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カエル 予告篇に騙されて…


映画館で映画をご覧になると、本編の前に必ずかかる予告篇の数々。
それをを観て期待を膨らませることもあるし、興味もなかった映画だったのに、 予告篇を観て、「おもしろそうだな」と観た映画が意外に拾い物だったり。 反対に、あまりに予告篇とイメージが違いすぎて、つい「だまされた!」と 地団駄踏むこともあったりする。みなさんにも心当たりがあるかと思います。

わずか90秒でその映画の魅力を語る…今回は、こんな離れ業をやってのける映画の予告篇たちのお話です。

<思わず拍手したくなる見事な予告篇>
まずは『トーク・トゥ・ハー』の予告篇を見てみよう。
本編を観たあとであらためて予告を観ると、その編集のうまさにはうなってしまう。
冒頭はもっとも緊張感のある闘牛のシーンを入れている。そしてそのすぐ後に女闘牛士がひとりの男とバーのカウンターで話している、 その女性らしいしっとりとした表情を映し出す。「トーク・トゥ・ハー」というタイトルが入る。 次は、もうひとりの女がバレエ教室でダンスの稽古をしている様子とそれをじっとみつめるもうひとりの男のカット・バック。それに続い て、男が落し物を届けに行くところ、彼女との出会いを思わせるシーンに続く。 ここで再びタイトル「トーク・トゥ・ハー」。男が女に話しかける・・・ 二組の男女の出会いを印象づけさせる。

ここで、一転精神科を訪れる男の会話が入る。
「悩みがあるからここに来たのではないかな」「いえ、ちょっと孤独なだけです」
なぜこの男はちょっと孤独なのか…。
女闘牛士の事故、そしてダンサーの交通事故を想像させる短いカットがインサートされると、 パッと病院のシーンに切り替わり・・・「愛する女をみつめるふたりの男」が 彼女たちを介護している様子が挿入される。眠った女たちを車椅子に乗せ、 まるで会話させているかのようなカットをちらりと入れるあたりがニクい。
そしてイメージ・カット的に実はラストで使われているモダン・バレエの舞台が挿入 され、その場面で使われている音楽がここから入ってくるのだ。
以下この音楽にあわせて、何事か事件がおこったことを想像させるカットが ストーリーの順番を無視してランダムに挿入されていく。
男は一体彼女に何をしたのか…彼女たちの運命は…。

観たくなるじゃないですか…。 小説でもなんでその先が観たくなるから、引き込まれてしまうのだ。推理小説だけでなく、普通の小説だってこのミステリーの部分が 大切だと思う。予告篇にも同じことが言えるのじゃないだろうか。一番いいところは見せられないけれど、印象的な場面をちらりと見せて くれて、かつ内容を想像させ期待を抱かせる。こんな予告篇には拍手を贈りたくなってしまう。


<そりゃ詐欺とちゃいますか?〜週刊誌の記事から〜>
「兵力を補うために戦闘員として海上に送り込んだのはまだ幼い少年たちだった。
さようなら、かあさん。今だけはすべてを忘れて、僕はひとりの戦士となります」


みなさん、これは何の予告篇のコピーかおわかりですね。
そう、『マスター・アンド・コマンダー』ですね。

これは最近週刊誌で読んだのですが……。
ハワイで一足先にこの映画を観たファンが、日本の映画館でかかっていた 予告篇を観てびっくり。あまりにも内容とかけ離れていたために、 配給元に猛抗議。ついには日本広告審査機構(JARO)が動き出す騒ぎと なっているというのだ。

確かにこの予告篇を観て想像する内容は……。
大勢の海軍の兵士が犠牲になって、いよいよ窮地に追い込まれた英国が日本の太平洋戦争じゃないけれど、 少年兵まで戦力として投入しはじめた。それぞれが国に残してきた母親、兄弟たちのために死をも恐れず闘いぬく。 時に友を失い、つらい思いをするが、少年たちはラッセル・クロウ演じる艦長を信じて闘いぬいた。 そんな愛と感動のドラマといったところか。
ところが、この映画は『グラディエーター』で当たったラッセル・クロウの"強い男の生き様第二弾的" 作品だということで、なるべく女性の客層を映画に取り込もうとする日本では、 いかにもありそうなことだと思った。
(私はまだ、映画を観ていないからなんとも言えないことではあるのだけれども)

そもそも私ははっきりいってこの内容では映画は見に行かないと思う。
七つの海を制覇した英国海軍にはいくら窮地に追いこまれたとてそんな事実はないし、 ましてやまだ中学生や下手したら小学生くらいの男の子を戦闘員として送り込むなんて、 あまりにも荒唐無稽なのである。
海賊ジャックが相手の子供向けお伽話というのなら、まだわかる。ところが相手はナポレオンの軍隊ですぞ。 いくらなんでもそりゃないんじゃないの?
ただ、ピーター・ウイアーがそんな映画を作るはずがないんだが…と、思っていたところのこの記事であった。


<唖然(゚o゚)すりかえられた(?!)予告篇〜実体験から〜>
冒頭にも書いたが、「予告篇に騙されちゃったよ」…こんな経験は誰しも持っていることだろう。
予告編を観てやたら笑えてきっと面白いコメディに違いないと思って観にいったら、面白いところは予告で紹介されている場面がそのすべ てだったとか…
好きな俳優が出ていたので観にいったら、ちょっとしか出てこなかったとか…
上手に編集されていて、予告篇が本編よりも優れていたなんて摩訶不思議なことさえも時にはあった。
「予告篇に騙されちゃったよ」の中には、まあよくもまあこのつまらない映画をここまで面白そうに見せたものだという、呆れとも賞賛と もつかない不思議な気持ちが入り混じっていたりしたものである。

ところが、最近は予告と内容がまるで違っていて腹がたってしかたがない。そんなことが確かに増えてきていたのである。
何も『マスター・アンド・コマンダー』が最初ではない。 『ギャング・オブ・ニューヨーク』だって、硬派な話にも関わらず、 ディカプリオとキャメロン・ディアス、ダニエル・デイ・ルイスの恋愛ドラマのようにして売っていたではないか。
ツァイ・ミンリャン監督の『ふたつの時、ふたりの時間』なんて、 あまりの違いに腹が立つやら疲れるやら…いい映画ではあるのだが…それでもあまりのことに本気で金返せ!って思っちゃったのだ。

『ふたつの時、ふたりの時間』は、果たして一体どこでどうやって内容がすりかわってしまったのか。ちょっと具体的に書いてみよう
予告篇の中ではふたりの若い男女が登場する。シャオカンとシアンチーふたりがどういう関係なのかは明らかではない。 パリと台北それぞれ同じ時間、孤独な時間を生きるふたり。ふたりはなんらかの理由で別れてしまったのか…。
パリの彼女が電話をかける。台北ではシャオカンが電話に出る。ふたりの会話が続く。 遠くに離れたふたりはその孤独な気持ちをお互いにぶつけあっているのだろうか。

…シャオカンは、台北の街中の時計を彼女のいるパリの時間にあわせていく。シャオカンが観ているテレビには『大人は判ってく れない』が映っている。それと同じ頃、彼女のほうは、本物のジャン・ピエール・レオーに遭遇する。 ちょっとロマンティックな映画かな…そんな想像をしてしまった。

ところが映画を実際に観てみると、男女ふたりの出逢いはただ単に腕時計の売り買いを街中でしたということでしかない。 ふたりはもちろん電話番号を教えあうわけでもなく、さしたる会話をするわけでもなく、ましてや恋心を抱くということでもない。
予告篇でふたりが電話で会話をしているように見えたのは、電話を取る彼の姿に彼女の声をかぶせ、 彼女の姿に彼の声をかぶせた結果に過ぎなかったのだ。これぞ編集のマジックというべきか。唖然とした。

それだけではない。ロマンティックどころか、実際は随分きびしくつらい映画であった。
映画の冒頭でシャオカンの父親が亡くなり、彼と母親が後に残されるのだが、母は夫の魂を呼び戻そうと祈り続け、 狂ったようになってしまう。そんな母親をどうすることもできず、遠い世界に思いをはせるシャオカン。彼は街中の時計 をパリの時間にあわせていく…とてもじゃないが予告編からはこんな物語は想像もつかない。
父親が亡くなった描写も、母親が狂ったようになったしまう描写も予告篇にはまったく出てこなかったし、 触れられさえもしなかったからだ。
公開時コピーは「台北−パリ めぐり逢わない愛」コピーは確かに間違ってはいないのだが、 電話の描写があったためにまったく違うイメージを抱いてしまい、かえって想像力をより間違った 方向へ導く結果となってしまった。

一般のファン(監督の名前など気にもとめずに映画を観にくる観客)にとっては、予告篇や雑誌の紹介記事がすべてである。 これではほとんどの人が騙されたと感じてしまうのではないかと思う。
恋愛映画を期待して観にいったら、アクション映画だった。ロマンティックな映画を観にいったつもりだったのに、 実際は人の死やそれを乗り越えようとする人、孤独と闘う人たちの深刻なドラマだった。 これではせっかくの映画も台無しになってしまう。
いくら良い映画でも期待したものと違ってしまえば、映画の最後まで戸惑いを感じながら観ることとなってしまう。 その映画を本当は観たいであろう観客を映画館から遠ざけ、知っていれば観なかった人たちを映画館に呼ぶことになる。 これではその映画にとっても、観客にとっても不幸なだけである。もっと早く怒りの声は挙げるべきだったのかもしれない。

それゆえ日本広告審査機構(JARO)が動き出すという記事を読んで、遂にというよりはやっとという感じを持ったのである。

<予告篇作りの苦労と葛藤>
現在予告篇は主に予告篇の制作プロダクションが作っている。
洋画の配給本数が増える中、これでは間に合わないということで、外注が増え、 こういった会社が幾つも立ちあがっていったという。
もちろん、予告篇作りはこうしたプロ集団のひとりひとりの感性がモノをいってくる。アクション映画が得意な人もいれば、 恋愛映画が得意な人もいる。あまり凝り過ぎても観客はついてきてくれないし、何より観客に観たいと思わせるものを 作らなければならない。考えてみれば難しい仕事であると思う。

「映画は予告篇が面白い」(光文社文庫)という本の中にこんなことが書かれていた。
『アメリ』は女の人に受けていますけれど、僕が見た感じでは、 どちらかというと懐かしい雰囲気があって、女の人に受けるというよりは、その懐かしい雰囲気を 出したいと思って予告篇を作りました…あまり変な小細工をしないで、その雰囲気をうまく出せて映画が当たれば 一番いいと思います。」(…小松敏和氏)

とても良心的で好感が持てる。
そして何より映画に対して愛情が感じられるではないか。 そりゃ予告篇制作は映画をヒットさせることが仕事。つまらない映画も面白そうに見せなければならないと いう宿命を背負っている。けれども大切なのはそんな心ではないかと私は思うのだ。

この本を読む限り予告篇を作る人たちというのは、大体において良心的である。
ではなぜこんな批判まで出てくるような予告篇がこれだけ出てきてしまうのか。 面白そうに見せるだけでは足りないのだろうか。
その理由は映画の観客層が圧倒的に女性が多いということによるものらしい。汗臭いアクション映画は女性には受けない。 恋愛が入らなければ女性には受けない。歴史(史劇)ものは入らない。

そこで映画会社は、予告編の制作プロダクションに無理難題をふっかけてくる。
「暗いと人が来ないからできるだけ明るくしてくれ」
「この映画は地味な映画だから派手にしてくれ」
「アクション映画なのだけれどそれだと女の人が来ないからラブ・ストーリーにしてくれ」
そういえば『ギャング・オブ・ニューヨーク』も『ふたつの時、ふたりの時間』も『マスター・アンド・コマンダー』も、 この方針によって作られているなという気がする。

予告篇の制作プロダクションは、映画会社とは下請けのような関係がある。いくら作り手が良心的であったとしても、 こうした無理難題を跳ね返していたのでは、たちまち会社が立ち行かなくなってしまう。 その辺の苦しい事情もあるようだ。
先の『アメリ』の予告篇は、映画会社が比較的自由に作らせてくれた結果、いいものが出来たということも本の中で語られていた。

儲かるなら観客を騙してもいい。そんな映画会社は、おおまかな方向性を出すにとどめ、これからはこうしたプロ集団に まかせたらどうであろうか。きっといいものができると思うのだが。

さらに言うならば、昔行われていた「予告篇大賞」(予告篇のコンクール)をもう一度復活させてはどうだろうか。
それはいい人材を育てるという意味で映画会社にもプラスになるし、観客にとっても小手先の「騙し」にあわずにすむ、 という点でプラスになると思うのだがいかがなものだろうか。

[追記]
その後『マスター・アンド・コマンダー』は今までの予告篇を別のものと差し替えて流しているようです。 やっぱり声は挙げてみるものですなぁ。

メイルちょうだいケロッ

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