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カエル 芸人魂…マルセ太郎さんを偲んで



「おめでとう、なんて言っている場合か。
文句はあっても、新年はいい。 一年刻みで今年もしぶとく」
…マルセ太郎


上は、マルセ太郎中毒患者会機関紙「さるさる」の冒頭に書かれたマルセ太郎氏の言葉である。
「おめでとう、などと言っている場合か」 というところに批判精神旺盛な彼らしさが垣間見れる。しかし、残念ながら「一年刻みで今年もしぶとく」とはならなかった。 1月22日逝去、67歳だった。

「一年刻みで今年もしぶとく」…マルセ氏は1995年以来肝臓癌を患い、 入退院を繰り返してきた。その中にありながら、舞台を続けて きた、その芸人魂。彼の舞台はいつも全身全霊でぶつかり、観るものを感動させずにはいられなかった。
マルセ太郎氏はあまりテレビには出てこないので、どういう人だか知らない方もいると思うので、そこでちょっとだけ、その芸歴を見てみ ることにしましょう。

1933年、大阪生まれ。
1954年、上京。マルセル・マルソーの舞台を見てパントマイムに興味を持ち、
    彼の名にちなんでマルセ太郎と命名。
1956年、日劇ミュージックホールにて、パントマイムでデビュー。
    その後スタミナトリオを結成、浅草演芸場、全国各地のキャバレーなどを回り芸を磨く。
    サルの形態模写で人気を博し、テレビ出演が増える。
1984年、映画「泥の河」をきっかけに映画再現芸というまったく新しいジャンル 開拓。
    小劇場ジャンジャン他全国的に活動を開始する。

<スクリーンのない映画館>
映画ファンの方の中には、『泥の河』、"映画再現芸"と言われれば、一度は聞いたことがある方も多いかとも思う。
「スクリーンのない映画館」…かくいう私も、こういうことを地道にやっている芸人さんがいるということは、 以前から知っていたのだが、なかなか見に行くまでには到らなかった一人なのである。
ようやく昨年、小劇場「ジャンジャン」が閉館するという時になって、しかも友人の熱心な誘いのおかげで、 重い腰を上げたのだった。それ以来、すっかり夢中になってしまい、どうやら「マルセ中毒」の初期症状に冒され、 さて今年も通いつめるぞと思っていた矢先の彼の訃報だったのだ。 残念で仕方がないという思いと、間に合って良かったという思いとが交叉している。

「スクリーンのない映画館」は単なる映画の紹介などではない。 舞台装置は、木の椅子(箱)がひとつあるだけ。上演時間2時間あまり、 彼がこれまで培ってきた芸のすべてが、ここに注ぎ込まれる。
パントマイム、物真似芸、話術(僕が芸人を辞めて、路上易者になっていたら「新宿の父になっていたろう」 (話術が達者という意味で)、そのすべてが一体となっている。病身から痩せていた身体から発せられる エネルギーたるや、すさまじいものがあった。

私が彼の舞台を観たのは全部で、わずかに6本。 映画では、『生きる』『泥の河』、『息子』、『ライム・ライト』。立体講談の『殺陣師段平物語』、 『中村秀十郎物語』
こうしてみると、そのどれもが弱者の視点に立っていることに気付かされる。 これは彼自身が元「在日」であることも関係しているかもしれない。日本人でもない、 かといって韓国に渡れば朝鮮人でもないといった彼の環境が、彼独自の批判精神を産んだのだろうか。 そして「スクリーンのない映画館」は再現芸という枠を超えて、そのどれもが 『マルセ太郎の生きる』『マルセ太郎のライム・ライト』になっていた。
例えば『生きる』は彼自身も癌である。『泥の河』は彼自身の貧しい少年時代の記憶につながり、『ライム・ライト』 は芸人としての彼の経験と結びつく。映画とはまた違った感動がそこにあるのだ。

<肝臓癌に冒されながら演じた『生きる』>
『生きる』…マルセ太郎氏は、この映画を人間喜劇と言い切る。 私などが観ると、まだとてもじゃないが人間喜劇などと言えるほど達観はしていない。
果たしてこの映画には希望があるのだろうかと、ラスト・シーン夕焼けをバックに、 渡辺勘治(志村喬)の作った公園を見下ろす、男の姿に自分を重ね合わせてしまうのだが、 彼の『生きる』を観ていると、本当にこれは人間喜劇なのだなと思えてきてしまう。

彼自身も癌に冒されていて、本来なら真に迫ってくるようなものが出てくるのではないかと思いがちだが、 さにあらず。本当に軽やかに、喜劇を演じている。 志村喬、左卜全、千秋実、伊藤雄之輔、これらの人物がまさに活き活きと目の前に現れる。ないはずの舞台装置が眼前 に広がってくる。

彼自身の体験が、合間にはさまれる。
「駅でお役所の一向がいて、誰かエライ人を見送りしているらしいんです。 ひとりの人を送るのに大変大勢でくりだして、ホームをふさいでいて、関係のない人たちには迷惑でしようがない。
僕も邪魔だ邪魔だ!そこを通らせろい!って肩で風切って通ろうかと思ったのですが、 気が弱いからそんなことはできません。それで観察してたら、面白いんです。彼らは決められたわけ でもないのに、どうもきちんと格付け順に並んでるのですな。部長がいて、課長がいて、 その下に係長がいて、ずっーと離れたところにまだ入ったばかりのペーペーがいる。 このぺーぺーまでくるともうあんまり遠いところにいるもんだから、柱の陰になって煙草をふかして、 関係のないほうなんか向いてたりなんかするの」

こうしゃべりながら、その模様を再現する。手を前にこすりながらペコペコするそのお 辞儀の仕方のうまいこと。

彼はこんなことを言っていた。
「コメディアンになるためにはどうあるべきか…まず人間を典型的に表現すること。 すると今度は人間への観察力というのが問題となる。 ぼくは喜劇の根底には批判精神が必要であると思っているのです」
本当に鋭い人間観察と思う。

<他人の視点で映画を観る>
こうした彼の人間観察に基づく体験、自分自身の体験が織りまれることによって、 さらに「スクリーンのない映画館」はマルセ的な空間になっていくのである。
『生きる』も、この体験談が挿入されたことによって、後半のお通夜のシーンが、 より喜劇的な色彩を帯びてきている。

「はははっ昔も今も役人のやっていることって、本当に同じなんだなぁ」
しかし、これは自分が体験したことではないのだ。先程のマルセ体験が、あたかも自分の体験であったかような錯覚となり、 マルセ太郎氏の視点でもって、今このシーンを見ているのである。 だから観終わった後、「なるほどこれは人間喜劇なのだな」という感覚が自然に染みこんでくるのだ。 他人の視点でもって映画を観る。こんな体験は他ではできない。

『生きる』で語った自分の体験談。
「甥っ子が医者をやっている。偶然腫瘍が見つかって検査をする。 うちに帰ってきたら彼から電話があったというんで電話をかけてみると、おじさん肝臓癌だよって言う。 そりゃーないでしょう。癌の告知ってったら、身内のものが深刻な顔して集まってきて、 そこでもって神明な面持ちで告知されるもんでしょう。 それなのにたったひとことおじさん癌だよなんて。しかも電話で…」
話術の巧みさで、深刻な話なのに、場内が爆笑の渦に包まれる。

けれども『生きる』の中で彼はこんなことも言っている。
「『生きる』みたいに人間そんなに変れるものじゃないんです。 いつまでしか持たないよって言われたって、翌日からああそうですかって変れるもんじゃないです。
時間っていうのは、人間の感覚にはないんですね。よくお年寄りが亡くなったときに、 まああれだけ長生きしたから幸せだったね。むしろめでたい、いや、冗談じゃないです。 亡くなった人でここで死んで幸せだなんて言った人は誰もいやしません。ただ回りの人が、 そう言っているだけなんです。僕もこの歳(67歳)になりますが、60年も生きたなんて実感ありませんもの。 人間には、今その瞬間しかないんです。」


これこそが、彼の本音だったのではないだろうか。
これこそが、彼の舞台に賭ける執念に繋がっていたのではなかろうか。
『生きる』を人間喜劇と言いきり、その日その日を全力で生きてきた彼の姿がそこには見える。 逆に言えば、全力で生きているからこそ、『生きる』を人間喜劇と言えたのではなかろうか。 そんなことを今になって思う。まだまだ私は想像力が足りない。

<記憶は弱者にあり>
マルセ太郎氏の『記憶は弱者にあり』という本の中で印象的な場面がある。
ある有名大学の講演に行ったときのことだ。
講演のあとの集まりで、一人の女子学生が彼にこんな質問をぶつけた。
女子学生;「勝手な戦争だったといいますが、日本はそんなに悪いことばかりやったのですか。 マルセさんみたいになんでもかんでも悪い悪いというのはどうでしょう」
マルセ太郎;「じゃ、いいことを教えてください」
女子学生;「私は知らないけれどあるんじゃないですか」
マルセ太郎;「じゃ、朝鮮に鉄道ができたことは日本軍のおかげとかそういうこと?」
女子学生「はいそうです」
ここでマルセ太郎は、猛烈に怒ってしまう。
「お前さんは無知だ知識がないなどと言われるのはまだ我慢ができるはず。 想像力がないと言われるのは、どういうことか知っている?アホということ。 どっかの外国の軍隊がせめてきて、新幹線を作ってくれた。それがありがたいことか!」

「想像力」…まさにこれこそが、マルセ氏が「スクリーンのない映画館」を通じてやっていたことではなかったか。
私は彼の公演を観て、自分の中に眠る想像力を幾度もかきたてられた。彼は私たちに「想像力をもちなさい。 そのことで弱者の立場を知りなさい。そうするれば、世の中は変りますよ」 そんなことが言いたかったのではなかろうか。そんな気がしてくる。
今彼は去ってしまったが、彼の舞台、彼の生き様は、私の瞼の中に焼付いている。 それを熟成させていけるか否かは、これからの自分自身にかかっているのだ。

彼こそは、真の芸人だった。芸術家だった。「思考する芸人」いや、言いかえれば私たちに思考させる芸人、マルセ太郎さんのご冥福を心 からお祈りします。
「また、お会いしましょう、さようなら!」

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