96. 学習 (2001/3/17)


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普段我々は、それと意識することなく学習を繰り返している。今回は、学習についての抽象的な説明をする。

■理屈と暗記

学習の目的はいくつかあるが、そのうちもっとも分かりやすいのは、正解へとたどりつく方法を見つけることだろう。たとえば、算術の学習というのは、足し算や引き算の式を見て、正解つまり答えを計算できるようにすることである。

算術の学習は、だいたい小学校に入ってから始まる。小学生とくに低学年の児童にとっては、あまり大きい数を扱わせることは不可能である。そこで、教材に出てくる算式には、小さい数しか出てこない。そこを逆手にとり、少なくとも学校のテストで満点を取るための究極の方法がある。それは、テストに出そうなすべての算式を暗記することである。一桁の数同士を一度だけ足し算または引き算する組み合わせは 9 × 9 × 2 (足し算と引き算) = 182 通りである。当たり前のことだが、この方法は非常に効率が悪い。なぜなら、掛け算の九九ならともかく、足し算や引き算にはもっと効率の良い学習方法があるからである。

私は、現在の小学校の教員が、生徒にどのように足し算や引き算を教えるのか、まったく知らない。まだ論理的な思考のできない子供たちに算数を教えるのは、大げさかもしれないが多分それなりに難しいことである。

ところで、掛け算の九九を学習するための方法は、たぶんすべての学校で暗記という学習方法が取られているものと思う。ちなみに、9 × 9 までを覚えれば良いというのは全世界共通ではなく、12 × 12 までを教える国もあるらしい。

掛け算の九九を学習するための方法は暗記だけではない。たとえば、5 × 3 を 5 + 5 + 5 に置き換えて計算すればよい、と教えることもできる。この方法も有効だが、この方法だけを教える学校はまずない。というのは、掛け算の九九くらいは少なくともすぐに答えが出てくるようでなければ、10 以上の掛け算を実用的な速度で計算することが困難だからであろう。

このように、学習には理屈を学ぶ方法と暗記する方法があり、さらに暗記と理屈を組み合わせる方法もある。学習する内容によって効率の良い方法を取るべきである。

■あいまいさ

キノコには、食べられるキノコと食べられないキノコがある。食用キノコかそうでないかを見分けるための学習とは、どのようになるだろうか。

まず考えられるのは、図鑑を買ってきて写真をすべて覚えることである。しかしこの方法にはいくつかの問題がある。まず、その図鑑には果たして世界中のすべてのキノコが載っているのだろうか。もしその図鑑に載っていないキノコと出会ってしまったらお手上げである。

もう一つは、写真のイメージを覚えただけで、いざ実際に実物を見ても、同じキノコかどうか判別できるのかどうかということだ。キノコに限らず、ほとんどあらゆる生き物は、個体によって形が微妙に異なるのだ。人間を例にとればわかりやすい。あなたの好きなアイドルと近所のおばちゃんとは外見がかなり異なるだろうが、同じ人間という種類の生き物には変わりない。図鑑やあなたの脳みそは、すべての人間の写真を保存しておくことはとても出来ない。まして、他の生物たとえば猿とか象とかのすべての個体を記憶しておくことも出来ない。図鑑やあなたの記憶は、あくまで一個体の写真に過ぎないのだ。

図鑑の写真をもとに、キノコを一つ一つ判別するためには、図鑑の写真を寸分違わず脳裏に焼きつけるだけでは不十分である。あるキノコの、すべての個体が共通して持つ特徴を想像しなければならない。たとえば、傘に赤い斑点がこれくらいの大きさでこの程度の密度でついているとか、体長が大体 5cm から 15cm くらいでこの範囲を大きく出ることはないとか、細かく事細かに想像するしかない。

しかしそれでも不十分なことがある。たいていのキノコ図鑑を見るとおそらく、食べられるキノコに大変よく似ているが実は毒キノコ、という種類がいくつか載っているのではないだろうか。よく似たキノコ同士を、写真だけで判別することは難しい。だから図鑑では、それらを見分けるためのわかりやすいポイントが示してある。このポイントというのは、多くの場合、ただ写真を見ているだけだとわからないものである。逆に下手に写真だけを見ていると、たまたま写っている二つのキノコの大きな違いだけを見て、たとえば「大きい方が毒キノコ」とか「赤が濃い方が毒キノコ」と勘違いしてしまったりすることもある。

■新しいもの

やっかいなことはまだある。我々は、生物の種類はどんどん減りつづけているものと思っている。よく、毎年これだけの種類の生物が絶滅していっているだとか、希少な種を守ろう、ということが言われる。

しかし、生物の種類は増えることもある。たとえば、稲の品種改良とか、きれいな新しい花を作るというものがある。バイオテクノロジーを使わなくても、たとえばある種類の動物の中で、特徴を持ったもの同士をつがいにしていくと、その子孫はその特徴を引き継いでいくことがある。ミニチュアダックスフントなんかは、確かそうやってどんどん小さくしていった結果生まれた種類である。ブタは、いのししを家畜向きに品種改良していったものである。

ところで、品種改良によって小さな柴犬が生まれたらしいのだが、そのミニ柴犬の小犬を買った客が育ててみると、みるみる大きくなって普通の柴犬だということがわかった、という詐欺っぽい事件が起きたらしい。売った業者は、飼い主がえさをあげすぎたのが悪い、と主張しているらしい。たぶん、このミニ柴犬もまったくのうそというわけではないだろうが、遺伝というのは一筋縄ではいかず、なかなか思い通りにはいかないものである。背の低い両親から背の高い子供が産まれてくることもあるわけで、祖父母の気質が子供に受け継がれるような隔世遺伝というものもある。

話をもとに戻すが、新種のキノコだって発見されるだろう。当然、新しく発見されたキノコは図鑑には載っていない。キノコに詳しい人がその新しいキノコを見ると、そのキノコがどの系統に属するキノコだとか、毒はあるだろうとかないだろうとか、食べたらこんな味がするのではないか、ということが想像できると私は思う。ここで重要なのは、キノコに対する知識というのは、丸暗記だけではなく、キノコを特徴づける系統とか特質とかも含まれるということである。キノコの達人となると、現在確認されているキノコだけでなく、新たに発見されたキノコに対しても、確かな知を発揮できるのである。

■無限

とはいっても、キノコの達人だからといって、これから生まれるであろうすべてのキノコを判別できるわけではない。いままでになかった新しい特質を持ったキノコが生まれるかもしれない。

これは例えに過ぎないのだが、これまでは緑がかった色は食べられる系統を表していると考えられていたのが、実は緑を発色する色素のうちの A が沈着しているものが食べられる系統であり、新たに発見された B という緑の色素は毒を持ったキノコにもつく、という新たな法則が生まれるかもしれない。

このように、仮にキノコの達人の知識は現在のすべてのキノコを説明しうるとしても、これから生まれるキノコが必ずしもその達人の知識で説明されるとは限らない。万物を説明する法則は一つかもしれないが、その法則にたどり着くことは出来ない。なぜなら、自然というのは一つの偶然の形だからである。幾多の可能性の中からたまたま現在存在するキノコの種類が生まれたのである。そのたまたまを知っていたところで、存在しうるキノコすべての法則を知ることは到底不可能である。

バイオテクノロジーを駆使すれば、遺伝子を一つ一つ調べ、試しに変更してみて、気の遠くなるような実験を経れば、しょせん遺伝子の数は有限なのでいつかはすべての可能性を調べることが出来るかもしれない。しかしそれも、遺伝子がすべてであるという前提の上での結論に過ぎない。

このように、学習とはたいていの場合、無限の時間が必要である。有限の時間しか学習していないと、おおざっぱな法則しかつかむことができない。

■無限その理由

仮に真実が一つだとしよう。真実でないものが数え切れないほど存在するとすれば、いかに効率の良い探求方法があったとしても、真実にたどり着くためには無限の時間が必要になる。言い換えるとつまり不可能だということである。

たとえば、私が 1 から 100 までの一つの数を頭に思い浮かべているとする。あなたは私に何回でも質問できる。「その数は 53 か?」とか「その数は 10 より小さいか?」と質問したら、私は Yes か No で答えることが出来るとしよう。つまりこういうことだ。私が真実を握っていて、あなたがその真実を探求する。この場合、真実は一つで、真実でないものは 99つあることになる。あなたはおそらく、最悪でも 100回私に質問することによって真実にたどり着くことができる。「1 か?」「2 か?」…「100 か?」と質問することにすれば、確実に私の持つ真実をつかむことが出来る。効率よく質問すれば、私がどんな数を思い浮かべていようと 10回とかからずあなたは真実にたどり着けるのだが、それは情報理論とかの話になるので今回は省く。

上の場合、真実でないものが高々 99つしかないからこそ、わずかな質問で真実にたどり着くことが出来る。私の思い浮かべる数の条件を、1 から 100 までと限定しなかったとしたらどうだろう。あるいは少しひねくれて、1 から 2 までの小数としたらどうだろう。真実でないものは無限個あることになるので、あなたはよほど運がないと、あるいは私がよっぽどなまけて単純な数を思い浮かべたりしないかぎり、真実には到達できないだろう。

少し抽象的すぎただろうか。

■修正

もっと簡単な例を出そう。あなたがある幼稚園児とジャンケンで勝負するとする。あなたは何回かジャンケンをしているうちに、その幼稚園児がグーを出したあとには必ずチョキを出すことを発見した。これは立派な法則である。あなたはこの法則を獲得したことにより、その幼稚園児がグーを出したあとには必ずジャンケンに勝てるのだ。

しかしこの法則が敗れる日がくるかもしれない。ある日その幼稚園児が、グーの次にパーを出したとしよう。チョキを期待してグーを出したあなたはジャンケンに負ける。あなたは、自分の打ち立てた法則を再検討することを迫られる。あなたには大きく二つの選択肢がある。

一つは、法則をすべて放棄して、あらたな法則を発見することに努めることである。この選択は、その幼稚園児が一変したのであれば、もっとも有効な方法である。しかし、たまたま幼稚園児が何かの都合でパーを出したのであれば、せっかくこれからも有効に使える法則が無駄になる。または、一度捨てた法則をもう一度取り出して使うことになるかもしれない。

もう一つは、法則を修正することである。幼稚園児がパーを出したのは、何か見落としていたからだと思うことにするのである。では、なにを見落としていたか。それは調べてみないとわからない。その幼稚園児があなたとジャンケンする前に友達とケンカをしてしまい、理性が失われていたからかもしれない。または、あなたと幼稚園児がジャンケンをしている横で何かがあって、幼稚園児はその何かに注目したので無意識にパーを出してしまったのかもしれない。

あなたはそうやって、自分の法則を修正していくのである。これが学習というものの一例である。

以上の例は非常に馬鹿馬鹿しいかもしれないが、実はこれは人類の学問の歩みと同じ流れなのである。物理学が、ニュートン力学から相対性理論や量子力学などの現代物理学によって修正されたことと同じである。哲学者はこれを止揚と呼ぶらしい。テーゼがアンチテーゼによってアウフヘーベンされる、と言うと何がなんだか分からないが、要はこういうことである。

■正と負

話はさらに抽象的になっていく。

学習には、材料が欠かせない。学校の勉強の材料とは「先生の説明」であったり「教科書」であったり「友達の助言」というのもある。

材料には、正と負がある。簡単に言えば、正の材料が「正しいもの」で、負の材料が「間違ったもの」である。もっと具体的に言えば、「良い例」と「悪い例」とか、「模範解答」と「反面教師」などである。人生のとある一つの生き方について学習しようと思ったら、金もうけしたいなら「金持ち」が正の例で「乞食」が負の例である。

学習するものによっては、正の材料しか手に入らない場合がある。たとえば、天体物理学を学習しようと思ったら、どうあがいても人間の力では正の材料つまりいま存在する現象をひたすら観察するしかない。一方、航空力学を学習しようと思ったら、実際にいろいろと飛行機を作っていけば、飛ぶものもあれば飛ばないものもあるので、飛ぶものを正の材料とし飛ばないものを負の材料とすることが出来る。

我々が学習するときに、常に正しい材料が手に入るとは限らない。ウソの情報をもとに学習してしまうと、間違った学習が行われてしまう。正反対のウソの情報ばかりをもとに学習すると、学習がうまくいった場合、正反対の結果が得られる。つまり、金持ちになろうと思って金持ちの行動を学習しようとしたときに、もし正反対のウソの情報ばかりをもとに学習すると多分あなたは無一文になるだろう。しかし、その正反対のウソの情報を正反対の情報だとあらかじめ知っていれば、その情報を負の材料として学習する、つまり反面教師として学習すれば、結果は逆の逆で金持ちになれるだろう。世の中簡単ではないが。

■説明

学習の本質の一部は、説明にある。一例をあげよう。

「太郎」「次郎」「三郎」 この三つの言葉がなんであるか、答えてほしい。

もっとも人を食った答えは多分「日本語」だろう。小中学生の遊びと同じである。しかしこれも一つの正解である。

では逆に、日本語の理解できない人に聞いたらどんな答えが返ってくるであろうか。字面だけ見れば「朗」という字が共通しているし、音を聴けば「ロウ」という音が共通している。

これが私立の小学校の受験問題だとしたら、どのように答えれば評価が高いだろうか。おそらく「人名」というだけではあまり良い点はもらえないだろう。「男の子の兄弟の名前」くらいまで答えなければ正解とは言えないのではないだろうか。さらに、外国人に説明するとしたら、「昔の日本で子沢山な親は自分たちの子供の男の子に産まれた順にこのように番号で名前をつけることが多かった」と言うべきだろう。この説明には実に多くの情報が含まれている。

ここで、説明するという行為について述べたが、説明というのは学習とは深い関わりがある。なぜなら、学習した結果である法則は、説明によって初めて人に伝えることが出来るからである。数学的には、説明とは法則の表現(representation)なのだということになる。いわば、説明が本質を表わし、本質から説明がにじみでるのである。まあこれは単純な言葉の決め事だと思えば良い。

以上が大体考えられる学習の結果である。

しかし、世の中にはひねくれた人間もいる。「朗」という字が九画(多分)、「太」が四画、「次」が六画、「三」が三画なので、「総画数が 13画(4+9)か 15画(6+9)か 12画(3+9)の日本語の単語」という答えもありうる。なにしろ学習の材料が三つしかないのだから、いくらでも説明が出来るのである。

■優れた学習

このように、学習した結果はさまざまである。上に上げたのはどれも正しい学習の結果である。

では、もっとも優れた学習結果とはどれだろうか。優れた学習、の定義を問題にしなければならないかもしれないが、ここは直感的に、もっとも人間にとってためになる学習ということにしてほしい。

となると一番最初の「日本語」という結論は、日本人からすれば「当たり前じゃん」ということになり、何の役にも立たない学習であることは明らかである。また、外国人で日本語の分からない人からすれば、この答えは人を馬鹿にしている。たとえばあなたがアメリカ人で、日本にやってきて「太郎・次郎・三郎」という単語を見て、分からないのでそこらへんの日本人に聞いてみて「日本語」という答えが返ってきたらどうだろうか。

画数という結論もまた、言語学者にとってかろうじて意味があるかないかというぐらいで、普通の人にとってはどうでもいいことである。

というわけで、もっとも優れた学習とは「男の子の兄弟の名前」とか「昔の日本で子沢山な親は自分たちの子供の男の子に産まれた順にこのように名前をつけることが多かった」になるという結論に達するように見える。しかしそれはあくまで「太郎・次郎・三郎」だけで終わってしまうことが分かっているという前提の上でしか成り立たない。もしくは、続いて「四郎・五郎・六郎・…」と続いていく場合にのみ当てはまる。

もし学習対象が「田中さんちの子供の名前」だとしたら、太郎・次郎・三郎の次は女の子で花子かもしれないし、なぜか次は健児だったりするかもしれない。

優れた学習とは、学習材料だけを説明するのではなく、学習材料が代表している全体を説明しなければならない。

生き方を学ぶことも同じである。あなたはあらゆる人生の歩み方のうちのほんのわずかしか知らないかもしれないが、世の中が大体こんなものだということを漠然とつかんでいる。あなたの知らなかったことがあっても、まさかそれが世の中に存在しないことだとは思わず、ただ自分がそれを知らなかっただけだと思うはずである。

生まれて初めて入ったコンビニでカップラーメンが売られていなくても、コンビニではカップラーメンはないものだとは思わないだろう。あなたはコンビニに入ったとき、そこがいろいろなものを売る小さい店だということがすぐに理解できるはずである。それが優れた学習である。

■単純性

優れた理論は単純である。優れた学習も単純である。

優れた理論は、例外なく適用される。重いものと軽いものとで別々の式はなく、重さという要素の入った一本の式で表わされる。世の中には上と下があるのだと思われていたが、実際は上も下もなく、あるのはただ巨大な地球と我々人間との間に働く引力だけだということが分かった。引力は地球だけでなくあらゆる物質同士で働いていることが分かった。物質同士の間に働く力は引力のみかと思われていたが、極小の世界では引力では説明できない力が働いていて、あまりにも小さいために引力はほとんど無視できてクーロン力が大きな影響を持っていることが分かった。

紙の上に点を三つ描いて欲しい。それから、その三つの点を含んだ領域を描いてみて欲しい。単純に領域を描くとしたら、あなたは三つの点を含んだ円を描くに違いない。まさか、最小の領域を作ろうと、でこぼこの領域を作ったりはしないだろう。円を描くと、四つ目の点が描かれるときに、その点もまた円の中に入る確率が高いはずである。しかし、もしでこぼこの最小限度の領域しか描いていなかったら、その四つ目の点は領域の外に作られてしまう確率が高いだろう。四つ目はともかく、五つ、六つと点を打っていくと、どちらの領域が許容度が高いかすぐに分かる。許容度ということでいえば、紙全体を領域で囲ってしまうと、どんな点でも含んでしまう領域を作ることも出来る。しかし、意味のない部分を囲う必要はないのである。たとえば「世の中なんでもあり」という言葉は何の意味も持たない。

ただし、例外的なものがいくつかある。その最たるものは言語である。

日本語にせよ英語にせよ、その文法規則やら単語やらを単純な式にまとめることは不可能である。言語には、民族が積み上げてきた習慣や文化や歴史がある。または、積み上げてきた習慣や文化や歴史とは無縁なところで、荒唐無稽な若者言葉が次々と生まれては消えてゆく。

■まとめ

非常にとりとめのない文章になってしまったが、いまの私はとても忙しいので推敲している時間がない。忙しいといっても仕事の他にゲームをしたり本を読んだりするので忙しいということなので忙しさを自慢できる身分ではないが、このあたりがよいところであろう。

機械が人間よりも頭がよくなっていつか人間が機械に支配される日が来るためには、以上のような学習の問題を解決しなければならない。または、人間よりもキャパシティのある神経回路網を持った人工脳と、人間よりも豊かな刺激を与えるためのインタフェイスが必要である。どちらのアプローチがより早く成功をおさめるのか。その答えは私の生きているうちに出るのだろうか。

このあたりは私の専門だったので、もっと数学寄りの話をしても良かったのだが、数学的なモデルで話をするのは「もっと厳密な話を聞きたい」という人に対してだけ話をするようなものであり、また私自身そんなに正確な話が出来るわけではないので、比較的身近な例を引いて説明した。


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gomi@din.or.jp