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カエル 聖なる酔っ払い、アキ・カウリスマキの世界

浮き雲 「アキ・カウリスマキは映画が本当に好き」…

アキ・カウリカマキはフィンランドの監督です。1957年生まれということですから、まだ43歳ですが、今もっとも個性的で脂の乗っ ている監督です。

<映画の本質…"セリフなしに目で見てわかる">
この監督の映画を観ていると、とても映画のことがわかっている人だなという気がします。 セリフはとても少なく、サイレント映画を思わせるタッチが特徴。

例えば『浮き雲』のファースト・シーン。
落ち葉が街灯の薄暗い灯に照らされ舞っている、寒々しい北欧の秋。 パンタグラフに火花を散らしやがて市電が入ってきます。 レストランの勤務が終わり、帰路につく中年の女性イロナは、 乗客が誰もいないこの市電に乗り込むと、運転手さんの後ろに立ち、 軽くキスを交わします。
このシーン、会話はありませんが、目と目を合わせて、二人の間には気持ちが通じているよう。 それで二人か夫婦というのがわかります。

さて、しばらく走って市電は車庫へと入り、ふたりはそこからマイ・カーに乗り換え家に帰ります。 殺風景な、でも温かさもほんのりとある二人のアパートの一室。
夫は玄関を入ると、イロナのコートを脱がせてやり、目隠しをして居間のソファまで連れていきます。 目隠しをとると、そこには、買ったばかりのソニーのテレビが置いてあり、 「どうだっ」と嬉しそうな夫。一方困惑したような複雑な妻の顔。 「リモコンもついているんだぞ」妻の表情には気づかない、その得意げな夫の顔は、 まるで子供のようです。
ここまで、セリフはありません。けれども、この夫婦の日常や、関係が充分に伝わってきます。 さらにその後、本棚には、どうも亡くなったらしい小さな男の子の写真 (実は監督の盟友で数々の主演を勤めたマッティ・ペロンパーの子供時代)が飾れていて、 それでこの二人の結びつきの強さもわかります。 セリフでなくて、絵で状況を説明していく一連のタッチ。それがとてもサイレント的な印象を与えます。
"セリフでなしに目で見てわかる"…これこそが、映画の最大の特質であり、 私がこの監督が、映画をよく知っていると思うひとつの理由です。

<映画の心…"理論より何より、とにかく映画が好きなんです">
アキ・カリウスマキ監督は、初めは映画評論家としてスタートします。
大学では特に映画を学んでいません。その変わりこの時期にフィルム・テークで映画を浴びるように観、 一方シネ・クラブを主催、映画雑誌への寄稿や、大学新聞の編集をしたりしていました。 彼はいわば独学で、映画の心を学び取ったといえるかもしれません。
のちに兄のミカ・カリウスマキ監督の手ほどきで、映画界に入るのですが、 このあたりは、トリュフォーをはじめとするヌーヴェル・バーグの監督たちと経歴が似ています。

『コントラクト・キラー』は、トリュフォーの分身ともいえるキャラクター、アントワーヌ・ドワネルを演じたジャン・ピエール・レ オーが主演しています。
絶望し「殺し屋」に「自分」を殺すことを依頼し、のちに怖くなって逃げ回るこの間抜けな人物像は、 まさに失恋し、衝動的に軍隊に飛び込んではみたものの、脱走しクビになる、 『夜霧の恋人たち』のドワネル君を連想させます。

実際、アキ・カウリスマキ監督自身が、ドワネル君の物まねを見せて、 それをレオーが真似るという演技指導?がされたということです。
彼はこう言っています。
「私の演技論というのは、すべてジャン・ピエール・レオーから 教えてもらったと思う」と…。

アキ・カウリスマキ監督の映画を観ていると、しばしばこうした映画的な引用に出会います。
『浮き雲』は、 『素晴らしき哉、人生!』(フランク・キャプラ監督)、 『自転車泥棒』(ヴィトリオ・デ・シーカ監督)、 『犬の生活』 (チャールズ・チャップリン監督)の匂いがします。 実際に、よく似たやせっぽちの犬が出てきます。
さらにこの作品は、ロウアングル、小市民の何気ない毎日の生活、 単語を並べたような会話、それらは、小津安次郎的な雰囲気を感じさせます。

また、『真夜中の虹』は、 「虹の彼方に」を効果的に使ったのを初め、ボギーのハード・ボイルド・タッチが全編を貫き、 さらに脱獄シーンはジム・ジャームッシュの 『ダウン・バイ・ロー』を思い起こさせます。
『コントラクト・キラー』のヒッチ・タッチ (サスペンスの神様アルフレッド・ヒッチコック監督…彼の独特の演出のこと)。

彼はきっと、映画が好きで好きでしようがないのでしょう。 来日の折りにも、聴衆を前にして、みずから「映画クイズ」を出題していたようです。
「三船敏郎の『もしもし』というセリフがある映画は何でしょう?」(笑)


「アキ・カウリスマキ・タッチ」…

<カウリスマキ・ファミリー…"スター性より人間味で勝負">
では、彼の作品にはオリジナリティがないのかというと、決してそんなことはなく、むしろ誰にもない独特のタッチ、世界を持っています。

彼の映画には、美男、美女は登場しません。どちらかというと、冴えない人々。『浮き雲』のイロナも最初登場する時は、ちょっと疲れた 中年の女といった雰囲気です。
けれども映画を観ていくうちに、不思議なことに段々と綺麗に見えてきます。 つまらない女と思ったのは思い違いで、反対に個性的で、豊かな内面を持ち、 可愛らしさを持った一人の女性像が見えてきます。 その時にはすっかり感情移入させられ、こちらもすでに、監督の術中にハマってしまっているわけです。

アキ・カウリスマキ監督は、美男美女を登場させる変わりに、自分の映画の世界にあった 個性的な俳優たちをファミリーのように従えています。
『浮き雲』他のカティ・オウティネン、 『ラヴィ・ド・ボエーム』他の マッティ・ペロンパーなどなど、いつも同じ顔ぶれが、 それぞれ役どころを変えながら登場してきます。

フェリーニといったら、マルチェロ・マストロヤンニ。ジョン・フォードといえば、 ジョン・ウェイン。キャプラといえば、ジミー・ステュアート。
自分の世界を持った監督たちは、脇役に至るまで必ず自分のファミリーといった存在の 俳優たちを抱えていました。
その中でもアキ・カウリスマキ監督のファミリーは、どの顔をとっても個性的で、 でも主役を張るタイプの顔ではないという点で異彩を放っています。

彼のファミリーが、主役を張るタイプの顔ではないというのは、ある意味では、 彼の映画の主人公たちの社会的地位や境遇に密接に関係しているとも言えます。
社会的な「弱者または敗者」、これがキー・ワードです。

『浮き雲』では、失業者。『真夜中の虹』も故郷を捨 てて都会に出てくるものの、不運続きの男。『マッチ工場の少女』は、毎日、ベルト・ コンベアーで運ばれてくる、製品のチェックに明け暮れ、ひとりで貧しい一家を支えている、 恋人のひとりもできない女。

その他の作品たちも、敗者とまでは、いかないまでも、その職業はゴミの清掃人であったり、 スーパーのレジ打ちだったりと、ひたすら地味です。
『パラダイスの夕暮れ』のように、 せっかく女性をデートに誘っても、連れていけるのは、ビンゴゲームの会場くらい。 そんな人たちです。

なぜ、彼は社会の底辺にいる人たちばかりに、興味を持っているのでしょう。
「なぜかというと、裕福な階層の人たちの会話は 非常につまらないだろ。たいてい、今日の洋服は何色にしようとかね」
それで彼は、名もない人たちの小さな不幸(当人にとっては、大きな不幸ではあるが)や、 小市民的な幸せにこだわり続けます。
経済的に成功するのが幸せじゃないんです。小さなお店がうまくいって、 夫婦仲良く暮らせればいい。お金がなくったって、好きな人とどこか遠くで暮らせればいい。

『マッチ工場の少女』のような悲劇的な話にしても、 彼女が望んでいるのは、自分の好きな洋服が着れて、好きな人と結婚したい。 それもだめなら子供だけでも産みたい。それだけです。

<カウリスマキ的ユーモア…"遠くからそそぐあたたかい視線">
では、彼の映画が暗くてジメジメしているかというと、決してそんなことはありません。 主人公たちが、無表情というのもあるかもしれませんが、そこここに独特のユーモアが漂っています。

『マッチ工場の少女』に、こんなシーンがあります。
ダンス・ホールにひとり出かけて、ベンチに座っている若い主人公。
でも着ている服は、ダサイし、暗ーい表情をしているので、誰も声をかけてくれません。 いっしょに座っていた他の人たちには、次々と相手が現れて、結局彼女だけが取り残されます。 それでも彼女は表情ひとつ変えません。でも、彼女の椅子の下には手持ち無沙汰で、飲み干したジュースの ビンが、場面が変わることにだんだん増えていきます。彼女の気持ちがよく出ていますね。
このシーンでは、カウリスマキは彼女の表情を直接映さず、彼女の目の前で 楽しく踊っているカップルたちにそそぐ光でできたジュースのビンの影を映します。 これが2本ならどうということはないのですが、すでに4、5本も並んでいるんです。
そうした、主人公からちょっと距離を置いた演出が、可哀想な場面であるにもかかわらず、 なんだか可笑しみを感じてしまうのです。

『浮き雲』では、失業した夫婦が、 最後のお金をバクチで何とか増やそうと出かけていきます。
妻は外で、ポーカーをする夫が部屋から出てくるのを待ちます。 しばらくして、夫が出てきて、妻を見つめます。何も言わないけれど、 やっぱりダメだったというのが、すぐにわかって、ふたりは寄り添うように、家へと帰っていきます。
観客の誰が観たって、彼がポーカーを当てるとは思えません。なぜなら、彼がリストラされたのは、 くじ引きで外れたからだというのを事前に見せられているからです。
誰もが、金銭的苦境に立たされたとき、一瞬はパチンコで倍に増やせないかなとは、 思うものですが、実際はためらってしまいす。ところが、彼らはそれをやってしまう。 この気持ちいいほどの楽観主義。そしてしごく当然のように負けてしまう。 それがあまりにもお馬鹿さんで、可笑しくなってしまいます。 ただ、ふたりが寄り添って帰っていくその寂しそうな後姿は微笑ましくさえあります。

誰もがやりかねない人間の愚かな行動がユーモアになり、 またそれを温かく見つめる視点が、ホンワカとした雰囲気を醸し出す。 これがアキ・カウリスマキ監督のスタイルであり、不幸な話しもジ メジメとさせない要因となっているのでしょう。


「フィンランド人であるということ」…

<沈黙・無表情は金(?)…"ハードボイルドと第三の役者・小道具">
フィンランドの人は、一般的にシャイで無口な国民という風に言われています。
アキ・カウリスマキ監督の映画では、その国民性が、さらに戯画化されているようです。 登場人物たちの無口なこと。表情の少ないこと。

『真夜中の虹』の主人公は、 自分の盗まれたお金を取り返そうと、泥棒を殴っていたところを、警官に見つかり、 逮捕されてしまいます。
監獄には、すでに一人入居者がいるのですが、恐い顔をして、彼が入ってきても見向きもしません。 けれども、彼は煙草を一箱ポーンと投げてよこします。主人公のほうも、別に笑顔を作るわけでもなく、 当たり前のことのように、煙草に火をつけます。ただし二人の距離はこの時少しだけ近づきます。 この出会いのいいこと。ハード・ボイルド・タッチなんですね。

フィンランドは、北欧のほかの国同様、福祉国家ですから、税金も高く、 煙草の値段も日本の3倍くらいします。だからもらい煙草は気軽にできないんです。 見知らぬ人から煙草をもらうのに、一本いくらで、買わなきゃならない。 だから、一箱ポーンと投げてよこすというのは、大盤振る舞いで、 「おまえのこと気に入ったぞ、よろしくな」という、メッセージも入っているんです。
そこには言葉もないし、表情もないけれど、メッセージはちゃんと伝えられているという わけです。

『浮き雲』にも、こんなシーンがあります。
夫婦げんかをした夫が、妹の家に逃げている妻に会いに行きます。何も言わず花を差し出す夫。
夫「俺が悪かった許してくれ」
妻「許さないわ決して」
夫「帰ろう」
妻「いいわ」
妻は、一見怖い顔をしているので、素直に「いいわ」とひとことだけ、 妻が答えるのが、意外な感じがしますが、彼女は夫が謝ってきてくれさえすれば、 すぐにでもいっしょに帰りたかったのです。 それは、その後「靴がボロボロよ」という妻のひとことで、わかります。

演技について、カウリスマキはこう言っています。
「私は俳優に自分の経験したことを表現するのは自由だ。 でもその表現は、全部左のまゆだけでしろと要求するのです…1週間もたつと、 疲れちゃうんですね、左のまゆだけだと。で、皆能面のような無表情に到達する」

セリフの少なさ、表情の少なさは、小道具のひとつひとつで、補われています。 たばこの箱もそう。ボロボロになった靴もそう。
『白い花びら』で、酒場の入り口にポツンと置かれた、 夫婦の乗ってきたバイク。そのサドルの上に仲良く並ぶ、大きい黒のヘルメットと、 小さい白のヘルメット。それだけで、ふたりの幸せな様子が伝わってくるようです。
『東京物語』(小津安次郎監督)の老夫婦が、 温泉宿に泊まるシーン。部屋の前にきっちりと仲良くスリッパを並べていたのを思い出しました。 スリッパとヘルメットという小道具の違いはありますが、 『白い花びら』も同じように、 本当に仲睦まじい感じが伝わってきて、微笑ましく感じました。

もうひとつのフィンランド人像は、アルコール好き。
アキ・カウリスマキ監督自身、来日時には、常にアルコールを切らすことなく、その酒豪振りを遺憾なく、発揮したようでしたが、彼の 映画にも、アルコールはかかせません。
『愛しのタチアナ』の中で、ウオッカのようなお酒を、 ビンごと買い、一気飲みしてしまうシーンのすさまじいこと。 息継ぎすることなく、一気にいってしまいます。
最新作『白い花びら』では、 都会のやくざな人間が口にしていた、ウィスキーと、田舎の農夫が大事に飲んでいた自家製のお酒が、 対照的に現れて、主人公のその後の運命までが、しなやかに浮かび上がりました。

フィンランド人は意外なことに、日本びいきでもあります。
理由のひとつは「あのロシアと戦争で戦い、勝ったから」いつの時代の話なんだと、 思ってしまいますが、虐げられていた国にかぎっては、どこでもこうした感情が 根強く残っているものなのです。
アキ・カウリスマキ監督も例外ではなく、小津安ニ郎監督の映画と 「サッポロ・ビール」をこよなく愛しているようです。
『浮き雲』の夫婦のボソボソとした会話は、 どことなく笠智衆と、東山千栄子の会話を彷彿とさせるのも、偶然ではないでしょう。 日本人とフィンランド人は案外、似たような感覚を持った国民なのかもしれません。


「やっぱりアキ・カウリスマキが好き」…

<ハリウッドに背を向けて…"愛すべき酔っ払いカウリスマキ">
数々の世界の映画賞を受賞し、もはや巨匠といってもいいほどの活躍を見せるアキ・カウリスマキ監督。ドイツの新人映画監督が、 『ハンネス、列車の旅』という映画の中で、彼に敬意を表し、またジム・ジャームッシュ監督も 『ナイト・オン・ザ・プラネット』で、盟友マ ッティ・ペロンパーを出演させるなど、世界から熱い視線を受けています。

そんな彼に対してハリウッドが触手を動かさないはずがありま せん。すでに、お兄さんのミカ・カウリスマキもハリウッド・デビューを果たしています。 そして、実際にハリウッドからオファーもあったようです。しかしながら、彼は 「ハリウッドは幼稚園」と言いきってしまい、見向きもしま せん。自分のスタイルが、ハリウッドに行ったとき、失われてしまうことがわかっているからです。

そして20世紀の最後を飾る作品に 彼が選んだのは、何とサイレント映画!!『白い花びら』 だったのです。
意外という感じはしませんでした。セリフが少なく映像で見せていく彼なればこそ、 当然に行きつく選択だっとという気がします。
実際に観てみると、やはり期待を裏切らない作品でした。
『白い花びら』は、チャップリンの 『巴里の女性』やグリフィスの 『散りゆく花』を思い起こさせるような、 大変美しい映画になっています。

コンピュータ技術が取り入れられた映画が全盛時代に、こんなクラシックな映画が作られたことは、 驚きです。古典的でありながら、彼らしい小道具へのこだわりも感じられ、 ただ単にクラシックのものまねに陥ることもありません。
時代に逆行しようとも、自分のスタイルを持ち続ける姿勢。個性的な監督が、 少なくなってきている今だからこそ、これは貴重です。

アキ・カウリスマキ監督は言っています。
「映画とは、一日一生懸命働いた人が その日の終わりにリラックスし、楽しむために観るエンターテインメントだ」と……。 重ねて、「シネマによってその日をリフレッシュできて、 翌日いい人間関係が築けるのであれば、その映画は成功じゃないかと思う」とも言っています。

これこそが、映画の本来持っている魅力であると私も思います。 そんな気持ちで、素朴な小さな映画を撮りつづけるアキ・カウリスマキは、 どこか彼の映画の主人公たちと通じるものがないでしょうか。 私はこんな映画監督がいてもいいと思います。
アキ・カウリスマキ監督…何と愛すべき酔っ払いか!
次回作は「失業三部作の第二弾」『スープに並ぶ人々』だそう。 いいですねぇ。


<アキ・カウリスマキ・フィルモ・グラフィー(日本公開作品)>

1986:『パラダイスの夕暮れ』
1986:『ロッキーY』(短編)
1987:『ハムレット・ゴーズ・ビジネス』
1988:『真夜中の虹』
1989:『レニングランド・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』
1990:『マッチ工場の少女』
1990:『コントラクト・キラー』
1991:『悲しき天使』(短編)
1992:『ラヴィ・ド・ボエーム』
1992:『俺(おい)らのペンギン・ブーツ』(短編)
1993:『トータル・バラライカ・ショー』(ドキュメンタリー)
1994:『愛しのタチアナ』
1994:『レニングランド・カウボーイズ、モーゼに会う』
1996:『浮き雲』
1998:『白い花びら』

(参考資料:『白い花びら』劇場プログラム)
メイルちょうだいケロッ

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