シネマ道楽の目次へ ホームヘもどる はじめに TIME、時を刻み続ける時計。映画は時の芸術、フィルムは途中止まることなく流れ続ける。 映画は本のように途中でページをめくるのを止めて立ち止まることを許さない。 絶えず画面は流れ、お話は進み続ける…。 映画はエジソンの発明のその頃から、「時間の芸術」としての運命を定められていた。 人の一生を2時間あまりの枠の中で描ききる。 また数分の出来事が、数十分に引き伸ばされて描かれることもある。 名作は、時を完全に支配する。 時計が時を支配しているのか 現実の世の中では、映画とは違い、1時間は1時間。時計の針が時間を支配する。 しかし、本当に今の一時間と前の一時間は、人間にとって同じ流れなのであろうか。 時は場所により、人の生き方により、人の年齢により、色々な要素で伸び縮みもする。 そんな感覚を映画はその時間的特性を活かし描いてきた。 <砂時計> 『ベニスに死す』の有名なワン・シーン…。 「砂時計の上のガラスの砂は初めは少しずつ落ちるので、別に気にもしない。 しかし、いつの間にか落ちていよいよ僅かになると、砂はあわただしく落ちて、 止めることはできない」 人の人生を砂時計に例えたヴィスコンティの誠に怖い感覚に恐れ入る。 私の砂は今いかほど落ちていることか…。 <針のない時計> イングマール・ベルイマン監督の『野いちご』では、 75歳の老人の、まさにその砂が急激に落ちかけている、という感覚をこんな形で描いている。 無人の街。 人はおろか犬の気配さえしない、灰色の無気味な街に老人はひとり佇んでいる。 道端にようやく人影を見つけ、すがるように肩をたたくと、デスマスクのように表情のない その男は倒れて水になって蒸発してしまう。 恐怖におののきふと見上げると、時計台の文字盤には針がない。 ここはどこで今何時なのだろう不安に怯え、自分の腕時計を見やると、そこにも針はない。 向こうから御者のいない馬車がやってきて、街灯に車輪をぶつけ馬だけが走り去って行く。 残された荷車を覗いてみると、棺おけが開いていて、何者かの手がその中に彼を引っ張り込もうとする。 その男の顔を思わず見ると、その死者は、自分自身の姿であった。 「もう残り人生の時間がない。(もう少しで砂は落ち切ってしまう」…そんな彼の無意識の恐怖が このような悪夢となる。 針のない時計という脅迫観念になって。 <幻の時を刻む時計> 『永遠と一日』に出てくる時計もちょっと面白かった。 幻灯機みたいな仕掛けなんだろう。 壁に時計が投射されていて、その幻のような時計が時を刻んでいる。 手前のほうに本物の時計があって、壁に映っているものは実体がないということになる。 そこで、こう思う。 人にとって時は果たして実体のあるものなのだろうか。 もちろん一日の時間は24時間って決まっている。 でも、こんな感覚になることがある。つい数年前のことに感じられるのが、 十年も前のことであったりするってこと。 もちろん頭ではわかってはいる。けれど人って何十年か生きてくると、 時の感覚があやふやになってくるんじゃないだろうか。 歳を取るごとにこの感覚が、強くなって行くのではって気もする。 で、この『永遠と一日』は、 死期が近づいた老人が、昔を回想してたりするのだけれど、 「回想シーンですよ」って見せ方をしないで、娘の家の庭を出ると、 もうそこに過去の世界が広がっているって演出になっている。 この現実と過去の境界がないがごとくの演出が、そんな感覚をとってもよく表現していた。 そんなわけでこの時計もまた、そんなことを象徴しているようで、とても印象的だった。 時計は人の虚栄心を満たす 年末に東急ハンズで、『永遠と一日』に出てきた時計と同じ仕掛けのものを見つけて思わず欲しくなってし まった。 ただ待てよ。うちにはそれを映し出す壁がない。時間は感覚的に伸び縮みできても、 狭い部屋はやっぱり狭い部屋。諦めました。^^; それにしても時計屋さんに行くと実に工夫をこらした色々な時計がある。 本来は時間がわかればそれで済む機械に過ぎないのに、人はこれをお洒落のアイテムにしている。 何百万もする時計があったり、値段も天井知らず。よく成金趣味の人たちが、 ゴールドのロレックスを一様にしているのを見ると、うんざりしてしまう。 <チャーリー・チャップリンの時計> 放浪紳士チャーリーは、いつもその小さな身体に誇りを持っていた。 窮屈な上着、ダブダブのズボン、窮屈な上着、いつも持ち歩いている竹のステッキ。 礼儀正しく山高帽に手を当てて挨拶すると、ズボンのお尻が破けている。 貧しくても身なりはキチンと。顔にちょこんとついているチョビ髭は、虚栄心のシンボル。 貧しい少年時代を過ごしたチャップリンは、どんなに貧しくても虚栄心を張る人間の哀しさを、 自分の身に染みこませ、それをこの扮装に託した。 彼はしばしば、懐から時計を取り出す。 別に急ぐ仕事が待っているわけでもないのに、もったいぶった様子で。 まるで富豪が金の懐中時計を大事に取り出すように時計を取り出す。 どうやら時計が動いていない様子。 時刻を合わせて(別に他の時計を見ながらでもなく)ニ、三回軽くゆすって、 耳元に当てて動く音を確認するふりをしてまた懐にもどす。 この一連の仕草を映画の中で何回繰り返したことか。 若いのに分不相応のロレックスをつけて、これ見よがしに見せつけている御仁を見ると、 いつもこのチャップリンの時計を思い出してしまう。 <バスター・キートンの時計> 同じくサイレント時代の喜劇王バスター・キートンは、原始時代というのに腕時計を身につけている。 いくらコメディとはいえ、時計をしたまま歩くとはと思っていると、彼は立ち止まり時計を見やる。 アップになった時計の真中には、一本のマッチ棒くらいの棒。 太陽が当たり棒の影が時刻を示している。これぞ携帯式日時計! 何事も分相応がよろしいようである。 時を超えて人を繋ぐ時計 <父から子へ、子から孫へ> イタリア映画の『BARに灯ともる頃』に 出てくる時計には、家族(ファミリー)を大切にする、いかにもイタリア人らしさを感じた。 イタリアの郊外に住む息子、マッシモ・トロイージをローマから父、マルチェロ・マストロヤンニが、 はるばる訪ねてくる。 このお父さん、出世をしていい暮らしをすることに夢中になるあまり、 家族のことを顧みてこなかったらしい。 歳をとって周りを見まわして見ると、奥さんには愛想をつかされ、 息子も家を飛び出して辺鄙な田舎町に逃げ出してしまっている。 ここでひとつ息子を連れ戻し、自分の跡を継がせたい、そう願っている。 色々と贈り物を用意する。 ローマの景観のいいシャレたアパート、最新の高級車。 だが、息子はそんな贈り物には無関心。 「車をもらったって僕は運転免許がないし、車の免許を取ろうとは思わない。 ローマに住んでもやることなんてないから仕様がない。」 「語学が得意だったから、ローマで勉強してみたら」と誘っても、色よい返事は返ってこない。 お父さんは息子のことが理解できない。 自分はこんなに頑張ってきたのに、なぜこいつはこんなにふがいないんだ。 日が暮れて、息子の通う「BAR」に灯がともる頃、父親はこの店を訪ねてみる。 そこで見せる息子の笑顔。そんな笑顔は絶対に自分の前では見せないだろう。 彼はこの店にはなくてはならない顔になっているのがわかる。 彼の世界が確かにここにあるのがわかる。しかし、彼にはそんな息子が理解できない。 父が息子に贈ったプレゼントで唯一彼が真から喜んだのがおじいさんの金時計。 鉄道員だったおじいさんが、勤続何十年かに贈られて、それ以来愛用していたもの。 ごつくって、金も色あせて、古臭い時計だけれど、それが子に贈られて、今孫に贈られた。 「いま何時だい」 「5時16分だよ」 嬉しそうに時間を聞き、ニコニコしてそれに答える息子。 理解しあえない親子だけれど、その時だけ温かいものがふたりの間に流れる。 かつて父が子供だった頃、鉄道員だったおやじの晴れ姿が蘇る。 かつて息子が子供だった頃、自慢気に鉄道員だった頃の話をしてくれた優しいおじいさんの姿が、 思いだされる。そこに血のつながりがある。世代や価値観を超えた家族の愛がそこに流れる。 他人には何でもない金時計だけれど。 時計は時を刻み続ける このように、時計は持つ人によって、その意味もさまざま、物語も色々。 しかし、私は時計を、単なる時を知らせる冷たい機械にはしたくない。 その刻む時を大切にしたい。 人の寿命は限られている。与えられた時間は、人によってそんなに違いはない。 (何百年という意味で)なにもしないで過ごしても、興味をもってなにかをしても、 時間は同じように流れつづける。 ただなにかをした人にとっては、その時は生きた時間となる。 呆然と過ごせば、そこに何も残らない。殺すのも生かすのも本人次第。 <人生という名の時計> 『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』 という映画が公開中である。 その中の80歳を超えるミュージシャンたちが、はじめてニューヨークを訪れてこんなことを言う。 「わしはニューヨークって町が気に入った。英語を覚えてここに住みたいね」 冥土の土産にしようなんて言う人はひとりもいない。 なぜなら、彼らはその歳になっても、現役で生き続けているから。 演奏する彼らの顔は、シワは多くても若々しい。 どうせ同じ時を過ごすなら、こんな生き方をしたいものである。 自分の時計が時を刻み続ける限り…。 <ここで取り上げた作品たち> 『ベニスに死す』(1971年) 監督…ルキノ・ヴィスコンティ 出演…ダーク・ボガード、ビョルン・アンドレセン、シルバーナ・マンガーノ他 『野いちご』(1957年) 監督…イングマール・ベルイマン 出演…ビクトル・ハーシュトレーム、イングリッド・チューリン、マックス・フォン・シドー他 『永遠と一日』(1998年) 監督…テオ・アンゲロプロス 出演…ブルーノ・ガンツ、イザヘル・ルノー 『キートンの恋愛三代記』(1923年) 監督…バスター・キートン 出演…バスター・キートン、ウォーレス・ビアリー 『BARに灯ともる頃』(1989年) 監督…エットーレ・スコラ 出演…マルチェロ・マストロヤンニ、マッシモ・トロイージ、他 『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(1999年) 監督…ヴィム・ヴェンダース ドキュメンタリー。シネマライズにて公開中 トップに戻る ホームヘもどる |