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カエル 『道楽シネマ評』…『ダンサー・イン・ザ・ダーク』他



『エクソシスト』

さてさて27年ぶりに『エクソシスト』を観てきました。
実は今度はこの映画、音とかには驚かされたのだけれど、仕掛けの数々に目を覆うようなことはさすがになくなった。このへんは時代の古さな のでしょう。

ただ、この映画から日常の中にも悪魔が存在しているんだというイマジネーションが涌いてくる。こうした感じは、この歳になったからな のかもしれない。そう意味での恐怖がこの映画にあるところが、ただのオカルト映画とはひと味違うと思う。

リーガンの顔がどんどん豹変していくさまは、まさに病気を思わされる。病院に行き検査をするシーンが何回も挿入されるので、いっそう そんな思いが強くなる。結果が出るまで執拗に苦痛を伴う検査をする医師たち。それで為す術もなく、焦りばかりが募る肉親。自分の変化 に不安を募らせる病人。これは本当に怖い。まさに私にとっては実体験と重なってくるということもあるが…。

ラスト・シーン、リーガンは、母親に対しては「覚えていない」と言いながら、実は何があったかわかっていたところが以前観た時には わからなかった。神父さんにキスをする時、カメラがぐっと首のところに寄る。そして彼女の一瞬の表情、それは彼女の記憶の中に、カラ ス神父を殺そうとしたシーンが甦ったことを意味しているようだ。家を出ていく彼女がまるで退院して家に帰っていく子供のようにも見え る。健気にも、元気を装っているその姿が痛々しい。

もうひとつの恐怖…
彼女と一度も現れない父親との関係。母親の恋人に少しばかりいやな気持ちをもつ少女。幸福そうに見えた彼女たち親子の間にも不幸が潜 んでいるということ。現実の社会でも、少女が悪魔に憑かれないまでも、いつか爆発したとしたら…という風にそのまま置きかえられる。 映画の中ので犠牲になるのは、ファーザーと、母親の恋人だ。これは彼女の潜在意識の延長線上に浮かび上がってくる人物たちに他ならな い。


『ゲット・ア・チャンス!』

ポール・ニューマン主演の『ゲット・ア・チャンス!』は、犯罪映画なのであるが、いまどきのアメリカ映画と違い、一切の暴力シーンが ない。彼が「引退宣言」をしたのは記憶に新しいところであるが、その時に彼が言うには、「今のアメリカ映画は、派手な暴力シーンがあ るだけで、ハートのある娯楽映画がない」それで自分が出るような作品がないから、引退するというのだ。彼が、この映画への出演を決め たのは、まさにこの点、「映画にハートがある」というところだったのではないだろうか。

思い起こせば、彼の出演してきた映画には、不必要な暴力シーンはなかったように思う。『明日に向かって撃て!』のブッチ・キャシディ一 に到っては、あれほど数々の強盗を重ねながら、一度も人を撃ったことがなかったというオチさえついている。

この映画には、彼の「派手な撃ち合いなんかなくたって、楽しい映画はできるんだ」というメッセージが込められているような気がする。

製作は、リドリーとトニーのスコット兄弟。トニー・スコットと言えば、『エネミー・オブ・アメリカ』をすぐに連想してしまう。この 映画では、ジーン・ハックマン扮する情報屋が、まるで『カンバーセーション盗聴』の人物が、再び現れたかのような演出がされていた のが、印象に残っている。特に彼の若き日の写真が挿入されるのだが、それが『カンバーセーション盗聴』の時の写真を使っていたという こともあって、それがまさに確信に変った時は、嬉しくなったものだった。

それで『ゲット・ア・チャンス!』でも、再びポール・ニューマンの過去のキャラクターが戻ってきたかのような、遊び心がほどこされて いる。

若き頃に銀行強盗で名をなした彼は、終身刑で刑務所に入れられる。が老齢になり、ある決意を胸に呆けたふりをひたすら、何年もしつづ け偽の心臓発作までおこして、ついに刑務所を脱出、見張りのない老人ホームに移されたときを狙って、脱走を図る。 何をされても動じない、この根性。これはまるで、不屈の精神で、ゆで卵を何十個も食いつくし、脱獄を重ねた『暴力脱獄』の主人公を思 い出させる。こんなことができるのは、彼以外には考えられない。

この映画は、ポール・ニューマンの個性を柱に、アメリカの典型的な話が絡んでいく。
高校時代は、学園のクイーンに選ばれ、やはりキングになった男の子と絵に描いたような恋愛をし、皆からの羨望を一心に集める。よくあ るアメリカのヒロイン物語…。

彼女にとっては、将来も薔薇色に見えたはずなのだが、そのまま学生時代の延長で男と結婚してみたら、相も変わらぬ単調な毎日が続き、 将来の夢も希望もいつしか消えていく。今では、クイーンになったことなど何の意味も持たず、回りに自分も同化していく。その時になっ て、自分が特別の存在に思えた刺激的な日々は、ただの幻想に過ぎなかったことにはじめて気付く。けれどもそこから脱出したいと思いつ つも、いまさら、すっかり生活基盤がこの街に根付いてしまっていては、そんな冒険をすることは不可能…というわけで、これはまさに 地方都市の閉塞感の典型となる。

そんな女性が、ポール・ニューマンの出現によって、人生を変えていくのは自然の流れである。「彼と銀行強盗をしよう」
しかし、この映画が残念なのは、意外に彼女の閉塞感が出ていないことだ。銀行強盗をするまでの追いつめられた感じがない。ただの好奇 心、いたずら心の延長、『ティファニーで朝食を』でオードリーが、お面を万引きする程度のいたずら気分にしか見えないことだ。 ポール・ニューマンといえば、いまさら銀行強盗なんてと思っているのであるが、彼女に触発されてやらざるを得なくなるのが、どういう 心の変化なのかが、まるで伝わってこない。彼女の魅力とも思えないし、彼女の動機自体もおぼろげに過ぎないからだ。

確かにピンチに陥った時の、ポール・ニューマンの飄々とした対応はユーモアがあって楽しいし、味がある。銀行強盗というよりは、「よっ !おしゃれ泥棒」と声をかけたくなるような、あくまでも老怪盗紳士の趣味の延長といったような楽しさもある。そういう点でも彼の個性 が遺憾なく発揮させられるせっかくの企画なのだが、動機の不明瞭さが要因で、平板な印象になってしまったのは否ない。それだけに惜し い作品になってしまった。ポール・ニューマンにはもうひと花咲かせてもらいたいのだけれど…。


『ダンサー・イン・ザ・ダーク』

昨年の暮れから、今年にかけて、どうもミュージカルがブームになりつつあるような感じがする。『恋の骨折り損』は、ミュージカル 黄金時代のまさに再現だったし、『リトル・ダンサー』はダンスの楽しさ、力を画面に溢れさせる。『ハート・オブ・ウーマン』では メル・ギブソンもダンスを披露?今度は『タップ・ドックス』というタップ・ダンスの映画もくるというではないですか。舞台も『キャバ レー』『フォッシー』が上演されるとなれば、ミュージカル・ファンにとっては、嬉しい限りだ。

『ダンサー・インサ・ダーク』は、ミュージカルが本来持っていた力を思い出させてくれる作品だった。
ミュージカル映画は、1940年代、50年代をピークにして、60年代にその質を変え、70年代に到っては、その姿を完全に変えてし う。話は単純だったけれど、とても楽しかった時代『略奪された七人の花嫁』『雨に唄えば』『バンド・ワゴン』。スクリーンが大型化し て、スタジオから外に飛び出した時代。『ウエストサイド物語』『サウンド・オブ・ミュージック』。そして社会問題が入りはじめた70 年代。『ヘアー』。そして、ミュージカル映画は急速に衰退していった。

時代は1960年代のアメリカ。丁度『サウンド・オブ・ミュージック』が大人気だったという時代設定がとてもいい。それで映画の中で、 主人公たちは、『サウンド・オブ・ミュージック』を上演しようとしている。主役のビョークは、『サウンド・オブ・ミュージック』の 歌が好きなだけでなく、故国チェコ版フレッド・アステアと呼ばれた、ダンサーが大好きで、タップ・ダンスのリズムにも魅せられている。 彼女は『サウンド・オブ・ミュージック』にはタップ・シーンがないにもかかわらず、ここでタップを入れたいなんてアイデアを出してい るのはとても微笑ましく思えた。

彼女の目がほとんど見えなくなってきた頃に、親友のカトリーヌ・ドヌーブと映画を見に行くのだけれど、そこで上映されているのは『4 2番街』だ。1930年代のワーナー・ブラザースのミュージカル。まだジンジャー・ロジャースが脇役で出ていた頃で、アステア&ロジャ ース以前の、タップ・ナンバーがイカしている初期のミュージカル映画だ。画面が見えないので、ドヌーブが、彼女の手に指でタップのリ ズムを刻んであげるのが、とても素敵だ。

「ミュージカル映画は、心配事など何もなく、とにかく楽しい世界だから好き」と映画の主人公は言う。工場のツライ作業の時、彼女 は、機械のリズムに耳を傾ける。すると、そのリズムがいつしか音楽に変わっていき、想像のミュージカルの世界が広がっていく。主役は 勿論自分自身。それに、ドヌーブを始め、工場の従業員一同が加わり、楽しいリズムが刻まれる。主人公が目が不自由だからこそ、感じ る音の世界の幸福。

この機械のリズムの音がやがて音楽になっていくというのは、アステアの『踊らん哉』のダンス・ナンバーにもあるので、監督はそれを充 分にふまえた上での演出と思われるのだけれど、目の不自由な人が想像を広げていく延長線上にあるということで、さらに説得力が生まれ ている。

ラス・フォン・トリアー監督は、ミュージカル映画をずいぶんと楽しんできたのではなかろうか。裁判所のシーンで、タップを踏むのは、 懐かしや『キャバレー』の司会者役ジョエル・グレイだ。こんな嬉しい使い方は、ミュージカル・ファンならではとも思える。

『奇跡の海』とこの作品は、似ていないようでいて、実は共通点が多い。主人公の女性があまりにも無垢であること。夫のために奇跡を起 こすこと、あるいは子供の目の手術のために、自己を犠牲にすること。そしてそれはあたかも自分の罪を贖うための贖罪のように見えてく ることなどである。神に歓びを見出すか、音楽に歓びを見出すか、その違いである。前作『奇跡の海』の信仰の対象が神であったのに対し て、信仰の対象がミュージカルに変ったのが本作のように思えてくる。

この映画の主人公は、往々にして女性には評判が悪いようである。「子供を産めば、目が遺伝するかもしれないのが判っていて、なぜ彼女 は子供を作るのか」けれども、「旦那と不仲でも、子供を産めばなんとかなるかも」こんな言葉を私は何度聞いただろうか。彼女が子供を 産みたいと思ったのも、女性の性がそうさせたのであり、責めることはできない。その代わりに彼女はその贖罪をしなければならなかった のだから、もうそれで充分にも思えるのだ。問題は産んでおいて、あと育てられないことのほうにある。(これは男の罪も大きいのだが)

この映画のテーマは、ミュージカル映画にしては確かにとても重い。女であることでの贖罪、人間であることの贖罪。こんなテーマをじっ くり描かれたら、嫌気がさしてしまう。けれどもこの映画は、現実が重ければ重いほど、ミュージカル・シーンになると、心地よい開放感 が広がってくるのが、不思議な味になっている。ビョークの歌、ダイナミックなカメラ・ワーク、群舞が一体となって、とてもいい気分に なってくる。「われわれは夢を見なければ死んでしまうのだ」と言ったのは、アルベルト・モラヴィアだったが、この映画はその夢の力、 想像力の力、その最も典型でもあるミュージカルの持つ力をこそ表現しているのではなかろうか。ミュージカルを好きな私は実はその部分 にこそ共感できたのかもしれない。

しかし、この映画のラスト・シーンだけは、私にはちょっといただけなかった。この映画の終幕、刑の執行官までが、苦しむという シーンがある。私はそんなシーンのある映画というのは初めて観たので、一瞬「死刑制度反対」のメッセージを含んでいるのかなと思った。 それならそれで納得もできる。『デッドマン・ウォーキング』での不快感は必要である。しかし、この映画はどう考えてもそういう展開で はなかったように思う。時代設定はそれにしては古すぎるし、裁判シーンを丁寧に描いていたわけでもないからだ。「死刑制度云々」は、 この映画のテーマではない。

子供のためと言ってはみたものの、刑の執行が近づくにつれて気持ちがぐらつき、そこではじめて自分の弱さを見つける。そこからまた決 心を固めていくその姿は子供のためというだけでなく、自分の贖罪のためにも見えてくる。
確かにそういうことなら結末はああなるしかない思う。それなら、果たして、あんなに丁寧に刑の執行を描く必要があるだろうかという 疑問が涌く。キリストの磔刑と重ね合わせたかったにしてもあまりにリアル過ぎで、その意図が私には理解できないのだ。

メイルちょうだいケロッ

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