98. 個性と友達の背反 (2001/3/30)


戻る前回次回

■109

私のように適当に書きなぐっていると、ときどき自説を修正しなければならなくなる。頻繁ではなくときどきなのは、放っておくことが多いからである。

女性がやせたいと思うのは、主に同性からの圧力らしい。

最近テレビ番組でやっていたのだが、109 という渋谷にあるファッション関係の店が集まったビルに行くたびに、女性はやせたいという思いを新たにするらしい。

その第一の理由は、そこで売られている服のサイズがすべてフリーサイズであることだ。フリーサイズとは、店員の説明によれば S と M の中間である。当然、普通の体型よりもやせていなければ着ることができない。最新のファッションを身にまとうには、とにかくやせていなければならないわけだ。このフリーサイズを着れないということは、極端な話、女の子であることを否定されたも同然だと考える女性が多いらしい。もっともこれは 109 に来る人が自分で自分のことをそう言っているだけなので、世間一般の価値観ではないだろう。

そしてさらに第二の理由は、フリーサイズを「着る」ことと「着こなす」ことはまた別らしい。着ることができても、パンパンであってはならないのだ。そして、店員は広告塔として、自分の店の服を着こなしているのである。彼女らはカリスマ店員などともてはやされ、若い女性の憧れのまとらしい。買い物に来た若い女性らは、この店員がフリーサイズの小さい服を着こなしているのを見て、いまの自分の肉体を否定するらしい。

で、やせている女性がさらにやせたがるのを、男がどう思っているのか、という街頭質問があり、十分やせているという男の意見が紹介されていた。果たしてこれが男の本音であるかどうかは分からないが、少なくとも私はテレビで紹介された女性たちはもう十分だと思えた。

資本主義社会は、金は流れる方向に流れるものである。私が思ったのは、フリーサイズというのは儲かるのだろうか、ということである。確かにサイズを一種類しか作らないのはいいのだが、もう少し大きく作れば客がさらに増えるのではないか。あるいは、109 やその周辺だけがこの小さすぎるフリーサイズを売っていて一つの極を作っている、と見るべきなのだろうか。一番小さい=一番かわいい=一番メディアに露出する、ということなのだろうか。

とにかく、私の昔の考え方は、緩やかではあるが「女性は男性に抑圧されている」といった種類の考え方の範疇に入るものであったので修正したい。この点についてはさらに後述する。

*

ところで、やせるためにとるダイエット方法は、たいていが「食べない」ことである。運動は、筋肉がつく、という理由で避けられているらしい。それを聞いて私の弟は、筋肉なんて簡単につくものではない、苦労が嫌だということの言い訳に過ぎない、と言った。いや、弟ではなくテレビのコメンテーター(朝日テレビ系列の「そんなに私が悪いのか」)が言ったのかもしれないが、説得力のある言葉である。食べない努力も相当なものだと思うが、短絡的であるし、わかりやすいので運動よりも努力しやすいのかもしれない。

それより、ゲストの薬師寺(元ボクサー)が言った「自分の体についての知識が単に足りないだけ」が一番うなずける。エネルギーを取らないことよりも、エネルギーを消費してくれる筋肉をつけておくことがダイエットには良いということだ。エネルギーを消費してくれるという点では、寄生虫に逃げればさらに楽である。

■女性たちの同性アイドル

正直言って、浜崎あゆみ人気がここまで長続きするとは思わなかった。これだけ人気があるということは、浜崎あゆみを研究することで現在の社会心理とくに若い女性の心理について知った気になることが出来る。多分、多くの人がそれぞれの分野で論文とかを書いているに違いない。あるいは、単に宣伝がうまいからなのだろうか。

浜崎あゆみと双璧であった鈴木あみが引退同然の状態になっている。私はあみ派であったので非常に残念である。ただし、小室の曲は趣味じゃないので、純粋に音楽的な側面で話をすれば、鈴木あみが落ち目なのは私の中では非常に納得できる話である。しかし実際のところは、事務所移籍がどうこうという問題があったからのようである。

結局浜崎あゆみというのは、私の結論では、少女たちに物語を提供したという点が重要であり、それ以外のなにものでもない。ファンは浜崎あゆみに自分を近づけることで、彼女の成功の物語を自分に取り込んでいるのだ。ただ、どうしてそれが浜崎あゆみでなければならないのか、その一番重要な点がいまいち私にはつかめない。顔が案外ぽっちゃりしててもかわいい、という点だろうか。それとも、ボーッとした喋り方にも意志を感じさせる、あるいは、本当は強い意志があるのだという物語づけに、ファンは自分を同一視させるのだろうか。

一方、持田香織の人気は以前より落ちたように思う。彼女は比較的最近のシングルで髪を黒に戻した。それを見た私は、これで黒い髪に戻す女性が増えるぞ、と思ったがあっさりはずれた。茶色が当たり前となったいま、逆に黒い髪をファッションに取り入れるのは、ごく限られた人にしか不可能なのだろう。ショートヘアが美人にしか似合わないのと同様である。逆にいえば、浜崎あゆみのファッションやメイクは、誰がやっても大なり小なりかわいくなる。

神田うのや梅宮アンナの人気はどうなのだろう。私が女性誌を買ってみたのはずいぶん前の話なので、いまはどうなっているのかさっぱり分からないが、電車の中刷り広告を見る限りでは多少かげりが見える。やはり読者たちは、恵まれた体型への憧れは、いつまでも充足されないので、出来る範囲での自己実現を求めたのだろうと思う。

それからかなり前から、いわゆる芸能人ではなく、雑誌専属モデルの人気が高いことが言われてきた。これもよく分からない。まだ続いているのだろうか。

■ランチメイト症候群

吉本隆明というと私にとってはなぜか悪い印象しかなかったのだが、最近読んだ週刊誌にとても共感できる文章が載っていた。週刊文春の「ひきこもれ!」である。

この文章は、一言で言えば、ひきこもりが悪いと誰が決めたか?である。まず最初に、とあるテレビ番組で、ひきこもりの人たちをみんな外に出して何かやろう、という企画のものがあったことを紹介している。そこに流れているのは、とにかくひきこもりがよくないことで、ひきこもりの人を外に出してあげることがよいことだ、という独善的な思い込みである。

吉本隆明自身が、毎日家で本を読んだり文章書いたりしていて、ひきこもって仕事をしたり趣味で家でずっと本を読んでいて何が悪いか、そりゃ確かにどちらかといえば異常かもしれないが、ぜんぜん悪いことなんかない、と言っているところが非常に好感が持てる。

と一通りの受け身を済ませてから、今度は攻めに転ずるところがあざやかで、独りでは不安だという若者たちへの攻撃を開始する。以前から、携帯のメモリーを友達で一杯にしたがったり、友達と会っているときに別の友達から電話が掛かってくることを自慢に思ったりする風潮については知っていたが、さらに驚くべきことが起きているようである。それがランチメイト症候群である。

症状は非常に分かりやすい。独りで食事をするのが嫌だから、とにかく誰かと食事がしたい、そのためになんと前日の夜に、次の日の昼食の約束をしてしまうらしい。

この傾向は何が原因なのかというと、突き詰めていけば「友達のいない(少ない)人間は異常だ」という原理であり心理である。考えてみれば、確かに友達が少ないのは何らかの人間的欠陥と思われても仕方がない。たとえ頭が悪くても、運動ができなくても、悪いことばかりやっていても、それが原因で友達が出来ないということは考えられない。なぜなら、頭が悪ければ悪い者同士、運動ができなければできない者同士、悪いことばかりしていれば不良同士、必ず友達ができそうなものだからである。ということを考えていけば、結局友達が出来ないことが即、おかしい人間であるという結論に達するのはごく自然である。

自分が親になったつもりで考えて欲しいのだが、自分の子供に何か問題があるとして、どれが一番深刻だろうか。学力が低いことか、運動能力が低いことか、周りに迷惑をかけることか、友達がいないことか。周りに迷惑をかけることが一番深刻そうではあるのだが、いまの世の中はどこかおかしくて、いまどきの親はあまり気に掛けていないようである。あるいは、親が子供に学校のことを聞くときに、周りに迷惑をかけているかどうかを知ることはできない場合が多いが、友達がいるかどうかを知ることは非常に簡単なように思える。それに子供からすれば、まず自分に友達がいるということを取り繕わなければ、親に心配を掛けることになる。

しかしそれでも、なぜ現在ここまで強迫的に友達というつながりを確認したくなるのか、納得のいく説明ができていない。今も昔も条件は同じはずである。それがなぜいまだけ、ランチメイト症候群と呼ばれるほどの大きなシンドローム(症候群)が起きているのだろうか。

そこへ吉本隆明は、時代的な答えを持ってきていた。それは、いまの子供の親たちが、もともと若いころに誰かとツルんで何かやってきたから、というものだった。あるいは親よりもむしろ、テレビ番組制作スタッフの影響も大きいかもしれない。私は以下のような説明があまり好きではないのだが、結局、団塊とか学生運動とかがベースになっているという結論になるようである。この時代の経験のない私にはよくわからないことだが、この時代の経験を有する人からすると、ここまで結論を持っていくことが出来ればそれで説明できたことになるようである。

■個性と友達の背反

そういえば面白い類似性があるのは、個性が大事だと言われながら、結局個性を大事にしているフリをしながらみんな同じようなことをやりたがる、といういまの若い人たちの精神性である。つまりこういうことである。人間同士のつながりが一番大切だと言われながら、その教義に縛られてとにかく自分も友達を持とう持とうとして、本当の友達(これも怪しい言葉だが)がいないなんてことになる。こうなると私は、日本人というものは昔から何も変わっていないのだ、と結論を持っていって、それで説明できた気になりたくなる。

ところで、究極の個性を手に入れると友達はできないだろうし、多くの人と友達になろうと思ったら個性を押さえなければいけない、という単純なトレードオフの原理を理解できている人はどのくらいいるのだろうか。まあそれは極端な話にしても、友達を沢山作ろうと思ったらどこかでウソをついて自分を偽らなければならないのは確かである。個性が強いと周りになじめなくなっていくのもまた確かである。友達が沢山いて個性も強い、なんていう都合のいい人間はいるのだろうか。いまの若い人は、このような調子のいい教義に踊らされてはいないか。

最近、高校のときの部の同窓会に出たら、とんでもなく個性的な後輩がいた。なにしろ年が離れているので私はその彼女とは何の面識もなく、詳しいことは知らないが、なんと彼女は山小屋で働く、と言っていた。願望ではなく決定だ。こんな人を前にすると、マスコミや大衆は「それもまた人それぞれの生き方だ」と祭り上げたくなるのではないだろうか。でも決して自分たちと同じ仲間として受け入れることは出来ないだろう。ただなんとなくチヤホヤして終わりである。

■東大は個性だ

そういえば、フジテレビで「東大を目指す美少女たち」という刺激的なタイトルの特集をやっていた。中身は単に三人の女性が東大を受けるという話で、なぜ東大なのか、結果はどうだったか、というところまでを追うというものである。東大を目指す一番の理由が「日本で一番だから」だったのには苦笑したが、実際に東大を目指す人たちの生活模様が何の特別なものでもないことが伝わってきて、内容として全体的に良かったように思う。その理由はおそらく「少女」とくに「美少女」と冠するものに対する批判はしないという大衆的な嗜好があってのことで、うまいこと東大への偏見を排したなと感心した。

そこまで考えていて思ったのだが、勉強ばかりしていると個性のないつまらない人間になるよ、という言葉はおかしくないだろうか。勉強ばかりするというのも個性ではないのか。私からすれば、概して勉強する人の方が個性にあふれていることが多いように思える。

音楽に直すとわかりやすい。個性のある人、または個性のあるグループというのは、音楽に確かな裏打ちがある。ライブパフォーマンスばかり奇抜なグループはすぐに消える。結局のところ、彼らはろくに練習(勉強)していないのだ。

私の弟は、なぜかコンビニでバイトしている東大生と知り合いらしいのだが、バイト仲間ではその東大生が一番面白いらしい。まあ確かにコンビニでバイトする東大生というのは個性がありそうではあるのだが…。また、学業成績が悪くて留年の多い音楽サークルの仲間よりも、割合成績の良いゼミの仲間の方が、話していて楽しいそうである。バンドサークルの仲間でも、真面目な人の方が話していて面白いそうである。この場合の真面目とは、陳腐だが一番適切な言い方をすると、生きることに真面目な、ということである。

*

少し東大をよく言いすぎた。私は東大生または東大を目指す人をそんなに高く評価しているわけではない。ただ、東大を目指すことや、東大に入ったことも、かなり強い個性であるのだ。少なくとも私は、競争を勝ち抜こうとする人や、競争を勝ち抜いてきた人には、いくらかの敬意を払う。努力もせずに安易な個性を求める自堕落な人と比べるのは失礼だ。

しかし私自身、東大に関していくらかの偏見を持っているかもしれない。以前東大出身を名乗る人と BBS で議論をしたのだが、私は彼がいくらか原理主義的な考え方をする人だと感じた。東大の研究者が日本の学問の主要なところを占めているのは実力か学閥か、という点について議論をしていたのだが、彼は「研究成果はかなり公平に審査されている」という一点で、東大の研究者の実力だと主張した。私も、総合的に見て東大の実力が日本一であることは認めるが、私は東大が実力差以上の地位と予算を得ていると強く信じている。私は彼の主張に対し、審査する側が既に学閥だと言ったところ、そんなことはない、審査は公平だ、と返してきたのでこれ以上の話は意味がないと思った。私としては、学問の世界が彼のような人ばかりであることを願うだけである。


戻る前回次回
gomi@din.or.jp