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カエル 『風と共に去りぬ』…それでも昔の映画はお嫌い?

なんで今さら『風と共に去りぬ』(?!)…

今、『風と共に去りぬ』公開60周年記念ということで、9回目のリバイバル上映がされています。

今回は特に、できるだけオリジナルに忠実にするために、元のスタンダード・サイズでしかもテクニカラー の色の復元作業にも大変気を使っての公開となっています。私ももう何回もこの作品は観ているのではあり ますが、「オリジナルの色」というのに心惹かれて、再び足を運んでしまいました。そしてまさに興奮の4 時間! ストーリーも場面も覚えているはずなのですが、観る度に感動し、泣かされてしまいます。
ビデオとは、色が違う。音が違う。俯瞰撮影の迫力が違う。細かい洋服の柄や、玄関のドアのステンドグラスの美しい 模様、これらが自然に目に染み入ってきます。五感に入ってくる情報量がビデオより多いということもある かもしれません。感動の度合いが、テレビで観るよりもさらに大きくなってしまうようです。

最近、若い映画ファンの方から「昔の映画なんて古臭くて面白くないや」とか、「昔の映画は、その時代に観 るからこそ価値があって、今観てもあんまり意味ないよ」、「今この時代に生きているのだから、今の時代 感覚を持った映画にしか興味ないな」なんてことを聞かされることが度々あります。

確かに一理はあると思います。例えば、80年代にヒットした映画『ブッシュマン』なんて、 その当時だから受けたのであって、今観ても、あんまり面白い映画じゃありません。 「なんでこんな映画がヒットしてたの?」こう思って当然です。

世の中には流行があります。映画の演出や、スピード感も時代によって違ってきます。しかし、すべての映 画が古臭くなるわけでは、決してありません。19世紀の文学作品が今でも愛読されているのと同じように、 映画も普遍的に鑑賞に堪える作品が存在するのです。

この『風と共に去りぬ』も、60年前に制作された映画とは思えないくらいの瑞々しさがある作品です。 なぜなのか…。
不世出の映画『風と共に去りぬ』…

<時代…リメイクの難しさ>
映画には「リメイク」なるものが存在します。
かつて大ヒットした映画を、今風にアレンジして作り直すことによって、さらなるヒットを呼ぼうという 趣旨のものです。これは映画独特のものです。

『風と共に去りぬ』の少し前に制作された『スタア誕生』は、実際その後2度リメイクされて、その度に新しい観客を掴 んできています(今、女性と男性の立場を入れ替えた新たな『スター誕生』が製作中)。 また『めぐり逢い』はリメイクのほかにも、その精神を生かした『めぐり逢えたら』という形でも、 見事に今に蘇っています。

ただその一方で、今の時代にあわせてリメイクは作ってみたけれど、オリジナルとは程遠い駄作になってし まうというケースもあります。古いオリジナルのほうが今観ても新鮮さを失わないのに、 技術も進歩した後の時代に作ったリメイクの方が、かえって古臭くなってしまう、 という逆転現象が起こるのです。ストーリーは一緒なのにです。

そのことを考えると、映画はストーリーだけでなく、出演者の個性、監督の個性、 キャメラマンや美術担当のスタッフの個性、時代性、色々なものがからみ合ってできてい ものなのだな、と改めて思います。

『風と共に去りぬ』のメイキング・フィルムを観ていると、その時代だからこそ出来た映画、 という思いを強くしています。
映画の舞台となったアトランタ市でのプレミア・ショウ。ここに南北戦争のかつての兵士た ちが招待されていました。当時の軍服を身につけて映画館に入場していく彼らは、みなすでに杖をつき、 頭も真っ白になっているのですが、大変誇らしげに映っています。 彼らにとっては、映画は未だ歴史ではなく、昨日の出来事なのです。
そうした記憶の残っている時代に作られた映画。これを今また、同じようにリメイク することは、到底不可能なことでしょう。技術は進んでも、時代の空気は残されていないからです。

それは、ジョン・フォードのいくつかの映画にも言えるでしょう。彼は実際にワイアット・アープ本人と話をし、南北戦争の 生き証人たちとも話をし、それで映画を作っています。その時代だからできたことで、今は同じものは作 れません。そこには懐かしさだけでなく、生々しさもあるのです。これは財産です。これがこれらの映画を 今も活き活きとさせています。

<映画作りへの執念…作り手>
『風と共に去りぬ』は、ビクター・フレミング監督作品というよりは、プロデューサーのデヴィッド・O・ セルズニックの作品といったほうが、近いような気がします。

昔のハリウッド映画は、今と違い、絶大な権 力を誇るプロデューサーが上に君臨している時代でした。キャスティングも監督もスタッフもすべて彼が決 定します。時には脚本の中身や、演出にまで口を出し、自分の思い通りにならなければ、すぐに首が飛んで しまうというのが常でした。
セルズニックは当時まだ独立したばかり。『スタア誕生』他いくつかの作品は、 すでに成功を治めてはいたものの、まだまだ義父で、MGMの大プロデューサー、メイス・B・メイヤーの 威光を借りているといったイメージを払いのけられずに、もがいているところでした。

そこに湧いて出たこの願ってもない企画。彼は自分の全財産、名誉、地位を投げ打ってこの映画に 没頭します。もし、失敗したら、確実に会社は倒産、二度と再び映画界で生きて行かれないかもしれない、 それくらい大きな賭けに出たのです。
脚本家は、あまりのハードさに列車で逃げ出し行方をくらませてしまう始末。監督も2度も変わり、 スタッフ全員を極限状態にまで追い詰められます。自身も興奮剤を使用し、辛うじて立っているような有り様。 スタッフのひとりなどは(編集のジェームズ・ニューカム)あまりの疲労困ぱいで病院に駆けつけたところ、 「あなたはすでに死んでいます」と言われる始末だったといいます。

映画にここまでの情熱を傾けるプロューサーが今いったい何人いることでしょうか。
「映画は、機械の左の口から材料を入れて、右からビデオがポンッて出てくる。これが効率が良い」 こういったことが今はもてはやされている時代ですが、『風と共に去りぬ』には、 こういった映画人の執念がフィルムに染みついているような気がします。

<映画に命を吹き込む…俳優たち>
『風と共に去りぬ』は、もちろんアトランタの炎上に代表されるスペクタクルなシーンも魅力なのですが、 それにも増して素晴らしいのは、主役4人のそれぞれの性格が織りなすドラマにあります。

勝気で、奔放な中に繊細さも併せ持つヒロインスカーレット、淑女で一見弱そうだけれども、 内にものすごい強さを持った女性メラニー、大人の冷静さを持っているのに、あくまでも野性的で、 冒険好きな男レット・バトラー、紳士としての教養を身につけ、優しく魅力的なのだけれど、 いったん事が起こると、優柔不断、時の変化に耐えていけない弱い男、アシュレー。
これらの人物が映画では、実在するかのように活き活きとして、一歩間違えば、ただのメロドラマに なりかねないこの物語に説得力をもたらしています。彼ら人物の魅力こそが、 この映画を飽きさせないものにしています。

その中でも特にこの映画の命となっているのが、ヒロインのヴィヴィアン・リー、クラーク・ゲイブルなの ですが(このふたりを今の俳優に置きかえることは、到底困難なことでしょう)、スカーレット役は、当時の 映画界にあっても大変難航したようです。候補に上がったのは、『モダン・タイムス』のポーレット・ゴダ ート、『黒蘭の女』ですでに南部女性を演じてオスカーを取っているベティ・デイビス、のちに『私は死に たくない』でオスカーを取るスーザン・ヘイワード、オスカーの受賞最多記録をもつキャサリン・ヘップバ ーン他多数です。しかし、どの女優もセルズニックにとっては、ビタッとくることはありませんでした。

ある日、セルズニックの弟が一人の女優を撮影現場に連れてきました。「兄貴のスカーレットがここにいる よ」今まさにアトランタが炎上し、大きいビルが崩れ落ちる瞬間、半身半疑の彼の目に映った女性こそが、 彼が求めていたスカーレットそのもの。この映画の奇跡の始まりの瞬間でした。

ヴィヴィアン・リーは、当時英国ではすでに舞台でも成功を治め、『無敵艦隊』他何本かの映画にも出て、 有名な存在にはなっていましたが、アメリカでは、ローレンス・オリビエの恋人といった程度の認識しかあ りませんでした。意地悪な映画批評家などは、彼女がスカーレット役に決まった時、「アメリカの南部女性 を英国の女に演じさせるなんてアメリカの女性にとって国辱ものだ」とまで言っています。

しかし、残されているテスト・フィルムを観ると、彼女以外にヒロインは考えられないのが、一目でわかり ます。
身のこなし、セリフの跳ねるような躍動感、わがままお嬢さんのいたずらっぽい微笑みから、一転カッ となって、眉が釣りあがるさま。彼女の顔は、刻々と表情の移り変わる透明感のある湖面のようです。激し さと強さ、弱さと繊細さ、スカーレットのすべてが彼女には備わってました。こんな演技を見せる女優は他 にはいません。半分決まりかかっていたポーレット・ゴダートにしても、強さはありましたが、彼女の繊細 な部分は表現しきれていないように思います。さらに気高さや気品さえもヴィヴィアン・リーにはあるので す。現代の女優にも中々こうした人はいないでしょう。

彼女の演じた、スカーレットはそんな彼女だからこそ魅力的なキャラクターになりました。しかし、 スカーレット・オハラのキャラクターは、一歩間違えば、ただの悪女にもなりかねない複雑さがあります。 計算高く、生き残るためには、妹たちの婚約者を横取りし、金のために男を利用しようとします。高慢で、 自信家で、自分のことしか考えていないような女。これもスカーレットの一面です。反面、自分の気持ちに は素直で、自由奔放。打たれれば、打たれるほど、強くなっていく生命力の強さをも併せ持っています。1 9世紀の女としては、メラニーのほうが一般的、むしろ彼女は異質なのでしょうが、彼女の行動力と情熱は 当時の女性だけでなく、現代の女性でも憧れてしまうことでしょう。この映画が今も愛される理由がここに あるかもしれません。

<ストーリーの裏の広い世界>
この映画は、プロデューサーの力で出来あがった映画ですから、「芸術的」というよりは、「大衆的」。 一流のエンターテインメントという色が濃い作品です。けれども、内容的に浅いかというと、そんなことは 決してありません。最近公開された多少芸術のにおいのする『エリザベス』と較べても、歴史的背景などへ の気の使い方という点では、数段手間がかけられています。南北戦争前後の描写という点はもちろんですが、 さらに物語の背景にも、細かい配慮がなされています。

例えば、アシュレーの家柄はフランス系の良い 血筋、一方スカーレットのオハラ家はアイリッシュという違いも、物語に大きく影を落としていたりします。 オハラ家は元来が貧しいアイルランドの移民でした。あそこまでの家にするには、色々な手段を使い努力を してきたことが想像されます。お金と土地を手に入れたあとは、フランス系の女性(スカーレットの母)と結 婚をし、南部の社交界にも入ります。そんな父親の悪く言えば卑しい血統を引き継いだ、教養のないスカー レットが、自分にはない優雅さや、知的さを持ったフランス系のアシュレーに惹かれるのは、ごく自然に見 えます。自分の中にある、農民の生命力を意識しながらも、それとは反対の母の優雅な血にも憧れていると も言えるでしょう。

その世界(アシュレー)に幻滅して、戻って行く土地「タラ」の大地は、本国アイルラ ンドのドルイドの神々が降り立ったという聖地と奇しくも同じ名前です。「タラに帰ろう」という言葉は、追い 続けた幻影を断ち、本来の自分自身を見つめ直し、原点(祖先)である土地に帰ろうという深い意味ももって くることになります。

原作者のマーガレット・ミッチェルの家庭が、歴史の研究に熱心で、南北戦争や南部の歴史的な資料をたく さん集めていたこと、これが原作に、そして映画にも忠実に反映された結果とは思いますが、それが映画にさらなる 重層的な深みをもたらしているのです。

今だからこそ、『風と共に去りぬ』…

このように、名作として今日まで残ってきている映画は、往々にして現代では到底再現不可能な奇跡が積み 重なってできているものです。プロデューサーのすべてを投げ打った賭け、その時代に偶然そこにいあわせ た配役の妙、原作者のバック・ボーン、スタッフの全身全霊を傾けた仕事、アトランタを初めとする南部が その作品を切望していたという時代背景、そのうちの一つが欠けても、これだけのものはできないことでし ょう。昔の映画を現代風に単純にリメイクすれば、同じように傑作になるものではありません。私たちにと って古い映画は、二度と作り直すことのできない貴重な財産です。もしできるのなら、ビデオではなく映画 館でこうした映画に接すること。これは、とても貴重な映画体験になります。何かがきっと得られるはず です。

アメリカ映画の作りが軽薄になってきている今だからこそ、こうした昔の手間のかかった優れた映画も観る ことが大切です。『スピード』も時にはいいでしょう。でもこうした映画を観ていると、『スピード』がい かに中身がスカスカな映画かがわかってきます。映画がビジネスであるからには、儲けなくてはなりません。 ということは、観客の質が上がらなければ、質の良い映画もできないことを意味します。故に、今だから こそ『風と共に去りぬ』なのです。昔の映画を毛嫌いするあなた、今日から新しい映画だけでなく、古い映 画にももっと目を向けてみませんか。

メイルちょうだいケロッ

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