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カエル 『映画日記6月号』

『戦場のアリア』


『戦場のアリア』…「G線上のアリア」なんのことはないゴロ合わせか…原題はもっとシンプルに 『JOYEUX NOEL』…メリー・クリスマス。

1914年第一次世界大戦のクリスマスイヴの日、戦場にあったドイツ兵とスコットランド兵、フランス兵が、一時的に休戦をし、みんな でクリスマスを祝ったという奇跡の物語。敵同士が握手をしあう、そんなことが本当にあったのかと思われる方もいるんではないかと思う が、これは実話だ。ヨーロッパでは意外と知られた話であるらしい。すでに1983年にポール・マッカートニーがこの物語を元に 「パイプス・オブ・ピース」という曲を発表していたことを映画を観ていて思い出した。これにはプロモーション・ビデオもあって、ドイツ兵とス コットランド兵、フランス兵が酒を酌み交わし、恋人や妻の写真の交換をしたり、サッカー、トランプに興じたりする様子が描かれている。 このビデオ実は、本作よりも、軍服が汚れていたり戦場がぬかるんでいるなど意外にリアルな部分があったりして興味深い。
(もっとも監督自身は、偶然読んだ一冊の本のわずか1ページの挿話を膨らませたということで、このビデオのことは知らないようだ。)

一方この映画の戦場は美しい。ここで本当に戦闘が行われていたのだろうかと思ってしまうほど綺麗である。塹壕の様子もそんなに劣悪に は見えない。しかしそのことをもってこの映画は非現実的であると決め付けてしまうのは早計である。クリスマス・イブに降った雪が戦場 の醜悪さを一時的に消し去っているのに過ぎないからだ。その下には、兵士の死体がころがり、爆弾で荒れ果てた地面が広がっていること に思いをはせるべきである。

クリスマスの神聖さ、すべてを美しく消し去る白い雪、クリスマス・ツリーのネオンの輝き、そしてお酒と美しい音楽。これらすべての融 合が人々の気持ちを和らげ、奇跡を呼び起こしたといえるだろう。
しかし、奇跡の陰では、同じ戦場で兄を殺した敵と交わることなんてとてもできないという者もいるあたり、シビアなところもしっかりと みせているあたりがいい。人間なら自然な気持ちである。

しかしながら、敵兵も自分たちと同じ人間、祖国を思い残してきた家族を想う気持ちには変わりはないない、だからこそそこに友情が芽生 えたという美しい物語も、現代の戦争に思いを馳せる時やるせない気持になってしまう。

なぜか…
そう、彼らは同じヨーロッパ人で、大部分がキリスト教徒であったのだ。こ の奇跡は、クリスマスという共通した文化があってこそ起こりえたものとも言える。ただ映画ではその辺りがちゃんと意識されていて、ド イツ側の将校にはユダヤ人を配することによって、物語が小さくならないように気を配っている。しかも、ドイツのユダヤ人のその後の運 命を私たちは知っているので、そのことによって余計に悲しい気持ちにさせられてしまうという効果も生まれている。

それでも私は『戦場のアリア』のユダヤ人の行動を観ていて、『ドライビング・ミス・デイジー』 の中で、ユダヤ人のおばあさんが、運転手にクリスマスにプレゼントを贈るシーンが頭に思い浮かんだ。「私はユダヤ教徒だからクリスマ スは関係ないのよ。これはだからクリスマス・プレゼントというこ とではないからね。」とわざわざ断りながら贈るのだが、やはり運転手にとってはクリスマス・プレゼントに他ならない。そんなシーン。
この映画のドイツ将校もユダヤ人だからミサにはもちろん参加しないのだが、みんなのお祝いには参加していっしょにお酒を飲み、楽しく 語りあう。こういうことができるのは、やはり彼らがヨーロッパ文化という共通する文化を持ち合わせているからだと言えるだろう。

もし 戦争で敵対する相手が中近東のイスラム教徒だったとしたらやはりこうはいかなかだろう。戦争の大義名分が宗教そのものであるし、お酒 を彼らは飲むことができない。この違いは大きい。
『ノーマンズ・ランド』でも、憎しみあう敵同士ふたりが故郷の共通する話題を見つけて、一瞬親しみを感じる時がある。奇跡のきっかけ は、やはり共通した文化、共通する話題があることが必須なのではないかと思う。そのきっかけをなくしては敵も同じ感情をもった人間 同士といったところにまで近づくのは困難であろう。「イエスは、人はみな平等だと言った。だがより正確には、人はみな、社会に占める立場 の如何にかかわらず<信ずる神の前には>平等である、と言ったのである。」(塩野七生著「ローマの街角」新潮社より) という一文を私 は思い出してしていた。この美談を観ていて余計に悲しい気持ちにさせられてしまったのは、実はそんなところかもしれない。



<ここから先は映画をご覧になってから読まれることをオススメします。>





この映画で監督が伝えたかったことは、最後の10分間に込められているように思う。

自分の身の危険も顧みず戦争に赴き、しかも前線で 兵士たちを励まし慰めつづけてていた神父。戦場でミサを開いて、この奇跡の物語で重要な役割を果たした神父。戦場で彼が果たした役割 はいかに大きなものだったか。しかし、司祭によって彼は戦場から追放されてしまう。「あなたの軽はずみな行動で、部隊はさらに過酷な 戦場に送られることになった。そしてこの戦場には、来なくても良かった若者たちがまた送られてきた。その責任はとりなさい」という わけだ。

そして司祭は戦場に向かう若者たちに言葉を投げかける。「この戦争は聖戦です。あなたたちは現代の十字軍として、戦場に派遣 されるわけです。」どこぞの大統領の口から発せられたのと同様の内容が司祭の口から神の名において語られる。兵士たちの魂の救済を真剣 に考え行動していた神父は、この言葉を聴いて暗澹たる思いに駆られる。自分たちは安全な場所にいつもいながら、若者たちを戦場に送り 出すこの司祭の偽善。神の名前を使って、戦争を肯定する教会のこの偽善。宗教とはそういうものではないだろう…彼は胸にかかった十字 架を静かに下ろして去っていく。

そして、列車に乗せられ激戦地に送られるドイツ兵たち。戦場にハーモニカなんて不謹慎と、将校にハーモニカを踏みつけられ壊されても まだ口笛で音楽を奏で続けた兵士ひとりひとりの人間性を失わんとする心。それでもなお、こんな奇跡を起こした人間の心を信じた いという監督の気持ちがここに表れているのではないだろうか。私はこの最後の10分間だけで、この映画のことが好きになってしまっ た。

しかしながら、この映画で唯一失敗と思われる点もあることは挙げておかざるをえない。歌手夫妻の愛のエピソード。歴史的事実はドイツのテノール歌手がドイツ軍の塹壕で歌っ ていたところ、それが有名な歌手であることに気づいた敵兵(フランス兵)が拍手を贈り、またそれに応えるために彼が自分の陣地を超え たことに始まるというのだが、映画ではどうしても夫に会いたい妻が自分のオペラ歌手としての地位を利用して、戦地に赴き、ふたりが 歌ったことによるというふうに変えられている。

脱走してでも、ふたりで逃げようと訴える妻にそうはできないという夫。そうこうして いるとき、兵士たちは、国に帰る際に家族に届けて欲しいと彼女に手紙の束を託す。ここで彼女がやっぱり逃げるわけにはいかないといっ た迷った表情を見せるのまではいいのだが、結局は手紙を赤十字に預けることにして、ふたりで敵側の捕虜になることによって、逃げる選択 を取ってしまう。

確かに離れたくない気持ちはわかるのだが、ふたりの愛のためには大勢の兵士たちの家族への思いを犠牲にしてしまってもいいものなのだ ろうか。こんなのはホンモノの愛とは思いません。なんて身勝手な愛なのでしょうか。しかもその手紙が上層部に渡ってしまったために、 軍部にとってみれば勝手な行動に過ぎないクリスマスのこの休戦が知られることとなり、兵士たちは、より過酷な戦場へと送られることに なるのだから、罪が大きい。こんなふたりは幸せになってはいけません。せっかく良い内容の映画なのに、この点だけでなにかすっきりと しない気持ちにさせられてしまったのは、大変残念なことだった。

メイルちょうだいケロッ

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