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カエル 『映画日記2月号』



『クラッシュ』

これはアメリカはロサンゼルスのお話、街そのものが主役となっている。アメリカのボストンでもない、テキサスでもない、ニューヨーク でもない、ロスというところにこそ大きな意味がある。ニューヨークはある意味アメリカの中では特殊な街。都会的センスに溢れ、世界か ら人が押し寄せる、いわば国際都市。もうひとつの大都市ロスは、それに比べるといかにもアメリカ的。しかも常にアメリカの先端を行く 街である。この映画は今のロサンゼルスを、イコール今のアメリカの病を、僅か112分という短い時間に収めえた傑作です。

ロスと言えば、だだっ広い道路に車の群れ、人種のサラダ・ボウル、ハリウッド、そして移民はいまやメキシコからロスへと流れ込む。こ の映画のタイトル『クラッシュ』は、車と車のぶつかりあい、人と人のぶつかりあいを指してる。車社会ゆえのこのタイトルもまた実に象 徴的で興味深い。

「人と人とがふれあいを求めているんだよ」「あなた頭がおかしくなったんじゃないの」事故を起こしたばかりの黒人男と白人女の会話。 車から降りた女と相手方の車の女がたちまち口論を始める。「そっちが急に停まるからぶつかったんじゃないの」「前に車が停まっていた から停まったのに、あんたがブレーキ灯を見ていなかったのじゃないの」何も人と人とがふれあいを求めて車をぶつけているわけじゃない。 裁判で不利になるから事故を起こしたら決して謝ってはいけない、これが訴訟社会のアメリカの鉄則なのだ。

だだっ広い道路に車に乗って、事故でもおこさなきゃ決して他の誰とも接触することのない社会。車に乗っていれば安全なのだが、一旦車 を降りてみると、その見えなかった相手とたちまち口論となる。見えない相手ほど怖いものはないから、お互い防御本能が働き余計に過激 になっていく。けれどもどこかで、人々はそんな社会を息苦しく感じ、ふれあいをほしいとも思っているのではないか。そんな孤独なロス の人々のつぶやきをこの男は代弁していたのだった。このようにファースト・シーンで映画のテーマは明確となる。

この映画は様々な問題を抱える、ロスの人々、ロスの街の姿(それはアメリカの病そのものなのだが)を群像劇の形で、浮き彫りにしてい く。銃声がしたとおびえる女の子と、それを素敵な方法でなだめる父親。何かというと人種差別のせいにして犯罪を繰り返す若い黒人男。 ペルシア移民の家族なのに、アラブ人と間違えられて迫害を受ける家族たち。夫はワスプで優秀な検事、生活にも恵まれ何ひとつ不自由 がないにも関わらず、いつも何かにイライラし、その原因さえわからない孤独な妻。白人社会の中である程度の地位を築くも、常に白人 黒人の板ばさみになり、母からも疎まれる刑事。父を看病する優しい息子でありながら、人種差別主義者でもある中堅の警察官と、理想に 燃え、そんな先輩に反感を持つ若い警察官のパトロール・コンビ。そしてさらにこれらの人たちの周辺にいるかのような中華系移民たち。 彼らの周囲には、カントリーからラップ、中近東風の音楽など、それぞれの曲がいつも流れてくる。音楽は決して混じり合うことはない。 それどころか、これらの人々が偶然に出会い、そして交通事故のように衝突を繰り返していくのだ。衝突は人種間同士ということでは決し てない。黒人同士の間でもその地位の違いによって、反感を抱くことさえある。そして衝突の間には、いつ懐中から銃が出てくるかわから ないという緊張感があるのだ。

それでもそんな衝突の中からも時に、差別意識を超えた人間同士のつながりというものが生まれ、感動的な展開になることもある。人種差 別という意識が取り払われ、警官としての義務感いやそれ以上に人を助けたいという純粋な心だけで行動を起こした、あのマット・ディロ ン扮する警察官。そして自分の危機のときに傍にいてくれた人に仕事の関係以上の温かさを感じたあのサンドラ・ブロック扮する孤独な妻。 時に小さな奇跡が起こり、ホロリとさせられる瞬間も確かにこの映画にはあるのだ。

しかし、それと同時にこの映画はそれらが何の解決にもならないことも示してみせる。頭で解決しようとしてる人がいても、それは役にた たない。ブードゥーの守り神も何の役にも立たない。検事が黒人を表彰したところでなおさら何の意味もない。ロサンゼルスという地名で あっても、誰にでも天使がいるわけではない。人々は相変わらず衝突を繰り返し、緊張感の中で日々を過ごしていく。このように映画は現 実の厳しさから離れることは決してなく、ましてや解決の糸口さえ与えてくれることはない。ただそれぞれの人にあるはずの心、今は それにわずかに起こる奇跡を期待するしかない。ラスト・シーンには、再びカー・クラッシュのシーンが繰り返されると同時に、小さな奇跡も用 意されている。それは希望というよりは、祈りに近いものだと私には思えた。



『僕のニューヨークライフ』

いつもながらのジャズ音楽に、黒に白ヌキのタイトル文字。今回は原題の「エニシング・エルス」にひっかけたのか、コール・ポーターの曲 がテーマ曲となっている。しかしながら、このタイトルいつものウディ・アレンの映画のからするとなにかキレが悪い。 『SWEET AND LOWDOWN』『HOLLYWOOD ENDING』彼のタイトルはもっとはっきりとしていてどこか洒落ていたはずだ。しかしこのタイトル 「他に何か」は、この前後に続く言葉が本来あるはずなのだが、それがない。単独で使うと何だか投げやりな響きがある。

そして実際にそんな違和感を感じ続けながら、この映画は進んでいってしまうのだ。
ニューヨークの景色にもいつもの冴えがない。セントラル・パークのシーンがやたらに多い。まるで何かから逃げ込んでいるようである。 またウディ・アレンがふたりもいる。というのも主役の若者 ジェイソン・ビッグス の演技がウディ・アレンにうりふたつだからである。 恋のトラブルに巻き込まれ、仕事(物書き)のほうもスランプとなり、精神科医に通いあたふたとしているキャラクター自体もかつてのウ ディそのままだ。

勿論、ウディ本人も彼の相談者でコメディ作家(実は学校の先生で食べているだけだが)の役で出ている。 また珍しくオープンカーに乗って登場したりするのだが。およそ似合っていないし、「銃を買いに走る」ウディとなるとまったく考えられ ない。

なぜこんなことになったのかと映画を観終わってしばらく考えこんでしまったのだが、それは映画が製作された年に関係があるように思える。 2003年の作品ということであるが、実は前作『さよならさよならハリウッド』はハリウッドが舞台ということで、これが9.11以降初めて ニューヨーク・ロケした映画ということになるのだ。

以前とはどこか変わってしまったニューヨーク…。私はこの映画からウディ・アレン自身のそんなとまどいを感じてしまうのだ。 いつ何が起こるかわからない。そのために銃を買い、水に浮かぶ懐中電灯を買い、簡易浄水器を買う。過敏症を通り越して強迫観念さえ 感じさせるこの人物像は、まさに9.11の影響大である。

レストランに入ろうと前の車が出るのを待っていたところ、ちょっとしたすきに別の車に入られてしまう。ここまではいつもの要領の悪い ウディ・アレン。しかし決まりが悪いので言い訳をするのだろうと思いきや、途中まで車を進めたあとやおら引き返して、その車の窓を叩 き割る攻撃性を見せる。こんなウディはちょっと今まで観たことがない。

一方今までのウディ・アレン的キャラクターとして、ダニー・デヴィートが登場する。主役ジェリーのエージェント役だ。この人物、 エージェントといってもジェリー意外には顧客もなく、エージェント仲間からは笑いものになっている男だ。そう、かつてウディ・アレン が演じたダニー・ローズ(『ブロードウェイのダニー・ローズ』)の分身みたいな男なのだ。ウディはジェリーに対し、「あの男とは縁を切 れ」とアドヴァイスする。「恩があるから」となかなか分切れないジェリーに対し、背中の後押しさえする。そして契約更新をジェリーか ら断られ、ショックのあまり心臓発作を起こしたダニー・デヴィートを前にして「良かったじゃないか。これで完全に縁が切れるよ」とは、 まるでかつての自分否定のようでさえある。こんなに冷たいウディ・アレンも珍しい。

この映画は、ニューヨークを相変わらず愛しながらも、とまどい、怒り、自分の居場所さえ失いかけているひとりの男の愚痴のようにも 思える。街から寂しくひとり去っていくウディ・アレン…この映画を観ている私たちも、パッケージ自体はいつものウディ印だっただけに 、余計に戸惑いを感じるしかない。「エニシング・エルス…他に何か」と。

メイルちょうだいケロッ

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