94. ですね (2001/2/14)


戻る前回次回

最近気になるのは「ですね」がかなり多用されていることである。

私が言いたいのは「ですね?」ではなく、抑揚を伴わない単なる「ですね」であり、本来ならば「です」と断定すべきところをなぜ「ですね」と言うのか、ということである。

これは私にもかなり経験がある。

■相手の話を聞いたという印

たとえば誰かが、あまり知られていないことがらについて教えてくれたとする。その説明を聞き終わったとき、あなたはおおいに納得したとしよう。そうすると、あなたは大抵の場合、何らかの形であいづちをうつはずである。もっとも簡単なのは「ふーん」や「なるほど」である。しかし、相手が自分にとってとても興味深いことを説明してくれたときに、それに対して単に「ふーん」と言うと馬鹿にしているようにも思える。かといって、ありがとうとわざわざ言うのもおかしい。

となると、いかに自分はあなたの話を興味深く聞きましたよ、ということを示すために、相手の話を自分の言葉で要約して確認を取るのは一つの方法である。たとえば、ああ、なるほど、…なのですね、というようにである。

この場合の「ですね」は、相手に答えを求めるものではない。「ですね?」であれば、自分の言葉に言い換えるとこういうことになるのだがこれで良いのか?という質問となる。しかし「ですね」は質問ではない。自分の言葉が正しいと信じているのだから、質問する必要はないのである。

この場合「です」は不適当である。相手の言葉を言い換えているだけなのだから、相手に何かを伝えようという意志は全くない。

■相手が知っているかもしれないこと

私が最も気になるのは、本来「です」を使うべきところで「ですね」が使われていることである。

あなたが、自分しか目撃していない事件を相手に語るとき、あなたは自分の見たことを断定口調で相手に語るだろう。しかし、その事件を共に目撃した人がいたとして、その人に同意を求めるときは「だよね」または「ですよね」と言うに違いない。その「だよね」や「ですよね」には抑揚は伴わず、即ちこれらは質問ではなく知識の共有を意図したものである。

以下の簡単で馬鹿馬鹿しい例文を出そう。

「東京は日本の首都だから人が集まってきます。」

この文を二つに分解するとこうなる。

「東京は日本の首都です。だから人が集まってきます。」

この分解された文章を普通の日本人に対してそのまま言えるだろうか。東京が日本の首都だということは誰もが知っていることである。だから自然と、

「東京は日本の首都ですね。だから人が集まってきます。」

となる。この例は別になんということはない。

■知識人

知識人同士の対談を見ると、このような「ですね」が気持ち悪いほど多用されていることに気づく。彼らは、自分の主張を述べる際に前提となる知識をあらかじめ説明するのだが、その知識の説明にことごとく「ですね」が使われているのだ。この用法は、恐らく相手に失礼のないようにするための礼儀なのだろう。

ところが知識人の場合、いわゆる「東京は日本の首都です」にあたることが、相手にとって自明であるかそうでないかが分からない。たとえば「芥川龍之介は晩年になって…」というような話となると、誰もが知っているとは限らない。日本文学者にとっては知っていなければならないことかもしれないが、他の人は知らなくても当然である。でも、いわゆる文豪と呼ばれる人はどうだろうか。実際のところ、文豪が文学に関してなんでも知っているとは限らない。しかし、文豪に向かって「芥川龍之介は晩年になって…だったのです」と言えるだろうか。

知識人というと、自分の専門外のことでもある程度は知っているものである。となると、知識人相手に何か自分の意見を述べようというさいに、その前提となる知識を説明しようとするとき、どうしても「ですね」を使ってしまうのではないか。そこには、あなたはこれくらいのことは知っているでしょうが改めて確認しておきますよ、という意味がこめられているのである。

もしあなたが自分の知識量に関してある程度の自信を持っているとしたら、あなたが誰かの説明を聞くときに相手がこのような「ですね」を全く使わなかったら、あなたは自分が少し見くびられているのだと思うかもしれない。だとしたら、これはよく考えたらおかしなことだ。私はこのようなことが何回かあった。ああ、この人は私がこれを知らないと思っているのだな、と思った。

逆に私はいままでに数回ほど、このような「ですね」を自分が言わなかったときに、相手から「それは知っている」のようなことをわざわざ言い返された覚えもある。

ということは、「です」という断定口調には、隠れた意味、つまり「あなたは知らないでしょうが」のような意味がある、と解釈することも出来る。ということは断定口調は、相手にとって自明のことを説明する際には使えない、ということである。

それに対して「ですね」という口調には、相手が知っていようがいまいが関係ない、つまり「です」よりも一般的な表現だとも言える。本来の日本語としては間違った解釈だろうが、私は現在の日本語を自分なりに解釈するとこう考えざるをえない。

■私の結論

私はやはりこの「ですね」という言葉遣いにはなにやら抵抗を覚える。それは、私にとって何が重要かというと、私が何を言いたいか、ということがまず第一だからである。相手がそれを知っていようがいまいが、私が何を言いたいのかとは関係ないのだ。

「ですね」という言葉は、相手のことを視野に入れた、より丁寧な言葉だと言うことも出来るかもしれない。しかし、私が多く見かける「ですね」の用法は、むしろ何か卑屈な、あるいは相手からの反発を避けるという消極的な理由しかないように思える。

それからこの「ですね」は、「だである口調」では使えないという欠点がある。これを敢えて使うとしたら、

「日本の首都が東京なのは周知(の通り)である。だから人が集まってくる。」

といくら短くしようとしてもこれくらい少々回りくどい表現が必要となる。あるいは冒頭に「ご存知(の通り)、」とつけるのも良い。

対談記事中に出てくる「ですね」は、対談者同士が互いに相手を尊重しているというのを通り越してなにやら互いに卑屈な感じがするし、それは読者に対しての配慮ではないので、すっぱりやめて欲しいものである。

*

…ものである?これも多分、断定で「やめて欲しい」と言うと、自分だけの身勝手な欲求っぽく思われるので、世間の人々も同じことを考えているぞ、という含意でもって敢えて「やめて欲しいものである」と言うのだろう。気のせいか、各種マスコミでこれまた多用されている表現のように思う。

やめろ。やめてしまえ。


戻る前回次回
gomi@din.or.jp