95. 俺・おふくろの心理学 (2001/2/20)


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日本語には一人称が沢山ある。わたし、わたくし、ぼく、おれ、あたし、わし、あたくし、じぶん、あゆ…違うか。

私はずっと「ぼく」を使ってきたが、社会人になってから公の場では「わたし」に統一した。一人称というのは、歳をとるに従って変化する、と言っても良いと思う。

人はなぜ一人称を変えるのか。それは自然に行われるのか、または意図的に行われるのだろうか。

■私の場合

少なくとも私に限って言えば、それは「組織の構成員としてふるまうのにあたって個人を感じさせる一人称を使うべきではない」と考えて「ぼく」から「わたし」にした。これはある種の配慮と言える。

学校とか近所では、自分の望む相手としかしゃべらないのだが、社会人となると自分の望まない相手ともしゃべる必要がある。それは互いに言えることであって、たとえば私が A さんのことをあだ名で呼ぶことで親しくなろうとしたとしても、A さんの方は拒否をすることができる。しかし、会話が仕事に関係する場合、A さんは私との会話を拒否できない。だから、あらゆる可能性を考えると、なるべく事務的なコミュニケーションをするほうが全体的に都合が良い。

うまく二つのパーソナリティを作ることで、二つの人格を使い分けることができるという利点もある。親しい人には「ぼく」を使い、疎遠な人には「わたし」を使うことが出来る。あるいは、自分の個人的な考えを言うときには「ぼく」を使い、社会の成員としての意見を表明するときには「わたし」を使う。

しかし一番大きな理由というと、なんとなく「ぼく」には気恥ずかしさを伴うのである。少なくとも、自分が身内と思える人に対してしか使うことをはばかる言葉である。この場合の身内というのは血縁的なものに限定されない。親しい友達や、とくに世話になった人などである。

■作品

テレビドラマや小説やマンガなどの物語を作る人のことを考えていただきたい。彼らは、あらゆる登場人物に個性を持たせるため、色々と設定に気を配るものである。彼らがどのように設定を決めるかというのは、少なくとも社会ではどのようになっているのかを測る格好の目安である。

当然、そこにはあきらかな一人称の使い分けがある。多分、ハードボイルドや退廃を描く作家の主人公は、よほど奇をてらわない限り「おれ」となっているに違いない。マザコンという設定の人物は間違いなく「ぼく」に決まっている。弱い人間も「ぼく」だ。

素直な男の子は「ぼく」で、生意気な男の子は「おれ」である。おとなしい女の子は「わたし」で、元気な女の子は「あたし」に決まっている。

歌詞の世界にもある。aiko や椎名林檎は「あたし」だけを使っている。意外なことに浜崎あゆみは「わたし」や「あたし」のほかに「ぼく」まで含めていくつかの一人称を使い分けているらしい。

ところで、自分のことを「ぼく」と言う女の子はいかにもオタク好みなキャラクターであるが、そこにはどんな意味があるのだろうか。私も含めて、オタクはボーイッシュな女の子が好きな傾向にある。多分女の子の「ぼく」は、ボーイッシュを表す記号なのだろう。ではなぜボーイッシュな女の子を好きになる男が多いのだろうか。話が広がりすぎるのでまたの機会に考えることにする。

■同年代

私の周りにいた人のことを思い出してみると、男は「おれ」、女は「あたし」が圧倒的に多いことに気づく。彼らは生まれたときから「おれ」だったのだろうか。彼女らは生まれたときから「あたし」だったのだろうか。

女の「あたし」は、ものごころついたときからそうであった可能性が高い。ほかには、自分の名前で自分のことを呼ぶ人、つまり具体的には「あゆは…」「ひかるは…」が、大きくなってから「あたし」や「わたし」になったりするのだろう。「あたし」は「わたし」に変わることもある。

ところで「あたし」というのは「わたし」の崩した言い方だと私は思っているのだが、ひょっとして違うのだろうか。私の単純な説では、「わ」という言いにくい言葉が次第に「あ」になっただけで、こうやってくだけて言うことによって若さや初々しさが感じられるという次第である。しかし男が「あたし」というとかなり寒いものがある。もはや独立したイメージを持った言葉として「あたし」は定着してしまったのだろう。男でも「あたしゃね、…」なら可能なのがよく分からない。

それに比べて男の「おれ」は、なかなか込み入っているように思う。結論から言うと、男の場合はある種の背伸びなのではないだろうか。「おれ」と言うことによって、自分の新たな殻を身にまとうのである。

なにしろこればかりは他人のことなので何も分からない。ただ、統計的に調べてみると、大体のことは分かるのではないだろうか。

まず、少なくとも真面目な人ほど「おれ」を使わず、いわゆる不良とかドロップアウト組は必ずといっていいほど「おれ」と言う。さらにドロップアウトして社会のゴミになると今度は「わし」と言うかもしれない。それはいいとして、この傾向は厳密に調査したわけではないが、誰もが納得できることではないだろうか。

■男の背中

ハードボイルドの好きな Wという友人に言わせると、男というのは虚勢を張って生き続けなければならないらしい。このかなりバイアスの掛かった彼の意見だが、ここではとても興味深くまた結論まで持っていきやすいので利用させてもらうことにする。もちろんこのことは男だけに限らない。

自分の背丈にあった生き方をすればよい、という考え方が浸透しているように思えるいまの世の中であるが、相変わらず虚勢を張って生きる人の方が多い。この場合の虚勢というのは、大げさな意味だけではない。なるべく自分の自己イメージをよくしようと思うものだ。

私はこの手の話が好きなので構わず続けさせてもらうが、多くの人は相手よりも自分を優位に置きたがるものである。示さなくても良い場合でも自分の優位を示そうとするものだし、極端な話、ウソをついてでも他人よりも優位に立ちたいと思う人も多い。

人は自分の自己イメージを自分で作り上げていくものである。一番分かりやすい例でいえば、好きな俳優のファッションだけでなく台詞回しを真似してみるだとか、親や友達の会話を聞きながらこういうものなのかと自然と身についていくものとかである。周りの人間が使っていない言葉遣いをするというのはなかなかありえない話なので、自分に近い人間の言葉遣いが自然と身につくものなのだと思う。

好きな作家の文章を読んでいると、自分の書く文章も自然とそれに似てくる。また、文章を読んでいて「この表現いいな」と思うと、その表現を自分の文章にも使いたくなる。言葉遣いも同様で、無意識に身につくものと、意識的に身になるものがある。

言葉遣いによって自分を演出するのは簡単である。運動が出来るだとか、テストで良い点数が取れるだとか、実力を伴わなければならないこととなると、そのことで自分を演出するには努力と才能が必要である。しかし、言葉遣いだけなら、身に付けるのは非常に簡単である。そのうち自分で自分の台詞回しによって自己暗示に掛かることも可能かもしれない。台詞というのは、台詞自体のかっこうよさよりも、その台詞が想起するイメージが重要なのである。

■おふくろ

さらに不可解な言葉がまだある。「おふくろ」である。

説明が難しいので結論から言うと、「おふくろ」という言葉は、自分を生んだ母親からの精神的独立を成し遂げるために必要な言葉のようである。「おかあさん」「ママ」という言葉は、自分が母親にいまだ依存しているというニュアンスが強い。それに比べ、「おふくろ」という言葉は、日本語の意味からすると「お袋」つまり「かつて自分が入っていた袋」という認識改めがある。

しかし現代の若者に「おふくろ」の正しい意味など分かるのだろうか。テレビに出ているタレントがそう言っているから真似するだけ、と考える方が自然である。

女性が自分の母親のことを「おふくろ」と呼んでいるのはあまり聞かない。やはり男の方が背伸びしたがるものなのだろう。

「おやじ」もよく分からない言葉である。漢字だと「親父」で、単に「父親」をひっくり返しただけなのだからますます分からない。

普通に考えれば、親に依存しないで生きていける、と子供が意識して初めて、子供は自分の父親と母親に対する呼称を改めさせるのだろう。しかしこの考えは少なくとも今の状況とはかけ離れている。親のスネをかじっている子供でさえ「おやじ」「おふくろ」と呼ぶみたいなのだから、もはや子供の動機は虚勢以外にありえない。

*

私は「おれ」も「おふくろ」も使わずにいるので、使う人を見るとなぜ使うのか非常に疑問に思ったので考えてみた。結果的に他人のことを「虚勢だ」と批判したことになるのだが、反論がないとこれ以上話が進まないどころかこの話自体が無意味かもしれない。

それと、ギャグで「ぼくさま」という一人称を使っている人を BBS で見たが、これはなかなか面白い。ドラえもんに出てくるジャイアンといういじめっこなどは「おれさま」という一人称を使うことがよくあるが、それに対して「ぼくさま」というのはなにか違和感があって良い。やはり「おれ」には「さま」と合うような不遜な雰囲気がある。


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gomi@din.or.jp