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カエル 『サンセット大通り』の虚と実



@『サンセット大通り』が出来るまで…

『サンセット大通り』は、ハリウッド神話の舞台裏を描いた映画である。ビリー・ワイルダー監督は かつてのサイレント映画の大スタアノーマ・デズモンド役に本物のかつての大スアを割り当てる構想をする。そのため、その配役探しには、 映画と同じくらい興味深いエピソードがつまっている。

メイ・ウエスト …メイ・ウェストの場合…
ビリー・ワイルダーは最初、主演女優に、メイ・ウェスト(左写真)を考えていた。1930年代から 40年代まで活躍していた女優だ。(さすがに私もこの人の映画は観たことがない)。40歳を過ぎてからハリウッド・デビューをして、 私はハリウッド一のグラマー女優とうそぶいていたというスゴイ!人である。60歳を過ぎてからも当時新進女優だった ラクウェル・ウェルチと男を奪い合ったという 逸話も残っているほどで、その厚顔さには恐れ入る。

けれども、ビリー・ワイルダーがまず最初に彼女をと考えたのにはとても納得がいく。彼女はインタ ビューで常日頃、「私はセックスを恥ずべきものではなく、ユーモアと陽気さに包んで描いている…」と語っていた。 これは後の彼の作品『お熱いのがお好き』『七年目の浮気』にも通じてくるテーマそのものであ る。彼女の実人生ともだぶって、ちょっと下品で明るいコメディになったのではなかろうか。

しかし、実際に彼女に会って見てワイルダーは驚愕する。「彼女はできるだけ若く見せようとしていた。コルセットで身体をしめつけ、 1920年代当時の服装をしている。本当の年齢を知りたければ、彼女の足を切断して年輪を調べるしかあるまい…。(注:化粧が濃いと いう意味、彼女はすでに60歳くらいのはず)話をしていると、不意に彼女は言った。『何か歌いましょうか』私は驚愕を隠しながら、感 謝の言葉を述べた。計画は白紙に戻った。」(『ビリー・ワイルダー自作自伝』より) これでは、まるでワイルダー自身がウィリアム・ホールデンになってしまったようで、非常に可笑し い。もしかすると、この実体験は、『サンセット大通り』の脚本を書く上での参考資料となって いるのではなかろうか。

ポーラ・ネグリ …ポーラ・ネグリの場合…
次にワイルダーは、グロリア・スワンソンと並ぶサイレントの大スタア、 ポーラ・ネグリ(左写真)に声をかける。彼女はスワンソンとは私生活においてもライバル同士で、彼女が伯爵と結婚したと聞けば、 自分もポーランドの伯爵と結婚するほどだった。またふたりの中傷合戦は当時のマスコミをずいぶん賑わせたという。彼女はまた恋多き女 としても有名で、『サンセット大通り』にも名前が出てくるルドルフ・ヴァレンチノの最後の恋 人でもあり、チャップリンとも浮名を流したことがあった。
トーキーと共にドイツに帰国し、39年にまたアメリカに戻ってきたが、その後は一本映画に出たっきり、表舞台には現れていなかった。

ワイルダーは今度は、メイ・ウエストと同じ轍は踏まなかった。 電話で出演の依頼をしようと考えたのだ。(もっとも、彼女がヨーロッパに住んでいるという事情もあったのだが)しかし、電話の向こう から聞こえてきた声はすさまじい声だった。しかも悪いことにそれは執事のものではなく、確かにポーラ・ネ グリ本人のものだった。「現在で言えば、彼女のできる役はワレサ大統領くらいのものだった よ」(『ビリー・ワイルダー自作自伝』より)またしても失敗だった。

メアリー・ピックフォード …メアリー・ピックフォードの場合…
アメリカン・スイートハート。アメリカの恋人。リリアン・ギッシュと同じくアメリカ映画の父 D・W・グリフィスの映画から育った、純情可憐なサイレントの花、それがメアリー・ピックフォード(左写真) だ。ダグラス・フェアバンクスと結婚しハリウッドに築いた御殿には、ヨーロッパの貴族から ハリウッドのスタア、角界の著名人が招かれ、ハリウッド一の社交場となっていた。チャップリンやグリフィ スユナイテッド・アーティストをお越し映画業界への貢献度も高い。そんな彼女も30を過 ぎても少女の役から脱皮することができないまま、1935年には女優から引退していた。

引退していたとはいうものの、メアリー・ピックフォードは幸い興味を示してくれ、どうにかセリフ をしゃべってもらえるところにまでこぎつけることができた。今度こそ…しかし、ワイルダーはここ でまた愕然してしまう。
「目の前にいたのは65歳のシャーリー・テンプルだった。彼女が演じていたのは依然としてお金も ちのお嬢ちゃんだったわけだ。ママが子守唄を歌いに来てくれるのをじっと待っている少女、といったところだった」(『ビリー・ワイル ダー自作自伝』より)

三者三様だが、ここにハリウッド映画人の悲劇が見え隠れする。大スタアだった頃のイメージでしか演技できない彼女たち。サイレント だからこそ大スタアだったことの悲劇。ハリウッドによってイメージを固定化されたメアリー・ピックフォードは一時期イメージ・チェン ジを図ったことがある。しかし、そうした映画は大衆には受け容れられず、結局女優生命を縮めることになる。それにも関わらず、この チャンスに結局は昔のままの演技しかできない彼女。これが悲劇でなくてなんなのだろうか。

『サンセット大通り』グロリア・スワンソンのイメージによるところも大きいが、 ワイルダーのこうした実体験を経て、次第にコメディから、皮肉な色合いを強めていったのではないか。そんな気さえしてしまうの である。


スワンソン Aグロリア・スワンソンが企画を受け入れるまで…

往年のサイレント時代の大スタアが、今は落ちぶれて、ただっ広い誰もいない屋敷の中で、過去の幻に囲まれながら生活しているという、 考え様によってはキャリアの上で致命的にもなりかねないこの企画。
しかも、大作映画のスクリーンテストを受けないかという依頼である。かつてパラマウントを背負ってたった大女優にとってスクリーン・ テストは縁のない世界だった…彼女はなぜこれを受け容れたのか。

それはジョージ・キューカーの助言が大きかったと言われている。 ジョージ・キューカー監督といえば、女優を引き立てる名手。『風と共に去りぬ』の監督を降ろされたあとも、 ヴィヴィアン・リーが役の相談をしにいっていたというのは有名な話だ。「スクリーン・テストを拒否するのは無分別というものな のだろうか」という彼女の問いに「ビリー・ワイルダー、チャールズ・ブラケットならパラマウントきっての逸材だ。二人組んで『失われ た週末』『フォーリン・アフェア』を送り出している。彼らがスクリーン・テストを10回受けろと言ったら10回受けたまえ」

もうひとつ彼女がこの映画の出演を受け容れたのは、彼女の余裕からきているのかもしれない。当時映画界を引退していた彼女は、実業化 として活躍していたので、ノーマ・デズモンドのように落ちぶれたというイメージは微塵もなかったのである。ハリウッドとニューヨーク の両方に自宅を持ち、優雅に暮らしていた。撮影中はマルホランド・ドライヴで借家を借りきり、そこからサンセット大通りにある、ノー マの邸宅として使われたジャン・ポール・ゲティの20年代に建てられたという屋敷に、あるいはパラマウント撮影所に通ったそうである。 (『マルホランド・ドライヴ』は多分にこの辺りを意識して作っているように思う。)

パラマウント撮影所での初仕事である宣伝用写真を撮る際には、セシル ・B・デミルどころじゃなく、パラマウントの創始者で、当時は名誉会長になっていた、 老アドルフ・ズーカーが直々に出迎えたそうである。ここにはノーマ・デスモンドの影はない。


スワンソン Bグロリアとノーマの境界…

劇中、退屈になったウィリアム・ホールデンの気を惹くため、ノーマ・デズモンドは彼の前でパフォ ーマンスをして見せる。ひとつがグロリア、マック・セネットの時代の海水着美人で、もちろんその 時代に自分が実際に着けていた格子縞の大きな蝶リボンに似たものを選んで頭に飾っている。そして何とも愉快なチャップリンの物真似。 こちらは、1923年のアラン・ドワン監督『嬲られ者』 のワン・シーンのまさに再現である。

この辺は後に『お熱いのがお好き』で、ジョージ・ラフトに往年の役柄を振り当て、 マリリン・モンローベティ・ブープをやらせたビリー・ワイル ダーらしい遊び心を感じさせる。

それに応えたグロリア・スワンソンもまたこの映画のために、自宅の自身の肖像画や、古風な額縁入 りのスチール写真を多数提供し、それらはノーマ・デズモンドの屋敷によりリアルさを与えていた。
インタビューで彼女は「若い人は私とあのノーマ・デスモンドを混同して困るのよ」と語っているが、それも無理なからぬことである。 以下、映画と現実の戦慄?すべき共通点などを挙げていこう。


スワンソン C幻の劇中映画…

ウィリアム・ホールデングロリア・スワンソンが一緒に かつてのノーマ・デズモンドの映画を観るシーンがある。映写しているのは執事役のエリッヒ・フォン・シュ トロハイム。それを観てホールデンは空恐ろしさを感じる。

この劇中映画のタイトルは『クイーン・ケリー』なんとエリッヒ・フォン・シュトロハイム監督グロリア・スワンソン主演の本物の映画である。監督自身が上映をし主演女優が映画を観る!しかも この映画は曰くつきで、アメリカではお蔵入りになってしまった作品なのだ。製作はケネディ大統領の父親 ジョセフ・P・ケネディ。(ふたりは密かに付き合っていた)

例によっていつ果てるともしれない長い撮影期間と膨大な制作費、日に日に異様さを増してくるシュトロハイ ムの演出。脚本ではダンス・ホールと書かれてるものは、いつしか売春窟に変わっている。死期の迫ったおばが嫁ぎ先に選んだ男は、結婚指輪をはめながら、手によだ れを垂らす変人に変えられている。グロリア・スワンソンはついにたまらず撮影途中で現場から逃げ 出してしまう。「ジョセフ、あなた早く手を引いたほうがよくてよ。私たちの監督は気が狂っているんだわ」

映画は完成せず、ふたりのキャリアにとっても壊滅的な打撃になってしまった。言うまでもなく、エリッヒ・ フォン・シュトロハイムとスワンソンはこれを最後に二度とふたりで映画を作っていない。

それにしても20年後、再びこうしてこの映画をふたりで観る日が来ようとは、彼らにも想像できなかったに違いない。この映画のお陰で、 今ではセピア色になった思い出として、ふたりは昔話に花を咲かせ、友情を取り戻したようである。「実際ことによると、本当に公開でき るのじゃないかしら」とは、ノーマ・デズモンドならぬグロリア・スワンソンの弁


アンナ・Q・ニルソン D蝋人形たちのブリッジ…

とても印象的なシーンにかつての俳優仲間が集まって、ブリッジをしているところがある。それを見たウィリ アム・ホールデンは「まるで蝋人形のようだ」とつぶやく。

このブリッジ仲間のメンバーは、すべてサイレント時代の大スタアたちである。バスター・キートン は言わずと知れたチャップリンと並ぶかつての喜劇王。しかし、その頃の キートンはかれこれ5年の間もキャメラの前でドーランを塗ることがなくなっていた。自伝によれば1941年から49年の間の重 要な仕事といえば、パリのサーカスで4週間講演したことくらいだったという。 アンナ・Q・ニルソン(左写真)は20年代のワーナーの大作映画の主演女優で、乗馬中の事故で女優 生命を失った。H・B・ワーナーデミル 『キング・オブ・キングス』でキリスト役をつとめ、『舞姫ザザ』では グロリア・スワンソンの相手役をつとめたほど の俳優だった。彼もまたこの頃すでに仕事はない。

グロリア・スワンソンは後にこのシーンを回想している。「H・B・ワーナーは何か儚げで、ほとん ど透明のように見えた。バスター・キーンは、アルコールでボロボロになっているように見えた。彼と私が最後に時間を共有した頃は、彼 はナタリー・タルマッジと結婚しており、私はファレーズ侯爵夫人だった…」
グロリア・スワンソンの「出演者にとっては、きわめて自己発見的なもの、何か分析するのも辛いも のになるに違いないという恐ろしい不安に襲われた」という危惧は、このシーンで現実のものとなったようだ。

「蝋人形とは言い得て妙だね」撮影中バスター・キートンは映画そのままのあの無表情な顔でそうつ ぶやいた。バスター・キートンは自伝の中では、この映画についてのコメントを避けているようだ。 ただ一行の記述の後、その後に企画された自身の自伝映画の企画のほうをことさらに強調している。プライドの高い キートンのこと、自伝映画を作ってもらうというのがあったために、出演を断れなかったという事情があったように思えてしかたない。


セシル・B・デミル Eデミル氏とスワンソン嬢…

ノーマ・デスモンドがパラマウント撮影所セシル・B・デミル を訪ねていくシーンはとても残酷で印象が深い。影所の入り口に今ではもうクラシック・カーとなってしまった車で乗り込んでいく。若い 守衛はもう彼女のことを知るわけもなく、中に入れない。騒ぎを見て出てきた年寄りの守衛さんが、彼女を見つけてくれたお陰でやっと中 に入れる。ここに現実と彼女の幻想とのギャップが凝縮している。 デミルは撮っている映画『サムソンとデリラ』(彼が撮影中の本物の映画のセットです)を中断して 彼女を迎え入れる。この会話のやりとりは、まさに彼とグロリア・スワンソンとの関係を彷彿とさせ るものがある。

「デミルが私に贅沢を教えてしまったの」後年淀川長治氏が、彼女の自宅を訪ねたときに彼女の漏ら した言葉は、真実である。元々彼女は、チャップリンも所属したマック ・セネットの撮影所の海水着美人として映画デビューをしている。それをセシル・B・デミル が拾い大スタアに仕立て上げたのである。1919年から21年の間には、『男性と女性』などデミル映画に何本立て続けに出演している。 デミル映画のモットーは贅沢で、パリからデザイナーを呼んで、スワンソンにバビロニアの女王のよ うなコスチュームをさせ、贅沢三昧な女に仕立て上げた。映画の中でも、ベッドの上にライオンの子供をはべらせ、彼女とじゃれさせ、庭 には孔雀と、豪華さを際だ立たせる演出をした。

デミルは彼女を非常に可愛がり、彼女の要求が会社に通らないときなど、助け舟を差し出した。 「お月さまを取ってと会社に言ってごらん。望みが叶うように私ができるだけのことをしてあげるから」

『サンセット大通り』の彼女の部屋はサテンとフリルで飾り立てベッドは金色という豪華さなのだが、これらはすべて デミルの映画のイメージから来ているようだ。不気味な猿の葬式シーンには、ビリー・ワイルダー のこうしたものへの皮肉な目を特に感じるところだ。

デミルは最初、この役を演じるに当たって、グロリア・スワンソン に不安を漏らしていたという。グロリア・スワンソンは、デミル との対面シーンを演じるに当たって、演技に対して不安がるデミルにアドバイスをする。「あなたご 自身になりきれれば、きっと素晴らしくなりますわ」

彼女自身もこのシーンを演じるのに当たって、イーディス・ヘッドと共同で衣裳を考え出した。 デミル監督『男性と女性』の彼女がベッドでライオンの子と寝ているというシーンに使った衣裳を元にして、孔雀の羽をあしらっ た帽子をあつらえた。きっと、デミル自身これが映画なのか、現実なのか頭が混乱しそうになったの ではないだろうか。映画での彼は誠に堂々としていて、真に迫っていた。彼が映画の中でノーマ・デズモンドに「ヤング・フェロー」と呼 びかけているのだが、これは彼が若い頃グロリアに対して使っていた呼びかけに他ならない。


シュトロハイム Fハリウッド期待の3人…

ノーマ・デズモンドの執事マックスの衝撃の告白「かつて、ハリウッドの創世記に最も期待された監督がいたんだ。 グリフィス、デミル、そしてもうひとりがこの私だ」…この私は映画ではもちろん別の名前になっていたが、そのもうひとりとは紛 れもなく、エリッヒ・フォン・シュトロハイム監督自身のことである。

謎の多い人物で一応貴族出身という振れ込みで売っていたのだが、それは嘘である。実際は商人である両親の元に生まれたユダヤ人であっ たという。グリフィス監督の映画で俳優としてデビューしたのち、監督となり、『アルプス颪』 『愚かなる妻』『グリード』など数々の名作を残している。しかしながら、完全主義で奇行も多く、映画会社とはあちらこちらでトラブル をおこし、先ほども挙げた『クイーン・ケリー』の後は、ついにまともに公開された映画は一本としてなかった。

1936年にMGMで再び監督をして以降は、意欲がありながらも、ついに監督することができず、俳優職に甘んじている。 『大いなる幻影』そしてこの『サンセット大通り』

マックスはノーマ・デスモンドの執事となりながらもそれにしがみついて生きている男だったが、シュトロ ハイムもまた、決して本位ではない俳優業でハリウッドにしがみついていたという点で共通点はなかろうか。 映画を作る意欲はあるのに、作れない自らの運命。そしていまだ全盛を誇るかつてのライヴァル、セシル・ B・デミルに運転手として会いに行くという映画の中での役柄。彼の気持ちはいかほどだったかと想像しないではいられない。 マックスの静かさの中にも煮えたぎるような思い、私にはそれとシュトロハイムの映画への思いが 二重映しになり、なんだか物悲しい気持になってしまう。

映画のラストシーンで、マックスは頭のおかしくなったノーマ・デズモンドに対して、生涯最後の「アクション」の声を掛けるのだが、そ の時の彼の悲しいようななんともいえない表情は、真に迫っている。それもそのはず、これはシュトロハイム 自身にとっても10数年振りの、しかもおそらく生涯最後の掛け声になってしまったからだ。彼は57年にはもう亡くなるので、 それでもこれがハリウッドにおける最後の栄光の瞬間(オスカーにもノミネート)ではあったのだが…。



<参考資料>
「グロリア・スワンソン自伝」グロリア・スワンソン著
「ビリー・ワイルダー自作自伝」ヘルムート・カラゼク著
「バスター・キートン自伝」バスター・キートン著
「ハリウッドの黄金時代」川本三郎著
「淀川長治自伝」淀川長治著
「世界映画人名辞典男女優編」キネマ旬報増刊


メイルちょうだいケロッ

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