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カエル 『道楽シネマ評』…「イフ・オンリー」


イフ・オンリーポスター 監督…マリア・リポル 、 脚本…ラファ・ルソ
撮影…ハヴィエ・サルモネス 、 音楽…メイス・メンド他
キャスト…リナ・ヒーディ 、ダグラス・ヘンシャル
ペネロペ・クルス、シャーロット・コールマン

1998年英国・スペイン/上映時間1時間47分


「もしもあの時こうだったら」誰もがこう思ったことがあるはず。映画のマジック。 映画だからこそ時間を超越し、こんな願いをかなえてくれる。見果てぬ夢。果たし て、運命は変えられるものなのか。

ちょっと前にこの作品と同じテーマの映画があった。『スライディング・ドア』 電車に乗り遅れた場合と、間に合った場合。このわずか数秒の間の違いで、主人公 の運命がとれほど大きく変わってきたか。同時進行でそれを見せるその語り口の面 白かったこと。何が人生にプラスになって、マイナスになるか。その時々では、正 解を引いたように見えたその運命が、突然逆流をはじめ、転がり落ちて行くその怖 さ。失敗も次の瞬間に、光が思わぬ方向から差してきて吉となるその不思議。人は その運命に翻弄され、一喜一憂する。人生の選択を一瞬誤ったとしても、前向きに 生きていくことの大切さが身にしみる。

『イフ・オンリー』は、その誤った人生を過去に戻って軌道修正できたとしたら、 運命は変わるのかどうか、ひとつの実験。

冒頭は英国のカーニバル。黒人たちの一年に一回のお祭り。熱気と喧騒に包まれて一人つま らぬ顔をした不精ひげの男が、人々の群れを避けながら道を急いでいる。彼は恋人を 家に待たせ、浮気相手の家からの朝帰り。頭の中はどう恋人に言いつくろうか、そん なことを考えている。祭りの熱気と、男の憂鬱。その感覚がとてもいい。英国的とい うよりは、監督の母国スペインの感覚を思わせる。
カーニバルの熱気が身体に障ったのか、男は家に帰り、思わず彼女に浮気の事実を自 ら告白してしまう。黙っていればうまくごまかせたものを、ちょっとのところで、自 分を抑えられなくなってしまう。告白して、荷が下りたのもつかの間、当然のことだが 、彼女からの三行半。思い出のギターは、激情した彼女によって無残にも根元からポッ キリと折れる。すべてが終わった瞬間…。

ただ一言されど一言。それゆえに後悔はことのほか大きい。落ち込んで、ふと入ったパ ブ。ピアノに落ちる月の光。思いのたけを、酒に身を任せつつ、バーテンの女性にぶち まける。すると突然の嵐。帰りに彼女の貸してくれたボロボロの赤い雨傘。表のスペイ ン訛りの不思議なゴミの収集人。彼らがどこの誰かが捨てて行った冷蔵庫を拾い、愛着 をもって使っているのが象徴的。冷えた心をもかき集める彼らだから。これらのすべて がマジックのはじまりを予感させる。

彼らの「絡まった心の糸をほどくのだ」この言葉と共にマジックは始まる。場所は意外 なゴミ捨て場。見捨てられた物たちが、ひっそりと横たわっている場所。おもちゃに鏡 台、タンスなどの家具、読まれなくなった本。一度は、必要と思われて買われたものな のに、人々の夢や希望、思い出、色々なものが染み込んでいるというのに、あるものは 忘れ去られ、あるものは情熱が冷め、あるものは、人のきまぐれに翻弄され、あるもの は人の生命とともにその役目を終える。その中には、宝物もあるかもしれない。なにが 本当に不要でなにが本当に必要か、そんなことは、ここに投げ出された今となってはわ からない。そんな忘れ去られた人々の欲望の抜け殻が集まる場所、ゴミ捨て場。この種 のマジックが起こる場所として、こんなにもふさわしい舞台があるだろうか。過去にも どって宝物を再びとりもどす。その出発点をここに選んだ発想がとても素敵だ。

どこぞの誰かに捨てられたおもちゃのメリー・ゴーランドがまばゆく光る。ぐるぐると 回り、意識が薄れて行く。時の逆回転。そして目をあけると、そこは、またあの喧騒の カーニバルの場所。前と同じ時刻、同じ場所なのに今度は、それが輝いて見える。お祭 りがあんなに嫌だったのに、今は踊り出したい気分。彼の何かがこの瞬間に実は変わっ ている。前のシーンとのこの対比が際立ってくる。誠にお見事。

この映画が『スライディング・ドア』と決定的に違うのが、実はこの部分だ。『スライデ ィング・ドア』のヒロインは、どちらかというと、運命にただ身を委ねている感じがする。 流れが澱めばただそこに立ち止まり、流れに乗ればただ流されて行くだけ。川に浮かんだ 一枚の小さな木の葉のような心地がする。努力して失敗した時、それを運命のせいだけに してしまうのは、ある意味では次のステップへの近道となるかもしれぬ。しかし、また同 じことを繰り返す危険も大きくなる。

ところが『イフ・オンリー』では、過去に戻れた主人公は前の反省から、明らかに生き方 が変わって行く。自分勝手に生きていた男が、誠心誠意人を思いやる男になる。それによ って決まってしまった運命自体は変えられないにしても、流れは確実に変わっていく。運 命にプラスアルファが加わってくる。植物の茎がまっすぐに1本ではなく、成長と共に枝 葉が伸びて行くように、運命の幅が広がって行くのだ。どの枝葉を成長させて太くしてい くかは、本人の生き方で決まってくる。だから魔法の効果がどこにあるのか判らなくなっ たとき、それが実は主人公が成長をした時と重なっている。それがこの映画のポイントだ。

ここで気になるのは、彼の恋人はどうなるか。男は2度同じ時間を生きたことになってしま ったが、一方彼女にとっては、時間の流れは常に一定方向。その時、その瞬間こそが彼女の ただ一度の人生。男の突然の変化にとまどいこそすれ、彼女の生き方にはなんら変わりがな い。男のだらしないところが逆に魅力的だったのに、今では世話を焼かれるばかり。それが かえって煩わしく思える。2度生きている人間にとっては先が見えるけれども、彼女にはそ んなことなど知る由もない。それ故ふたりのバランスはやはり崩れる。運命の糸はまたもつ れはじめ、ギターはまたもや音を立てて根元から折れてしまう。そして見事立場は逆転して いく。人は窮地に追い込まれたとき、突然己の姿が浮かび上がってきたりするもの。 今度は彼女がそんな自分を見るハメになる。

聞けば、この映画の脚本家。自分の恋愛体験を元にこんな話を作ったという。失恋に絶えら れず空想したおとぎの物語。これがこの映画の底にある。だから一歩間違えば、これは身勝 手な男の空想による女への復讐の物語。そういう危険性をはらんでいたことは否めない。 しかし、そこは女性の監督。彼女の女性の感覚をこの脚本にミックスさせ、女性の立場も明白 にした。彼女の選択が例え間違っていたとしても、その時の状況でそう動かざるを得なかった その心情もきっちりと描き出している。ふたりのバランスが再び崩れたのも、どちらのせいと も言ってはいない。彼女が迷走をはじめてもそのことはもちろん責められたりはしない。むし ろ温かみをもってそれを静かに描き出す。

だからこの映画のラストは、男を主人公にして展開してきたのにもかかわらず、彼女の笑顔で 締められることになる。いわばこのふたつの運命のもつれた糸、これをその両面からほぐして いく。それがこの映画を一面的にしない大きな理由。男の映画でありながら、女性映画の視点 をも同時に併せ持っている。そして誰でも等しくどこかで魔法にかかるチャンスがある、それ を生かすのも生かさないのもあなた自身という。それがこの映画の魅力であった。

メイルちょうだいケロッ

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