンツェ共和国などなど。一応各国は、ローマ法王の名の下に同盟を組み戦争は戦うのですが、決して一枚岩ではありません。イタリア全土を守ることよりも、自国の利益が優先されてしまったのです。

どう考えても、カール五世のほうが優勢なので、法王側についていては自分の身が危うい。フェラーラ侯アルフォンソ・デステは、自分の長男を政略結婚させることにより、カール五世の側につきます。その見返りは大砲を神聖ローマ帝国軍に贈ることでした。(ちなみに史実ではフェラーラ侯は、同盟に声をかけられることさえなく、メディチ家とは微妙な関係にありました) 一方、マントヴァ侯フェデリコ・ゴンザーガは、自国が戦場になり荒らされることのみを恐れています。そして、神聖ローマ帝国軍が自国 を早々に通過できるよう門をひらいてしまいます。「どうせ拒んだところで、強引に進軍されるのだから同じことだ」それでいてジョバンニの軍に対してはかたく門を閉ざしてしまいました。 これには猛烈に抗議したジョヴァンニに対して、マントヴァ侯は「我々に責任が?事前に知らせてくれれば、紳士として対応したのに。開門するように命令を変更したのに。」と当たり前のように答えます。要は事前に知らせなかったあんたが悪いのだ…この言い草なのです。

これは政治です。政治家の言う屁理屈というのは、16世紀も21世紀も変わりばえがしないものです。実際ジョヴァンニは、マントヴァ侯が教皇に忠誠を誓いながらも、ゲルマンにも加担したことについて、「それが政治だとマキャベリも言う。」とひとことで言ってのけています。それに対して、マントヴァ侯は映画の中で何度も何度も言い訳を繰り返します。ジョヴァンニ負傷の知らせに真っ先にお見舞いに駆けつけますが、その道中馬車の中でもまだ言い訳をしているような有様です。しかし臨終が迫ったジョヴァンニに「私を思ってくれ。死んだ後は」と言われ見つめられたのに対し、視線をそらしてしまうあたりなんとも小心者で、人間臭い人物ではあります。

しかし、考えてみれば他でもなく、こういった政治的かけひきが、ひとりの若者を死に追いやったということは間違いありません。 ひとりの若者の死…それはそれだけで痛ましいことではあるのですが、ではなぜ、それがジョヴァンニ・デ・メディチでなくてはならなかったかのでしょうか。

ジョヴァンニは、マキャベリの言葉を引用したり、従者に本を朗読させています。実際彼はそのマキャベリと同郷(フィレンツェ)でもあり、かつてミケランジェロの生徒でもあったこともあり、(彼が匙を投げたとしても)ルネッサンスの空気を思う存分吸って育ってきたのではないでしょうか。(ちなみに史実では、マキャベリが、ジョヴァンニに軍の全権を委ねるべきだと、ただひとり主張しつづけ、またことごとく諸侯たちに拒否されたという関係もあります。) それゆえ、彼はある意味ルネッサンス人の象徴としてこの映画では扱われているような気がします。

ルネッサンスとはひとことに要約するならば、「古代ギリシャ・ローマの文化を復興し、失われた人間性の復活を求めた運動」ということになります。 その彼が、皮肉なこと人間性を否定するような武器大砲によって命を落としてしまいます。

大砲が人間性を否定する武器である…これは映像の対比で強調されています。 霧の中に浮かび上がる整然と並んだ槍の群れの美しさ。それらはしばらく武器であることを忘れさせます。なぜなら、そこには人がいます。人間が隊長の下に陣形を整えているという事実があるのです。 その一方、鋳造場ではじめて姿を現す大砲は、大変グロテスクに描かれています。なにやら地中から恐ろしい生き物が現れるかのようなイメージでした。まるで『ロード・オブ・ザ・リング』のオーク誕生の瞬間のようでもあります。 さらに、砲弾が型からはずされた後、甲冑を木に吊るして試し撃ちをするのですが、このシーンも甲冑がブラブラと揺れて、一瞬中に人がいるのではと思わせ、ドキッとさせられます。

<ジョヴァンニの死とルネッサンスの終焉>
ジョヴァンニの肖像画 ルネッサンス人であり、最後の騎士でもあった、ジョヴァンニ・デ・メディチ(右写真)。その彼が剣ではなくて、たった一発の砲弾、このような悪魔的な器械に殺されてしまった…ここにこそ彼の死がひとりの優秀な若者の死ということだけにとどまらない象徴としての意味があるのではないでしょうか。

そう考えると、1526年のジョヴァンニの死、1527年のマキャベリの死。ルネッサンスと呼ばれる文化は(名目上16世紀の末まで続くことになるのですが)、1527年のカール五世によるローマの攻略のときではなく、実はこのとき、ジョヴァンニの死をもって既に終焉に向かっていたのかもしれません。戦略的な点からということだけでなく、ルネッサンス的精神が大砲により敗れ去ったという意味においてもです。 そしてその精神は、現代に至るまで復活することはありません。それどころか、今はますます非人間性の時代であると、エルマンノ・オルミ監督は主張しているように思えます。 「あらゆる軍隊の高名な指揮官は祈りました。重火器は二度と人間に対して使われぬようにと」この言葉は今も「重火器」の部分だけを変えて使われ続けています。

<未来への警鐘>
この作品は、イタリア人であるエルマンノ・オルミ監督だからこその、ひとつの歴史観とも言えるでしょう。 そういえば今年は、マノエル・ド・オリヴェイラ監督の『永遠の語らい』という映画もありました。こちらは大航海時代に栄えたポルトガルの監督ならではといいましょうか。船旅でローマ、ギリシア、トルコと歴史の旅をしながら、現代に至るまでの西洋史、その中から今という時代をとらえようとした傑作でした。
このように、9.11以降、ヨーロッパ各国の巨匠と言われる監督たちが、自らの歴史観の中から現代をとらえなおそうとしはじめていることには大変興味を覚えると同時に、やっぱり何かを感じざるをえないところです。

メイルちょうだいケロッ

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