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カエル 『めぐり逢い』…ノーラ・エフロンの場合
90年代のアメリカ映画。それはコンピュータの急速な発展によって、特撮技術が格段に進歩した10年で もあった。太古の昔の恐竜たちが活き活きと蘇り、ロボットやクリーチャーたちは自然な動きを獲得した。 それはそれで素晴らしいことではあった。ハリウッドはこの新技術に飛びつき、次々と大作を作っていく。 お金をかければ、かけただけヒットする。映画はどれだけ爆発シーンが多いか、どれだけ人が多く死ぬか、 どれだけスピード感があるか。まるで競っているかのようであった。

例えば『スピード』。ここでは、もはや事件の動機はどうでもいい要素になっている。いかに危険なシーン が次々と襲いかかるか。観客の興味はそこだけに目が行くように作られている。『ゲーム』に至っては、危 険にあうこと自体がまったくのゲーム感覚で、そこには理由もへったくれもなくなっている。映画に「人」 がいなくなった。残ったのはシチュエーションと、映画の技術。何人かの脚本家に自分の得意分野を手がけ てもらい、その良い部分を組みあわせて一本のシナリオにする。こういう映画の作り方も一般的になった。 現在公開中の『アルマゲドン』などもこうした作られ方をしている。そこには作家の個性はありえない。

『スピード2』の脚本は、元々『ダイ・ハード3』として書かれたもの。それに手を加える。会話の部分を 誰々に頼んでみよう。それだけでまったく別の作品が出来あがる。デヴィッド・フィンチャーらが作った製 作会社「プロパガンダ・フィルム」のビジョンは、「こっちの端に金を突っ込むと、向こうの端からビデオ テープが出てくる工場」。ここから数多くのヒット作が今生まれている。それでまた他も右に習う。

その一方で、ハリウッドには逆風も吹いていることも確かである。映画を心から愛する本物のプロが作った 作品もヒットし始めている。『恋愛小説家』『L.A.コンフィデンシャル』『仮面の男』。ここには、旧き良き ハリウッドの伝統が息づいている。ノーラ・エフロンもまた、旧き良きハリウッドの作品を現代風なアレンジ で蘇らそうと腐心している、良心的な監督のひとりである。『マイケル』でハリウッドでは定番の天使を登場 させ、『めぐり逢えたら』では、往年の名作『めぐり逢い』の良さを再認識させ、『ユー・ガット・メール』 では、ルビッチのソフィティケーティッド・コメディの味を蘇らせた。
特に『めぐり逢えたら』は、ハリウッドの昔のロマンスが、今でも充分に成り立つことを証明した意義深い 作品である。同時期に公開されたウォーレン・ビーティの『めぐり逢い』が、無理やりリメイクをして大失 敗したのと違い、昔の作品の良い所を踏襲しつつ、今に通じる別の作品にしていたところが見事だった。

映画の中で『めぐり逢い』の名シーンが何度も出てくる。ビデオを見るという形で。あるいは、会話の中で。 映画を語る女たちの心は熱い。しゃべっているうちに、涙がボロボロと出てきてしまったりする。ヒロイン が足が不自由なことを隠して、足に毛布をかけて、彼と再会するシーンのせつなさについて。あるいは、自 分の現実の恋愛とこの映画をかさね合わせてみたりする。自分の恋を運命と信じこませるために。 私たちが、映画に対して抱く思い。彼女たちのそれは、私たちの感情と寸分も違わない。故に映画の中の出 来事が決して絵空ごとではなくて、ぐっと身近になってくる。『めぐり逢い』は船旅で出会うという設定だ ったけれど、今の観客には、船旅自体がとても豪華で、日常的ではないのに対して、移動の手段は、大陸を 横断する飛行機。もちろんビジネス・クラス以上ではない。この映画はあくまでも、私たちの日常の延長線 上のラインにこだわっている。

ウォーレン・ビーティの『めぐり逢い』の最大の失敗は、実はここにある。無理やりケーリー・グラントの 『めぐり逢い』を再現するため、主人公がテレビのスターという設定にしてあるため、ひどく私たちには遠い 話になってしまっている。おまけに、太平洋の離れ島に住む金持ちのおばさんなんて…。飛行機はファースト ・クラス、高級なリムジンに乗るような人たちの恋愛話に胸ときめく人はいまどきいないでしょう。

話の始まり方も実にシンプルで好感が持てる。車の中で何気に耳にしたラジオ。そこから聞こえてくるパー ソナリティと聴取者との電話での会話に気持ちが惹かれる。こんなこともいかにもありそうなこと。ここで も、映画を観る私たちと、ラジオに聞き入るメグ・ライアンの位置が全く同じところに立っている。彼女が ラジオで捉えたイメージが、私たちには、現実の映像で示されるだけである。(もっともこれが、この映画の 最大のトリックではあるが。)テーブルには、いかにもファースト・フード店で買ってきましたみたいな、 貧しい食事。男が夜中に電話口で涙しながら、亡くなった妻との思い出を語る様は、あまりにも寂しい。 父親の寂しい表情を悲しく思った子供が健気にも、父の新しい奥さんを見つけるために、このラジオ相談室 を利用したと知るや、私たちもメグ・ライアン同様この父子には同情を持ってしまう。

そして、このお父さ んが妻との思い出を語る中で、彼女には同情以上のものを感じる一言が、語られることになる。「妻との出 会いに、稲妻のようなものを感じた」メグ・ライアンには実は、婚約者がいて、それなりに幸せは感じているのだが、こ の言葉、自分の母親が口にしたのと同じこの言葉が、見ず知らずの男の口から洩れたことによって、この幸 せに一点の雲が掛かって行く。これもよくわかる。

現実の私たちも、実際電撃的な出会いなんてことは、そうそうあることではない。映画の中の彼女の出会い は、電撃的ではある。けれども昔の映画によくあったような、一目見た途端に電気が走りお互い見詰め合う といった類のものではない。それどころか二人は、出会ってさえいない。だが、多分に運命的では ある。それなら、私たちも日常の生活の中で感じることがある。時に半分は思いこみであったりもするのだ が、結婚する相手方との出会いや、親しくなった友人のことを考えるとき、そのことに気付かされるだろう。 生まれ育った土地や環境からいったら接点のまるでない人たち同士が、今こうして出会っている。考えてみ れば不思議である。いくつかの偶然にも支配されているようだ。これを昔の人は縁と名付けたのだ。

彼女の出会いも、こうした偶然性が積み重ねられている。自分の結婚観を覆すような言葉が、同じ日に最も 身近な肉親と、距離の離れたラジオの向こうから聞こえてきたこと以外にも、翌日職場に出 れば、同僚たちから同じラジオ放送の話題が飛びでてくる。何気なく聞いていた別の日のラジオで、またそ の録音テープが流される。思いきって手紙を送ってみれば、相手方トム・ハンクスの息子の目を釘づけにす る。彼の好きなベース・ボールのことが手紙に書いてあったから。友人宅で観て、感激していた『めぐり逢 い』に自分の姿が重ね合わされば、もうこりゃ行動するしかないでしょう。だから彼女の気持ちは、私たち にはとてもよくわかる。日常の延長の範囲内だから、共感もできるのだ。さらにカメラは、同じ時間の別の場 所でふたりが何をしているか交互に映し出すことによって、さらにその運命性が高められる。

なんだ。日常の延長じゃ、ロマンチックでもなんでもないじゃないか。映画館で私は夢を観たいんだ。これは ごもっとも。だがそのロマンチックな味付けが、エンパイアステイト・ビルなのである。『めぐり逢い』のロマン スの一番象徴的な部分。元々『めぐり逢い』は『邂逅』のリメイク映画。1939年のエンパイアステイト は、おそらく世界で一番ノッポのビル。それはリメイクのたびに、高さの順位を落としていったけれど、ビル の持つロマンチックなイメージは、色々な映画や小説で繰り返し描かれることによって、むしろ高くなって いったとさえいえる。しかも映画の中のビデオの映像や会話で繰り返し『めぐり逢い』が語られることによ って、益々そのロマンス性が高められていく。『めぐり逢い』のロマンチックなエッセンスをお話にパラパ ラと振りかけることによって生まれるロマンス性。これが実はこの映画の一番うまいところだと思うのであ る。

これこそ、ノーラ・エフロン監督の真骨頂。『マイケル』では、ごくごく平凡な男女の出会いを、ハリウッド 映画伝統の天使のマジックで色付けし、『ユー・ガット・メール』は、古き良きハリウッドの名作のロマン スをもっとも現代的なEメールに置き換えて蘇らせた。昔のハリウッド映画の温かさ。それは今観ても心ひ かれるものはあるのだけれど、今の私たちには遠い世界であることも否定できない。それらの素晴らしさは、 既にクラシックの世界なのだ。そのまま出して、今のすべての観客に受け容れさせることは、残念ながら不 可能である。ただ昔の観客も、今の観客も映画に求めているものは一緒のはず。だからこそ、こういう映画 作りには価値がある。最近そういう映画も増えてきているけれど、その中でも私は、ノーラ・エフロン監督 に期待するものは大きい。そして第2、第3のノーラ・エフロンが出てくることも願っている。なぜなら、 21世紀がテクノロジーの映画だけになってしまったらあまりにも寂しすぎる。21世紀にはコンピュータの更な る進歩によって俳優はいらなくなるなどと豪語するテクノ大好き人間がいる今だからこそ…。



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