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カエル 『映画日記9月号』

『トリノ、24時からの恋人たち』

アイリス・イン…
映画の舞台となる、国立シネマ・ミュージアムが大変魅力的だ。『メトロポリス』のマリアの映像、『甘い生活』のアニタ・エグバーグの 大きなスチール写真が目に付く。影絵、ゾーイトロープ、キネトスコープ、そしてリュミエール兄弟の『列車の到着』から歴史が始まると いう展示方法こそイギリスのミュージアムと似ているが、高いドーム天井を持つこの建物には何層にもわたる回廊が巡らされていて、その 中央に立つと、映画の歴史がひと目で見渡せる構造になっている。まるで映画の神殿のようだ。そこには祭られるのは、もちろん映画と 映画人たちである。そこで夜警をしている主人公のひとりは、夜中に自分の好きな映画を上映し、まるで映画の世界、映画の歴史のすべ てを自分のものにしてしまう。映画ファンなら一度はこんなところで働いてみたいと思うに違いない。

私はこの映画を観ていて、監督は絶対にこの街の地元の人に違いないと思った。ミュージアムのドームの上から見る街の風景には街への愛 着がにじみでいる。また、トリノの夜の街に輝く雪の結晶や星座、そして赤く輝くフィボナッチ数列。 この幻想的な光のアートは聞けば映画 用に作られたものではなくて、「芸術家の光」という実際のイベントで飾られているもので、星座はヒロインの友達の星占いとして、『ダ ビンチ・コード』ですっかり有名になったフィボナッチ数列もまた、後半の物語に絡んでいく。すなわち、ミュージアムが、街が、この映 画の物語を紡ぎだしているのだ。

はたして、実際監督のダヴィデ・フェラーリオはトリノ在住で、雑誌の映画批評やエッセイストを経たのち、映画製作や監督をするに至っ たということだ。劇中で何度か写されるふたりの男女の大きなスチール写真はミュージアムに入ってきた人を温かく出迎えているかのよう であるが、誰なのだろうと思っていたところ、女性のほうは、このミュージアムを創設したマリア・アドリアーナ・プローロという人で あり、どこかで見たような男性のほうはフランス、パリのシネマテークの生みの親であるアンリ・ラングロアであった。ラングロワそれだけで なく、ヌーヴェル・ヴァーグの映画作家たちにここを勉強の場として提供し、やがて巣立たせたというところにも大きな功績のあった人だ。 ダヴィデ・フェラーリオ監督自身、地元の国立シネマ・ミュージアムに育てられてきたのであろう。だからこそヌーヴェル・ヴァーグの 映画人と自分を重ね合わせられるところがあったに違いない。

それゆえ『トリノ、24時からの恋人たち』のふたりの男とひとりの女というシチュエーションも、いやでもヌーヴェル・ヴァーグの旗手フランソワ・ トリュフォー監督の『突然炎のごとく』を連想させられてしまう。『突然炎のごとく』の冒頭で流れるジャンヌ・モローのナレーションま でが引用されるに及んでは、この監督のトリュフォーへの、『突然炎のごとく』へのあこがれが感じられて微笑ましくなってしまう。

そしてもうひとつこの映画で重要な役割を担う映画は、バスター・キートンの『キートンのスケアクロウ』と『キートンのマイ・ホーム』 だ。

『キートンのスケアクロウ』は共同生活を営むキートンともうひとりの男の話。レコード・プレーヤーのターン・テーブルをはずすと ガス台、ソファをひっくり返すとバスタブ、ベッドも壁から倒されてきて、調味料の類はすべて天井から吊り下がっているという具合に、 狭い部屋をいかに広く使うかという涙ぐましい努力が最高に可笑しいコメディ。なんでもふたりで分け合う仲のいい友達だった彼らだった のだが、あるとき隣の娘を同時に好きになってしまい、さすがにこればっかりはふたりで分けられない、さあどうするといったストーリー であった。まさに『トリノ、24時からの恋人たち』のシチュエーションにはピッタリと合う映画で、実際夜警の男の子は「映画で役にた ちそうなことは、自分でも取り入れているんだ」の精神で、彼の狭いひと部屋はキートンのスケアクロウ・ハウスそのままの工夫が施されている。 また、彼はこの映画を参考に、この映画のもうととりの主役でもある恋敵の車泥棒の男に猛然と闘いに挑んでいくことになる。

『キートンのマイ・ホーム』(旧題キートンの文化生活一週間)のほうは新婚ほやほやのキートン夫妻が、まるで組み立て式の家具を組み 立てるかのように、「家」を組み立てるのだが、設計図どおりの順番で作らなかったがために、二階のへんなところにドアが付いてしまい 、キートンがそこから転落したり、家の形もが歪んで、じょじょに崩れてくるといった話。中でも嵐がやってきて家がメリー・ゴーランド のようにくるくる回ってしまい、中に招待されていたお客さんたちが、船酔いのようになってしまうといったギャグが傑作だ。この映画は 孤独な夜警の男の子の願望かもしれない。近くのハンバーガ屋で働いていた女の子に初めて映画を見せるシーンにこの映画の一場面が入っ ていて、愛の告白の代わりとなっているのが可愛らしく素敵だ。

バスター・キートンは、無口でおとなしく、優しいのだけれども気の弱い男。いつもひどい目にあっていて決して笑うこともないのだが、 かといって哀しい顔をするわけでもなく、淡々と諦めたような顔をしている。それでも最後は彼女と結ばれたり、案外に幸せ なラストが待っている。夜警の男の子にとってはそんな彼が自分のヒーローだったのに違いない。ボキーみたいに強い男にあこがれるの ではなくて、等身大の自分に近いヒーローに憧れるあたりに、彼の性格がよく出ている。

夜警の男の子は、いつも手持ち、手回しの撮影機で映像を撮っている。撮るものといえば街の風景、そして憧れのバーガー・ショップの 彼女、魚がまず釣れそうにはない川でいつも魚釣りをしているおじさんだったりと、日常を切り取ることが好きなようだ。「人が目を向け ないストーリーの後ろにある街の風景が好きだ」「映画はまだ風景が主役だった頃のものが好きだ」という彼の観る映画は昔の記録映画 だったり、サイレント映画だったりする。そして自分の撮りためたトリノの街の風景を昔の記録映画のタイトルと組み合わせて、くすっと 笑えるような自分だけのオリジナルの映画にして、彼女に見せたのだった。

映画を語り、自分自身で撮影機を回す。ある意味この男の子は、ダヴィデ・フェラーリオ監督自身の分身なのかもしれない。自分自身の若 き日の姿がこの男の子中に反映されているような感じがする。そして映画のラストは、ディティールは言えないけれども、ちょっと言うなら ば、本当は『突然炎のごとく』のラストもこうなればもっと幸せな気持ちになれたのになという、映画ファンの隠された願望を満足させてくれるよ うな結末となっている。もちろん、これは監督自身の願望でもあり、夢でもあるのだろう。(だからって『突然炎のごとく』はあのラストだ から心に残るということはわかってはいるが…)

映画に対する愛情を描いた映画はこれまでにも色々とあった。フランソワ・トリュフォー監督自身にも『アメリカの夜』という傑作があり、 フェデリコ・フェリーニ監督には、『インテルビスタ』がある。これはどちらも、映画作りへの愛着を描いた作品だ。映画館への思いという 点では、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の『ニュー・シネマ・パラダイス』エットーレ・スコラ監督の『スプレンドール』がある。 そして映画作品へのオマージュとしては、アキ・カウリスマキ監督がトリュフォー監督の『ドワネル・シリーズ』へのオマージュをささげ た『コントラクト・キラー』同じくF・W・ムルナウ監督『サンライズ』へのオマージュ色が強かった『白い花びら』。 映画への愛も人それぞれ色々あるが、名監督たちのそんな映画への純粋な思いを観ることは映画ファンにも気持ちが共有できるようなところがあって、 誠に嬉しいものである。『トリノ、24時からの恋人たち』は、ダヴィデ・フェラーリオ監督の自分を育ててくれた街、シネマ・ミュージアム、そして映画に対する 思いを描いた映画であり、映画ファンとしては、そんな映画がまた一本増えたことが大変に嬉しい。
…アイリス・アウト。

メイルちょうだいケロッ

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