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カエル サヨナラの向こう側
1998年11月11日、淀川長治さんが亡くなった。89歳だった。淀川さんのような人は、なんかずっ と生き続けるような気がしていた。いつまでもテレビや雑誌で、映画の楽しさ、素晴らしさを私たちに語り 続けてくれるようなそんな気がしていた。しかし気付けば、淀川さんが愛して止まなかったチャプリンの歳 を1歳超えていたのだった。

淀川さんの日曜洋画劇場は、私が物心がついた頃からすでにやっていた。「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」 なんと優しい響きを持っているのだろう。
私が淀川さんに夢中になったのは、「ラジオ名画劇場」だった。忘れもしない1977年12月26日のチャ プリンの追悼の放送。「チャプリンが昨日とうとう亡くなりました…」涙声で語るその必死のおしゃべり。 モノクロのチラチラと動く映像、遠い昔の人というイメージしかなかったチャプリンが目の前に活き活きと した姿で現れた。
その時から私は、淀川さんとチャプリン、そして映画に大きな興味をもつことになった。こんな風に淀川さ んのおしゃべりで映画ファンになった人が全国にどれだけいたのだろうか。「映画伝道師」こんなにぴった りの言葉は他にないだろう。

旅行先での淀川さん。ひなびた温泉地。「あーっ」と言って色々な方が寄ってこられる。高校生、腰の曲がっ たおばあさん。皆嬉しそうな良い顔をされている。疲れていても、そんな人ひとりひとりに笑顔で握手して いた淀川さん。
「苦労よ来たれ」「他人歓迎」「私はかつて嫌いな人に会ったことがない」この3つのスローガンを掲げ自 ら実践されていた。

「映画友の会」。映画雑誌「映画の友」に入社した淀川さんが始められた映画ファンの集い。昭和23年8月 上野高校で始まり、途中「映画の友」の廃刊があるも、44年にもわたって続けられた。
私がこの会に通ったのは、終わりの5,6年だった。会の長さから較べれば僅かな時間ではあるが、私にとっ ては今思えば貴重な月日であった。私の今の生活の母体はここにあるといっても過言ではない。この会で家 内と出会い、今も続く友人を得、映画サークル「シネ・ビジョン」を始めるきっかけを作った。映画の観方 を教えてもらい、自分の趣味を広げ、生き方を学ばせてもらった。淀川さんは私にとっては、恩人である。 恩師である。

会の始まりに、淀川さんはよくこんなことをおっしゃっていた。「今日は平成7年7月7日ですね。7月は 31日あります。7日は年に12回です。しかし、平成7年7月7日は生涯で1回しかないんです。そう思 ったら本気になるね。一生に1回しかないこの日、本気でやらなきゃ損と思いますね。」
この言葉通り淀川さんはいつも本気だった。80歳を目の前にし、かつ病み上がりの時でさえ、決して椅子に 腰掛けて話をすることがなかった。2時間立ちっぱなしでしゃべりつづけた。映画の登場人物の身振りを まねし、時に伴奏の音楽まで口づさみ「淀川長治の目」で観た映画を再現した。私の目では到底気付けぬ映 画が持っている美、命を鮮やかに目の前にみせた。命がけだった。ホテルに着くとぐったりとして寝こんで いたと聞いている。

そんな淀川さんが一度ものすごい怒ったことがあった。クリスマス会でビデオを使ったゲームをした時だっ た。「映画の間違い探し」(同じ時間、同じ場所なのにシーンが変わったら主人公が違う色の服を着ていた という類の)。「近頃の若い人には映画に対する愛がありません。昔のファンはそんなことをしませんでした。 映画が本当に好きだったらそんなあら捜しなんてとてもできませんね。」もっと強い口調だったように思う。 結局最後まで怒ったままこの会は終わってしまった。

淀川さんは常日頃こうおっしゃっていた。「映画は娯楽だと思うからたまにでもいいや、になってしまうん ですね。映画は人生の教室です。こんな素晴らしいものを観ないのは貧しい人。映画を観る人は顔の表情も 豊かになってくるね。もう、何年も観ない人の顔はこんなになってくるね。(しかめっ面をして)気がきく人 と気がきかぬ人の差は生死の問題に近い。映画とは何か。気がきく勉強、気のつく勉強、感情を示す勉強、 感覚の勉強…。」

5年も通っていると、こんな言葉が空で言えるようになってくる。当時私は、この言葉を聞いていつもわか ったような気がしていたものだった。しかし、私たちが本当にその言葉をわかっていたとしたら、あのよう に淀川さんを怒らせることはなかっただろう。悲しませることにはならなかっただろう。今になって、あの 5年間に聞いた数々の珠玉の言葉が身にしみてくることがある。そしてこのホーム・ページの「Jack&Betty」 の記事を書いたあとで読み返し、淀川さんの映画の観方にものすごい影響を受けているのに気付くこともあ る。でも、淀川さんの残した言葉の数々は、実は年齢を重ねてさらに、身にしみてくるに違いない。今そん な気がしている。

淀川さんの『映画遺言』の最後の言葉。「一生、映画と共に生き抜いたことを私は誇りに思います。映画が この私を造ってくれました。」亡くなる前日まで「日曜洋画劇場」の撮影をし、文字通り最期まで映画に自 分の命を捧げた淀川さん。淀川さんが亡くなっても映画はなくならない。淀川さんの残した数々の本やビデ オと共に彼は生き続ける。そして私たちの心のなかにも生き続けていく。

メイルちょうだいケロッ

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