シネマ道楽の目次へ   ホームヘもどる
カエル 映画を観るように歌舞伎も楽しみたい!
歌舞伎の通の方と見に行くと、よく何代目と較べてまだまだだな。とか、何代目がやっぱり良かったな。な どという話しを聞かされて、私はよく貝になってしまう。歌舞伎というと、そんな積み重ねや、数多くの決 まりごとや所作などもあり、また台詞の独特の言い回しなどもあって、敷居の高さをよく感じてしまった もの。ところが歌舞伎は元々は庶民の娯楽。日本に旅行にきた外国人、彼らはそんな決まりごとなどまっ たく知らないが、それでも歌舞伎の美しさについて目を輝かせて語る。映画にも人それぞれの楽しみ方があ るように、歌舞伎にも人それぞれの楽しみ方があって良いはず。今日はそんな私流の歌舞伎のお話。

正月の歌舞伎座はとても華やか。艶やかな着物姿の女性の姿もちらほらと目につき、気分は高まる。すぐ近 くで近藤サトさんが、お得意さんに挨拶をしている姿をみかける。これもお正月興行ならでは。お土産売り 場では、人気役者の今年のカレンダーが並べられている。やっぱり玉三郎は美しい。プログラムの表紙も縁 起モノの「曽我」の役者の七福神。最初の出し物は、この絵からあたかも抜け出してきたような、華やかな 「曽我もの」の踊り、そのタイトルも『當年祝春駒』(あたるとしいわうはるこま)。こいつは春から縁起が いい。

「身替座禅」

舞台には、大きな松の絵。『勧進帳』と同じく能の舞台のようなセットになっている。奥のひな壇には、三 味線や唄い手が並ぶ。袖の入り口も能と同じ幕が降りている。場所は京都の郊外。中くらいの家に召使を数 人抱えた御所勤めの主人公は、大の恐妻家だ。よせばいいのに、一人浮気の算段を練っている。「どうやっ てこの家を抜け出そうか。嫉妬深い妻のこと、そう易々とは一人出かけるのを許すはずがない。しかし、女 から会いたいという恋文をもらって置きながら、会えないのは口惜しい。さてさて。」

奥方登場。演じるのは、「鬼平」こと中村吉右衛門。体は大柄だし、目は落ち窪み、笑えばお歯黒べったり、 お肌もたるんで、お世辞にも美しいとはいえない。ウゲぇー。
「相談なんだがね、この頃どうも夢見が悪い。これは何か悪い予兆のよう。そこで仏詣りに出掛けようと思 っている。1週間くらい留守にしたいが、いいだろう。」
しかし、そこはさすがの女の感。嫉妬深いこの妻がこんなことを許すはずもない。「あなた、そんなことな ら家でだって出きるじゃありませんか。何もそこまでしなくてもよろしくなくって。」
「それなら持仏堂に七日七晩、篭ることにしよう。見舞いはするなよ。」
妻は負けない。「見舞いはしない変わりに、それなら一晩だけなら許しましょう」
渋々それで手を打ったこの夫、情けないが一晩だけでもよしとしようと従者を呼び寄せて、身替りの座禅を 申し付け、ひとり意気揚揚と若い女の泊まる宿へと出かけていった。

場面は変わって夜中の持仏堂、憐れな従者がただひとり、頭からすっぽりと座禅用の衣を被ってひもじい思 いで座っている。すると、外から物音。衣を透かして見てみれば、嫉妬深いあるじの妻。「うひゃー、バレ たらわしが解雇されちまう」「あなたお腹すいたでしょう。夜食をもってきましたわよ」声を出せないこの 偽だんな、首を懸命に横に振るばかり。訝しく思った妻は、「なぜ声を出さないんです。ホラホラ頭巾を取 ってお食べなさいよ。えー、せめてお顔を」かくして夫の悪だくみもいっかんの終わり。事の次第を聞き出 した妻は怒った怒った。「えー、行くなら行くと正直に言えば許すものを」腹の虫はおさまらず、ここはひ とつ懲らしめてやろう。身替りの身替りになって夫の帰りを待つこととした。

そうとは知らぬこの旦那。夜も白み始める頃、上機嫌で戻ってきた。足は千鳥足、顔は火照って緩みっぱな し。「ちゃんと身替りを勤めてくれているかな」
富十郎の見せ場である。もしこの前のシーンで女との逢瀬の場面があったとしたら、それはわかりやすいが 面白みがない。いかに彼女に優しくしてもらったか。いかに恋の炎が燃え上がったか。彼の愛しい恋人は、 どんなに可愛い女だろうか。すべては彼の演技にかかっている。花道から舞台に向かう僅かな時間。その歩き っぷりを見れば、もう観客には充分である。微笑ましくあり、滑稽でもあり。

トントン、この楽しい出来事を誰に話さずにいられようか。「おうおう、ご苦労であった、ご苦労であった。 妻は尋ねてきやしなかったかな。まだ皆が起き出してくるには時間がある。ちょっとわしの話に付き合って くれぬか」
今、目の前で衣を被るこの男、この衣の下に自分の妻がいるなぞとは夢にもしらず、しゃべったしゃべった。 「いやー、彼女なこのわしにな…」ここからは、まさにミュージカルになる。常磐津と長唄の掛け合い。それ に合わせて、ザッツ・ダンシング!体いっぱいに楽しさを表現する。肝心の唄は私には、独特の言いまわしの ために、そのすべてはとても聞き取れないけれど、その楽しさは充分に伝わってくる。時折怒りに体がブルブ ルと震える妻。怒りのあまり、衣を取りそうになるが、最後まで聞こうと思いとどまる。その様子がたまらな く可笑しい。段々と調子に乗ってきた旦那「あー、それに引替えウチの妻。鼻は低くて、目はギョロ目、色は 真っ黒で山にいる猿のよう。ぶざまだねぇ」

あちゃー、ここまで言われたら、もはや黙ってはいられない。怒りに顔を真っ赤にして、ついに被っていた衣 を脱ぎ捨てて、夫を睨みつけた。さてどうなるか。夫はしばらくそれさえ気付かずに、ますます闊達にしゃべ りまくる。「…ハハハッそれでね…」目をそちらに向けてみれば、そこにはよく見馴れた女の顔がある。怒り に震え、今にも噛みつきそうなその顔が、目の前に立ちはだかっていた。もはや言い訳のしようがない。逃げ る夫、追いかける妻。(幕)

「歌舞伎」というと、とっつきにくいと思われる方も結構いらっしゃると思う。でもそのお話は、意外に単純 でわかりやすい。この話が作られたのは、江戸時代。元々は能の作品だったのを、明治時代に歌舞伎用に直さ れたもの。現代でも充分に通じる話だ。女性に翻弄される情けない男の姿は、まるでウディ・アレンのよう でもある。江戸時代の人々の心と現代の人の心が通じ合う、これも歌舞伎の醍醐味のひとつ。歌舞伎は伝統 芸で過去のもの、生きた演劇ではないと思ったら大間違い。この作品でもちゃんと現代的な解釈がもちこま れている。ひとつは、妻役の吉右衛門の化粧。もともとは「おかめ」風なメイクをするものであったものが、 (そういう演出のものを観たという友人からの情報ですが)この舞台では、そんな大げさなものではなく、も っと自然なものに変えられている。洒落っ気なく後ろで束ねられた髪、つるつるにそった眉毛、鼻の小じわ、 目の下の赤い隈取、疲れた感じ。なんかそこいらへんにいるおばさんのようではないですか。嫉妬深い女と いう一面的な見せ方だけでなく、夫を思う可愛い女という一面も見せてくれているのだ。それで誰にでも共 感できるコメディになっている。

映画でもこうした洒落たコメディはなかなかお目にかかれないと思う。もっとも歌舞伎と映画は勿論同列で は語れない。映画は、写実主義。歌舞伎は、様式美。映画と違いどんな表現手段でも不自然にはならないという 強みもある。例えば「殺し」の場面、刀をふりかざしたそのときに、空からハラハラと降ってくる真っ赤な 花。こんな美しい演出は、映画ではちょっとやりにくい。ただその表現方法の違いこそあれ、ふたつに共通 するのは、人間のドラマ。そこには人間の心が流れている。これを見逃す手はないっしょ。

メイルちょうだいケロッ

トップに戻る   ホームヘもどる