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カエル 『歩いても歩いても』



 事故で死んだ長男の命日、夏の一日、久しぶりに集まってきた家族の一日の日常を描いただけの映画なのだけれど、静かな一見癒されそうな音楽の中で物語は展開するのだけれ ど、実はその奥に家族どうし激しい感情が流れている。そしてその向こうに、ひとつの人生観のようなものが見えてくる。ひとことで言えばそんな作品だ。

 それにしても、私には死んだ兄もいないし、父親が医者でもなく、立派な家があるわけでもなく、実家は海の見える風景でさえない。まったく見ず知らずの他人の物語、それな のになぜ、この映画を自分自身の物語のように感じてしまうのだろう。いや、かなりの人が、この家族の誰かに自分自身を投影したのではなかろうか。それはどうしてなのだろ う。

 幼い頃よりよく知っている家なのに、たまに訪ねてみてみると、何かが変わっているような感じがすることがある。お風呂のタイルが剥がれていて、時を感じてしまうことが ある。そこに手摺がつけられていたりして、両親の老いを思い知らされることもある。慣れ親しんだ自分の部屋、今までと同じように勉強机が置かれているのにそれがひどくち っぽけに見えたりする。周りには自分の知らない道具の類が雑然と置かれて、物置と化している。思い出とともに、言いようの知れない距離感をも同時に感じてしまう。こんな ことは誰にでもあることなのではないだろうか。

 この映画はたった一日半の出来事を追っただけというのに、家の歴史、家族の歴史が、活き活きと眼前に現れるような心持がす る。その柱、その梁にそうした記憶がしみ込んでいるような感じがする。それがデジャビュを引き起こす。

 家族の間で交わされるどうということもない会話。「土俵下に顔から突っ込んじゃったのに、おでこと顎が擦りむけた力士の名前なんだったっけ」しかし、こんなどうという こともない会話が、なぜか後々妙な思い出となって残ってしまったりするものだ。これも真なり。

 また、これは子供たちがまだ小さく父親の医院もとても盛っていた、母親にとっては、おそらく一番良い時代の笑い話という意味が無意識のうちに付加されているのかもしれな い。実は一番家族らしくなる瞬間は、思い出話しの花咲くときであり、またアルバムのページをめくるときであるのが、この家族を象徴しているようだ。兄の死以来、バラバラ になってはいるが、それでも彼らは紛れもなく血のつながった家族なのである。どんなに親子が反発しあっていても、家から遠ざかっていても、婿や嫁には入りにくい絆がそこ に厳然と横たわっているのだ。

 嫁のパジャマを買わずに、息子のものだけを買った母親と、そのことで妻が傷ついていても、まったく気づかずにいる夫。この一例をとっても、 それは明白だ。この映画はこのように、日常のなんでもない行動や会話から、それぞれが抱える問題や悲哀が鮮やかに見えてくる。セリフはアドリブのように自然なのだが、し っかり計算し配置されているのだ。そのあたりが見事である。

 樹木希林演じる母親は、一見どこにでもいるタイプの女性だ。とりとめのない会話をして、今度は何食べる、あとこんなものもあるわよとせっせと台所に立ち、息子の奥さん には、自分の着物のお古を分け与え、それなりに気を遣っている。けれども、会話の端々にものすごい毒があってドキリとしてしまう。息子の奥さんには、別れるとき面倒だか ら子供は作らないほうがいいわよなどと言ってしまう。また、毎年、長男の命日に、彼が自分の命と引き換えに救った子供(もう成人している)を家に呼んでいる理由がまたもの すごい。

 こんなつまらない人間を救って、自分の息子は死んだのか…気持ちはわからないではないのだけれど、もう15年も経っている。その執念に頭ではわりきれない母親の強烈な エゴが潜んでいる。

 娘は多分兄よりも頻繁に家に来ている。台所を手伝うなど母親を気遣っている。またこの家に両親といっしょに住んで、自分が面倒を見てやらなきゃという思いももっている。 けれども、その裏には、頼りない夫は当てにならないので、自分たちの住む場所を確保して伸び伸び暮らしたいという思いもある。実は母への甘えの気持ちのほうが強い。

 それを母はちゃんと見破っている。住み慣れた家を彼らに改造されるのも迷惑だし、いっしょに住むなんて面倒くさいと思っている。けれどもそれをはっきり言わない。来なけ れば来ないで、それは寂しいからだ。

 父親と次男の仲はしっくりときていない。父親は死んだ長男を跡取り息子ということだけで、溺愛していた。今では、子供のときの次男の言動が、長男の思い出とごっちゃ混ぜ になってしまっている。ふたりは似たもの親子であるだけに、磁石のN極とN極を近づけたときのように一層反発しあう。ふたりともそれがわかっていて、正面を向いて話をする ことができない。そんなところに窮屈さを感じた息子は、家から遠ざかってしまったのだった。

 父親は日課で、お昼前に散歩をしている。しかし、いつも海岸に通じる歩道橋の手前で引き返してきてしまう。長男が溺れて死んだその海をどうしても見ることができないでいる。病気のため医院を廃業しても、いつも診察室に閉じこもってしまっている。彼の人生の時はもう止まってしまったかのようだ。

 次男にとって、兄は生きているときには常に自分よりも大切にされる存在だったし、亡くなってからも逆に美化されてしまい、結果ますます自分がないがしろにされていると感 じている。子供のときとは違うのに、親たちが自分をみつめる目は昔のままだ。母親が息子の車に乗って出かけるのが夢だと言っても、兄への反発か、余計に免許など取る気を なくしてしまう。

 次男の家族には、妻の連れ子がいる。少年の本当の父親は亡くなってしまったのだ。彼は、学校で飼われていた死んだうさぎに、みんなで手紙を書こうという提案があったとき に思わず笑ってしまったという。そんなのナンセンスだと。亡くなってしまったら、話したくても話せない。その事実のほうが彼にとっては重いのだ。新しい父親として、彼に かけてやれる言葉はみつからない。

 結局、人はいつか死ぬ。この映画の父を亡くした子供と、子供を亡くした母は特別の存在ではない。だからどんな家族でも、多かれ少なかれこうした悲しみを抱えて日々生活を 送っている。黄色いチョウチョが部屋の中に入り込んできたときに、母親は、それを息子の魂がなり変ったものだと信じて、追いかけまわす。そのとき人の身体のことを知り尽 くしている医者であった父親さえ、一瞬信じてしまいそうになる。時が経っても傷は癒されるものではない。死は無ではなく、どこかに魂があると思うから生きていける。

 次男の奥さんが自分の子供にいいことを言う。「お父さんは、死んでもあなたの中に入り込んで生き続けているのよ」と。死んでからというよりは、生きているときからその人の中に少しずつ 入り込んでいくのだともいう。思い出と言い換えてもいいだろう。その人の言葉、その人の考えていたこと、その人の家族への愛はいつまでも心の中で生き続ける。そしてその 存在は、悲しみだけではなく、自分の中に豊かさをももたらしてくれるかもしれない。

 『歩いても歩いても』は、ブルーライト・ヨコハマの歌詞から取った題名なのだが、「歩いても歩いても 小舟のように 私はゆれて」という歌詞の通り、私たちはひとりひ とりが小舟のような存在で、揺れつづけながら、それでもなんとか転覆しないように舵をとりつづけ、生きていくものなのである。そしてそれは何世代も変わることなく綿々 と続いていくことだろう。ただ、自分の中に入り込んで生き続けていく人さえいればそれでいい。それに気づくのが「ちょっとだけ間に合わない」タイミングになってしまっ たとしても、それはそれでいい。私たちの人生はそんな風にして続いていくものだから…これもひとつの人生観である。



メイルちょうだいケロッ

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