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カエル 『映画日記8月号』



『ローズ・イン・タイドランド』

タイドランド…干潟、満潮時に水没する土地。タイドとは潮の流れ…これは人の中の意識の流れを表しているように思える。これがタイド ランドとなると、その流れにより水没するところ、指し当たって頭の中のイマジネーションが映し出される場所という意味にもとれる。 この映画は、孤独な人々のイマジネーションの世界、幻想、妄想、空想、幻覚の世界、そのぶつかりあい。

少女の父と母は、ドラッグにより遠い世界へと旅立った。かつては人気ロックスターだった父、今は落ちぶれて、誰も見向きもしない。 過去の栄光の日々とその周辺にいたファンや友人たち仕事仲間を全て失った孤独な父は、あろうことか、娘にドラッグの準備をしてもらい、 そして広い別世界へと旅立つ。母は荒れた父の傍で、女を捨て、怠惰なベッド生活を送った挙句ドラッグの事故で死んでしまう。 生来、自己顕示欲が強くかった父は、死んで自分が無くなることに耐えられず、死んでも井戸の中で姿がそのまま残った人の話に強く心 打たれる。そして故郷の家に娘と共に帰るのだが、後から思えば彼はこのときすでに永遠のトリップを望んでいたのかもしれぬ。…幻覚

子供のイマジネーション。親を亡くしただひとり取り残されてしまった少女は、頭だけしかないバービー人形たちに友達のように話かけ、 また彼女たちの支配者となることで、その孤独を癒す。広い草原は彼女が愛読していた「不思議の国のアリス」の世界と成り代わり、数少 ない隣人たちは、それぞれ魔女になったり、異形の子鬼にとなる。ねずみは言葉をしゃべり、アリスのうさぎと成り代わる。 そして綺麗なバービー人形、顔のつぶれたバービー人形、彼女たちとの会話に、子供の残酷さといったものが、浮かび上がる。…空想

子供の想像力は、遊びに転嫁していくのに対し、知恵遅れの青年のイマジネーションの世界は現実との境界線があやふやである。彼は潜水 艦の船長になりきり、草原を泳ぎ回る。彼の夢は巨大サメを倒すこと。彼の世界と子供の世界は似ているようでいて実は違う。この微妙だ けれども、決定的なすれ違い。優しい彼は少女の残酷さにいつしか飲み込まれてしまう。…幻想

少女に魔女とされた女性、実は知恵遅れの青年の姉でもあるのだが、彼女のイマジネーションは自身の仕事とも結びつき、ほとんど呪教的 でさえある。亡くした者がいつか甦ると堅く信じ、自分自身が巫女になったがごとくの錯覚。彼女の中の何がそうさせたのかは映画のラス ト近くになってわかるのだが、この孤独は重い。周りの被庇護者たちとは違って彼女だけは行動を起こせる大人である。想像の世界を現実 のものにする力がある。その怖さ…妄想

出会ってはいけない3人の隣人たち、それが広い黄金色に輝く草原、イマジネーションの干潟の上で交わってしまった。孤独が作り出した、 イマジネーションの干潟で。そして悲劇が生まれる。子供は純粋というけれど、同時に残酷でもある。子供に近い存在の知恵遅れの青年に 親しみを感じ慕っていながら、一方で彼が人と違うというところも敏感に感じ取り、自分が優位な立場に立ち続けている点は見逃せ ない。ひっそりと暮らしていた姉と弟、ここに彼女が入ることによって、彼らの間で完璧に保たれていたバランスがもろくも崩壊していく こととなる。穢れない少女の果てしなく広がる興味、そして無意識の残酷さ、これには正直不快感を感じたほどだった。こんな感覚を表現できる ギリアム監督は、そんな子供のような感覚を今も持っているようにさえ思える。

少女は家族をすべて失った女性に拾われ、やがてその家庭に入っていくような予感をもって映画は終わるのだが、このふたりはうまくいく のだろうか。初めてまともな大人に出会った少女。やがて婦人は少女を本当の自分の子供のように育てることによって自分の心の空洞を埋 めていこうとすることだろう。少女はこれまでの人生とこれからの人生の隙間をどのように埋めていくのだろうか。

人は多かれ少なかれ、心に隙間を持っていて、そこを何かで埋めていくことでバランスを保っていける。しかし隙間が大きすぎれば、イマジネ ーションの力に現実が押しつぶされていく。イマジネーションのもつ力の大きさと怖さが表現された見事な映画。しかし、私には刺激が強 すぎた。ある意味この映画はリアル過ぎる。想像世界のリアリズム映画といったらよいだろうか。私はちょっ と間が抜けた(失礼)御伽噺を作っているテリー・ギリアム監督のほうが正直好きである。それにしてもあの主役の少女は上手すぎて、将 来がちょっと怖い。ちゃんと普通の大人に成長できるのだろうか。


『プルートで朝食を』

70年代の名曲シュガー・ベイビー・ラヴの曲に乗って、ベビーカーを押しながら街を颯爽と歩く、パトリック・キトゥン。軽やかな足取り には、これまでの人生になんら曇りがないようにさえ見える。実際は波乱の人生といったほうが当たっているのだが。

パトリックという名はアイルランドにキリスト教を初めて伝えた聖人と同じ名前。ニューヨークでもアイルランド人たちの子孫によって、 聖パトリック祭のパレードが盛大に行われ、時期がくると、日本でもニュースで必ず流れるので、ご存知の方も多いだろう。そんなわけで パトリックはアイルランドではポピュラーな名前である。キトゥンとは自分自身で考えた呼び名で、彼が言うには聖パトリックの従者の名と いうことである。といってもそんな従者がいたという事実はなく、これは彼の想像力の産物であることがすぐにわかる。実はキトゥンとは 子猫のこと、あるいはお転婆娘を意味している。明るいお転婆娘になりたいそんな願望がここにあるのだ。不幸にも自然体で接し、決して めげず、常に綺麗に着飾り明るく振舞う彼の生き方、その原点がこの名前にに込められているように思える。ところで同時にあくまでも 「キトゥンはパトリックの従者」としたところ、ここに彼がいかに自分のアイデンティティを大切にしていたかという思いを感じとることがで きるし、またいかに振舞おうとも、パトリック(男)としての自分からは逃れられないという彼の現実認識も感じられる。

彼が生まれたところは、アイルランド共和国と北アイルランド(英国)の国境に近い小さな街。産まれてすぐにカソリック教会の前に捨てら れ、やがて養子に出される。こんな小さな街では、捨て子であり、かつゲイである彼は常に特異な目で見られている。そんな彼の心の拠り 所は、『魅惑の巴里』のミッツィー・ゲイナー似(のちに人に説明するのに『南太平洋』のと言い換えているところがいい。こちらのほうが メジャーな映画である。)の瞼の母だ。ロンドンに行ったときに偶然彼女を見かけたという隣人の話だけを頼りに、彼はロンドンへと旅発つ 。これは母の面影を追い求める彼の人生の旅の映画。それはもちろん自分の原点を探す旅ということにもなる。そしてこの旅を最初から最後 まで見届けるのが、なんとこまどりの夫婦。ヒンカラララと朗らかな声で、彼の人生の噂話に花を咲かせ、お互い意見を言い合っている。 自由に飛び回り、街を空からみつめ、彼を見守り続けている。妖精の国アイルランドならではのこのメルヘンチックなタッチが映画の雰囲 気を決定づけている。

また、この映画は細かい章に分かれているのも大きな特徴だ。2時間ちょっとの映画で36章もの物語に分かれているから、1章あたり単純計算すれば、4分程度に なる。映画に章をつけるスタイルは『ハンナとその姉妹』などたまに見かけることはあるが、こんなに細かく章をつけた映画というのは 今まで記憶にない。しかも第1章「私は捨てられる」第6章「私は過ちから生まれた子」第14章「とてもとても真剣」などのようにすべ てにタイトルがつけられている。またそのひとつひとつがきちんと考えられているから、観ていて常に興味が生まれることとなる。一体こ のタイトルからどんな物語りが生まれるのだろうという、なんだかワクワクするような感覚があるだ。そして章から章へ、彼が物理的な移 動というのではなく、まさに人生という時間を旅しているという感覚がこんなところから生まれている。

章の中には、とても哀しい話があるかと思えば、楽しい挿話がサンドウィッチ上にはさまれている。友人の死や、差別主義者に殺されそう になったり、テロに巻き込まれ、アイリッシュゆえに犯人に疑われたりするのが困難な挿話。ショウビズを渡り歩き、さまざまな人たちと 出あい束の間の幸せに浸るのが楽しい挿話。そのバランスが絶妙だ。私が特に好きなのは、ニール・ジョーダン監督の作品の常連である スティーヴン・レイが演じた一見冴えないマジシャンとの出会いだ。不思議とキトゥンとは息が合い、段々と客受けもしてくる。人から 見れば、キトゥンの母探しの旅をネタに使った残酷な人とも見えるのだが、どうしてそんなことはなく、見かけとは裏腹に心優しき人なの である。「きみは僕の理想の女性だ」慌てたキトゥンが私は実は男なのよと答えれば、「そんなことは知っているよ。僕はただ、君が女性 だったとしたら理想の女性だと言っただけだよ」とは、ストレートな男性からの彼への最大限の優しい褒め言葉のように聞こえる。キトゥ ンに母探しの旅という目的がなければ、案外このふたりのショウはまだまだ続いたのかもしれない。スティーヴン・レイ味があって、実に いい!

キトゥンは、「そりゃ、お前の領分じゃない」「とてもとても真剣なんだ」という言葉を嫌う。領分じゃないと言われれば、もう最初から 門前払いをされてしまうような気持ちがするし、あまりにひとつのことに真剣になり凝り固まるといことは、人の言葉には一切耳を貸さな いということを意味し、またいつでもろくな結果はうまない。彼はそのことをよく知っている。彼は元からして捨て子だった。養子にも らわれてった家庭では、常に自分が異質であることを感じていたし、学校に出ても、街に出ても、あらゆるところでそれを感じていたよう に思う。他人から拒否されるのは仕方ない。しかし親しい人の口からその言葉が出てくるといつでも大きな失望を感じてしまう。ただの言 葉、しかしその後に、友人との距離が離れていってしまうことをもう予感してしまうのだ。「また〜なの」「また〜なの」「みんな〜 なのね」明るい性格のキトゥンの中に哀しみが滲み出る瞬間だ。

彼は幸せの最中にいても、常にそれがもろいものであることを意識している。例えばロックバンド、モホークのツアーに参加してそのボー カリストと恋に落ちる。彼が自分たちの秘密の場所と連れて行ったところは、どう考えても彼の母が残した家とは思えない。それでもキトゥ ンは喜ぶふりをする。ボーカリストの彼が自分を利用していることも充分にわかっている。けれどもその幸せにすがりたいと思うのだ。 例え、その場限りの幻想でもいいではないか。彼はそれ以上の期待はしていない。彼は実は前向きな生き方など決してしていない。少しでも傷 つかないように自分を守っているから先に進めるだけなのである。それが証拠に、テロの犯人として疑われ散々刑事たちにしごかれた後で さえ、「お洗濯や食事を作ったりするからここへ置いてください」と彼は安全な留置所にいることを望んだりしてしまうのである。

一見流されながら生きているように見える彼の人生。確かに川の流れには逆らわないけれども、それでもちゃんと前を向き行き先だけはみ つめている。不幸な状況でも、決してどん底に落ちることなく、次のステップにいけるのは、彼のそんな聡明さがあるためだ。キトゥンは 聖パトリックの従者。あくまでも自分の置かれた状況をきちんと理解しているパトリックの外側にキトゥンは存在しているのだ。日本映画『 嫌われ松子の一生』の松子も、流されながら生きている人生だったけれども、流されれば流されるほど、不幸の底なし沼にどんどんはまって いくのとは対照的である。松子はその場限りの出来事に真剣になりすぎてしまう。それがすべて、他のことは目に入らない、それがさらな る不幸を呼んでいた。

アイリッシュということ…アイルランド人は、その作家人生のほとんどすべてを海外で過ごしたジェームズ・ジョイスにしても、活動拠点 をしばらくアメリカに置いていたニール・ジョーダン監督自身にしても、このことを深く意識せざるをえないようである。キトゥンの人生 の転機には、必ずアイルランドのテロ事件が陰を落としている。彼が国を出、母探しの旅に出るきっかけとなったのは、テロによる爆弾 事件で、罪のない知恵遅れの友達を失ったことだった。またテロ活動に一時の情熱から加わり抜け出せなくなってしまった友人の死が、の ちに彼に家族を与えることとなり、『父の祈りを』で描かれていたものと同事件が基になっていると思われるロンドン爆破テロに巻き込ま れたことも、間接的に母をみつけ出す転機となっている。家族探しの彼の旅が同時にアイルランド人であることを強く意識させられる旅と なっていることも興味深い部分である。アイルランドの哀しい歴史がいかに個人の人生に深い影を落としてくるか…こうなると歴史が単な る背景ではなくなってくる。ある意味アイリッシュの監督の永遠のテーマなのかもしれない。

さて物語は最後のほうに来て、映画の冒頭のシーンに戻る。シュガー・ベイビー・ラヴの曲に乗って、ベビーカーを押しながら街を颯爽と 歩く、パトリック・キトゥン。何故彼が、あのような爽やかな足取りで街を歩けるようになったのか。映画を通して観てくると、そのこと がよくわかるような気がしてくる。彼の生き方が多くの人の心を動かした。母を見つけても決して自分を押し付けるようなことはなかった 清さ、優しさ。ラストはふたつの新たな家族たちが、二つに分かれた道をそれぞれ別の方向に歩いてくところを俯瞰で撮った。再びこまど り夫婦の視点で。自分に誠実、人にも誠実な彼が、自然体で生きることによって掴んだ家族。それは傍にいようが離れていようが、彼にと ってはかけがえのないものである。彼が長年にわたって育んできた夢は、彼の生きかたの積み重ね、みずからの手によって叶えられたのだ。 私は嫌味のないこの爽やかなハッピー・エンドに温かい気持ちになり、映画館を後にすることができた。ニール・ジョーダン監督久しぶり の傑作である。

メイルちょうだいケロッ

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