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カエル ブラボー! トレバー・ナン
〜「十二夜」を観て〜


トレバー・ナン監督の「十二夜」。
映画公開の情報を聞いてより、はや2年。 待った甲斐があった。これぞ本格的シェークスピア劇の映画化。 2時間14分、すっかり堪能させていただいた。
まずは出演者のぜいたくさに目を見張る。 イモジェン・スタッブス、ヘレナ・ボナム・カーター、 ナイジェル・ホーソンにベン・キグズレー、その他RSC出身の 俳優たちがズラリと並ぶ。
この頃シェイクスピア劇はちょっとしたブームになっている。火を 点けたのはケネス・ブラナー。アメリカの豊富な資本を利用し、豪 華な衣装やセットを用意し、広く大衆に英国のこの古典劇をアピール し、見事ハリウッドのお偉方にもシェイクスピア劇が商売になること を知らしめた。その功績は誠にデカイ。
しかし、悲しいかな。アメリカ資本。お客を呼ぶためには、著名なア メリカ俳優を使う必要がどうしても出てきてしまう。しかし、アメリ カの若手俳優にあの独特の台詞まわしはちょっとつらい。映画はとて もとっつきやすく、誠に楽しく出来上がっているのだけれども、その 辺がいかんともし難かった。ところがこの映画、キャストやスタッフ が全て英国人で統一されていた。そこが本格を思わせて、期待はいや が上にも高まった。

トレバー・ナンは、英国の舞台劇で今もっとも活躍している演出家で ある。元々RSC出身なので、シェイクスピア劇は勿論、ディケンズや チェーホフなどのストレート・プレイ、オペラやミュージカルまでも 手掛けている。最も有名なところでは「キャッツ」「スターライト・ エクスプレス」「サンセット大通り」が彼の手によるものだ。
特に「サンセット大通り」。ビリー・ワイルダーのこの名作は、あまり にも映画的な題材。また、その手法もサイレント時代の演技法をとり 入れたり、クローズ・アップを効果的に使ったりと、余りにも映画的。 果たしてこれが舞台になるのか。
それを彼は勿論見事な方法でやり遂げた。その昔、大正時代にあったと いう連鎖劇。芝居の途中、追っかけの場面が来ると、さっと舞台はス クリーンに早変わり。カーチェイス・シーンが繰り広げられるという 何とも馬鹿げたお芝居なのだが、彼はこれを実に巧みに取り入れたの である。
その結果、主人公のサイレント女優が昔の自分を懐かしむシーンや、 その他舞台では表現することが不可能と思われたシーンを見事にクリア してしまった。映画の雰囲気もほとんど損ねず、なおかつ舞台的な興奮 に満ちた誠に感動的なお芝居であった。トレバー・ナンはこういったア イデアマンの一面も持っている。

話は戻って「十二夜」。実はこの作品は過去に映画化された例があまり ない。さすが、本場英国では10年に1回の割でTVドラマ化されている。 しかし、映画では知る限り、サイレント時代に1本、オーストラリアで 1本を数えるのみ。
瓜二つの双子の兄妹。その取り違えのコメディーという、このドラマ設 定が映画化を困難にする。舞台では、この二人の兄妹が別人ということに 誰も気づかぬという事実に観客が疑いの余地を持たないのは当然である。 しかし、映画にはクローズ・アップがある。大スクリーンに映し出された 役者のクローズ・アップ。これを観て観客がその事実に納得できるであろ うか。かといって、この兄妹を一人の女優が一人二役をやったとすると、 観客は益々混乱するだろう。これをどうクリアするか、それが問題だ。
トレバー・ナンはこの問題を見事に解決している。「十二夜」は、シェイ クスピアの演劇ではしばしばあるのだが、道化が登場する。彼は、この 道化に着目し、その存在にこの物語の目撃者にして語りべという地位を 与えたのだった。キャストは「ガンジー」のベン・キングズレー。彼に よって道化は、台詞の言うところの「愚か者」などではなく、吟遊詩人、 はたまた哲学者、あるいはオリヴィアの亡くなった父の心の友といった 地位にまで高められた。原作通りの「愚か者」がこの物語の語りべでは、 何か締まらないことになっていたであろう。
そして、映画の導入部で、早くもこの道化の歌を登場させる。「物語を お聞かせしよう。お耳を傾けていただきたい」と。これはオリジナルの 戯曲にはない。彼は、ここで観客に約束事をさせているのである。すな わち、「これは道化が見聞きし、皆さんに語っているお話なんですよ。」 と。さらにトレバー・ナンは、この戯曲にある数々の歌を用い、ミュージ カル的な演出も取り入れている。ミュージカルにリアリズムを求める観客 はまさかいまい。演劇の世界にあるお約束事を、映画的な方法でやったそ のアイデアは見事という他はない。

この映画、キャスティングの豪華さには誠にため息がでる。オリヴィアの 執事マルヴォーリオ。傲慢で自惚れや、日和見主義で権力志向、保守的で ユーモアのセンスもない俗物。舞台では、この役の良し悪しで観客の受け が変わってくる重要な役。かつてはアレック・ギネスも演じたこの役を名 優ナイジェル・ホーソンが演ずる。決して大袈裟でなく、自然に笑いを誘 い、この希代の堅物に見事に生命を吹き込んだ。マルヴォーリオは、我々 の内のどこかに存在する。そう思わせる血の通った人間味溢れる人物像を 作り上げた。
リチャード・E・グラント、サー・トビー役のメル・スミスもその名人芸 を魅せ、ヘレナ・ボナム・カーターもオリヴィア役は彼女の他には考えら れないほどの美しさと気品を見せていた。特に、恋をして、喪服から色 鮮やかなブルーの衣装に着替えた時の目が覚めるほどの変貌ぶりは、誠に 見事であった。

そして、主役ヴァイオラ役のイモジェン・スタッブス。人によっては監督 の奥さんが主役ということで、疑問を持つ方もおられるだろう。
私は以前、ロンドンで彼女の「セイント・ジョーン」を観たことがある。 「セイント・ジョーン」とは、フランス語では「サン・ジャンヌ」。要す るにあのイングリッド・バーグマンも憧れていたというジャンヌ・ダルク の物語だ。
イモジェン・スタッブスは「サマー・ストーリー」「いつか晴れた日に」 などの映画とはおよそ違うイメージで、快活にして颯爽とし、一つのことを 信じきって、真っ直ぐに突き進んで行くといったジャンヌ像を創り出していた。 奇しくもこの舞台でも、長い髪をバッサリと切り落とし、別の自分に生まれ 変わるといったシーンがあったことを「十二夜」の同様のシーンを観て、鮮 やかに思い出した。普通の女からキリリとした少年のような女(男)への 華麗なる変身。彼女は童顔でもあるので、中性的なこういう役柄がとても 魅力的に映る。それゆえ、このキャスティングは、実はとても的確なのである。 決して、妻だからという意味での主役ではないことを、申し上げておきたい。

このお芝居がはねたあと、私と家内は年甲斐もなく、楽屋口で彼女に日本で 買ってきたプレゼントを渡した。私たちのささやかなプレゼントにイモジェン は、少女のようにはしゃいで「このクッションどこに置こうかしらね。」と 大喜び。その脇で目を細め、彼女を優しく包み込んでいた一人の中年男。こ れが何とトレバー・ナンその人であった。そこにはホンワカと暖かい空気が 流れていた。
トレバー・ナンはキネマ旬報のインタビューで次のように語っている。「実は 彼女の舞台を昔観て、この子ならヴァイオラの役に打ってつけだなって思った ことがあったんだよ。」
あの日、あの時の「セイント・ジョーン」の舞台がまさに今日の映画「十二夜」 のアイデアの原点になっていたのだなと今にして思い、いっそうこの映画への 愛情が深まったのであった。

メイルちょうだいケロッ

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