92. 学習業界 (2001/1/29)


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最近ここではあまり心理学っぽい話を書いていない。雑誌を見ていたら、どうも生涯学習を志向する人が増えてきているみたいで、なかでも心理学関係に人気が集まっているらしい。だから私もそれに習って、そろそろ久しぶりに心理学っぽい話をしたいのだが、そのまえに何かその学習というもののうさんくささについて書いてみたい。

■能力開発

私の愛読紙の一つは SAPIO という国際情報誌を名乗る小学館の雑誌である。しかし最近の SAPIO はどうもコマーシャルな影響が強いように思う。なにしろ堂々と「脳力開発」のような文字が躍る始末である。

広告自体はまあ雑誌の中身とは分離しているものなので、どんな広告が載ろうとその雑誌の体面を傷つけることは多分ない。記事と広告はきっちりと分離されるべきであり、そのためにちゃんとした出版物にはきちんと (PR) という記号がどこかにつけられているものである。

しかし悪質になると、どこまでが記事でどこからが広告なのかよく分からないことが多い。広告にあわせて記事を書いたのではないかと思われるような記事が SAPIO に載ったとき、私はなにやら悲しいものを感じた。

この雑誌を読む層というのは、世界に歓心を持っている人だと思う。ただ、なぜ世界に歓心を持つのかというと、単純な興味のほかに、自分ってこんなに知識を持っているんだ、と思いたいというのもあるのではないだろうか。そこにつけこんで、業者が怪しい教材やカリキュラムの宣伝を展開しようとしているのではないだろうか。私はむしろ小学館が彼らに場所を提供していることが非常に腹立たしい。

余談だが、SAPIO に腹が立ったので最近初めて AERA という朝日新聞系の週刊誌を買ってみた。値段のわりに広告が入りすぎているところは朝日新聞そっくりである。そんなに極端に偏向した記事はなかったが、ところどころに朝日らしさが見えて興味深い。成人式で講演者に向かってクラッカーを鳴らした連中を市長が訴えたことが話題になっていた。記事の中身は極めてまっとうで、大人側の講演者の意見を中心に大人の意見でまとめてあるのだが、なぜかこの記事の見出しが「成人式なんかやめよう」すぐ横の要約が「祝ってやるものでも祝わせてやるものでもないはずだ。税金を使い、互いに嫌な思いをしてまで、自治体が続ける意味はない。」と無理に反体制に持っていこうとしているところがどうにも微笑ましい。

■生涯学習

生涯学習というのも、なんたらカルチャーセンターを運営している組織の利益と関係があるような気がしてならない。生涯学習が定着すると、人々はそのセミナーに参加するために新たな出費を求められるからである。カルチャーセンターを運営しているのがどういう人々なのかを一度調べてみるのも面白いかもしれない。

生涯学習というのは必要であるといわれている。人々が生涯学習にいそしめば、社会の効率がよくなるだとか、豊かな社会が作れるとか言われる。しかし冷静に考えれば、一人の人間は自分の労働に必要な知識と技能だけを磨けばそれでよいわけで、空いた時間は学習などという堅苦しいものではなく、自分の好きなことをやればよいのだ。自分の職業を続けていくのに必要なだけの学習しかしないというのは、平たくいえば「つぶしがきかない」ような人々を多く作ることになる。たしかにこれは社会にとって非効率的なことである。産業構造の変化に応じて人々の職業構成が柔軟に変化できれば理想であることは確かである。しかし現実問題として、いままでパソコンを一切さわったことのなかった人々にパソコンの使い方を教えることは可能なのだろうか。そしてそれは必要なことなのだろうか。

■アビバ

私が一番うさんくさい目で見ているのは、最近コマーシャルの多いアビバである。パソコンを教えるスクールというのだが、なぜこの時期になって勃興してきたのか不思議である。国からの補助金が制度化されるというのをあらかじめ知っていたのではないか。アビバの株主や経営者について私はよく知らないのだが、もし政治が絡んでいるのだとしたら非常に汚い話だし、でなければ本当にうまい商売の仕方をするものだなと感心するほかない。

国からの補助金というのは、国民一人一人に対して、何かの資格の取得の際に掛かる費用の一部を国が負担するというものである。そうすることにより、経済力によって受けられるかどうかが決まってしまう教育の機会均等を目指そうというのだから、この制度自体は非常に良いことである。

しかし、この制度が生まれることを事前に知ることが出来る人間がいたとしたらどうだろう。この制度が生まれると、資格をとるために各種学校に行こうとする人が増えるのだから、学校を経営する側にとっては非常においしい話である。市場の大きさというのは、各企業が市場を拡大しようと努力しないかぎり、顧客の意思の移り変わりによって大きくなったり小さくなったりする。学校を運営する人からすれば、市場がどうなるか分からない中を、リスクをとって学校を設立してきたのである。生徒がいなければ学校は潰れるので当然のことである。彼らを尻目に、生徒の数が急増することをあらかじめ知っている人間がいたとしたらどうだろうか。

まあ私はロクに調べもせずにあてずっぽうで適当なことを言っているだけなので、創業者が大変な努力の末に拠点を増やしてコマーシャルを打って賭けに出ているのだとしたらそれは非常に申し訳ないことであるのでこのへんにしておく。

なんにせよ、政策を決めるところに近い場所にいれば、他の人よりも儲け口を発見しやすいことは確かである。

■予備校

私は予備校に行ったことがないし、どちらかというとかつての私は予備校というものを、教育産業にむらがるアリの一つとしか思わず、自分が受験生だった頃はあまり良い印象をもてなかった。特に、高校受験前に受けた予備校模試で私は偏差値 37 という結果をもらってからは、何か異常な世界に足を踏み入れてしまったとしか思えなかったものである。

しかし最近聞いたニュースで私の認識はガラリと変わった。というのは、大学側のあまりに趣味に走りすぎた悪問を指摘し、質問状を送り、教育を改革しようとしている予備校もあるというのだ。慶応義塾大学のある学部もこの予備校から質問状が送られ、それをもとに試験問題改革に乗り出して、いまでは良問ばかりになっているらしい。一方でいまだに悪問を出して受験生を悩ませている大学もあるというのだから腹が立つ。

私の高校時代に面白いことをいっていた先生がいた。予備校というのは、高校と大学の中間なのだから、高校よりも上の学校なのだそうである。非常にもっともだと思った。高校の先生になれる人が必ずしも予備校の先生に適格とは限らないそうである。ともかく、日本の教育機構からは極力無視されつづけてきた予備校が、日本の教育機構の頂点である大学に物申すという図式は面白い。

■カルチャーセンター

私の母親が中国語ワープロを習っていたことがある。朝日新聞の広告に載っていたカルチャーセンターの講座の一つである。

私の母親は、パートタイマーで働きたかったらしいのだが、特に程度の高い仕事をして社会に認められることを望んでいるように私からは見えた。そんな彼女を狙ったとしか思えないのがこの中国語ワープロの講座である。

この講座自体は特になんてことはない、一つの専門技能を身に付けるための講座である。中国語の文章を、専用のワープロで打つための方法を学ぶ講座である。大学の先生なんかもこの講座を受けに来ていたみたいで、多分教材か何かを作ったり仕事に使ったりするのだろう。

問題は、講座の説明に「中国語のワープロが出来るとその関係の仕事を得られる」というものがあったことである。結論からいうと、その関係の仕事はあまりなく、仕事を紹介する事務所と特に親しい人たちだけが独占して仕事を受けているとのことであった。

悪意はないとは思うのだが、この講座の授業の大半は、中国語ワープロソフトとして一定のシェアを持っていた特定のソフトの使い方の説明にあてられた。中国語の入力自体は、単にピンインと呼ばれるローマ字変換を覚えるだけで可能だからである。しかしワープロソフトの説明というのは、そのワープロソフトを使う場合にしか役に立たない。

結局私の母親は、中国語ワープロをするために 20万円でパソコンとプリンタを買い、五万円の中国語ワープロソフトも講座で買い、その他講座自体に何万円を使ったのか知らないが、それらはほとんど意味を持たなかった。私はおかげで彼女のパソコンを卒業研究の一部に使うことが出来て良かったのだが、彼女が得たものはあまりに少ない。

ただし、この講座は詐欺ではない。なぜなら、パソコン販売がセットになっていなかったからである。もしこれで「このパソコンを買ってください」ということだったら、法律的にどうかは知らないが少なくとも私は詐欺だと断言する。ひょっとすると勧められるだけ勧められたのかもしれないが、本当のことは知らないし、母親に訊いてみたいとも思わない。

■英会話

日本人に英会話は必要か。

技術者には英語は必須、とは言い切れないのだが、読めなければ話にならないこともある。しかし喋れる必要は多分ない。最新技術のセミナーに参加したりするときには必要になるが、大抵の場合そういう儲けのタネにはまず技術商社の技術営業や SE が群がるので、少なくとも私のような職業ではその技術商社を介してその技術を顧客に売ることになるので、たとえば技術を持っているアメリカとかの企業の技術者などとのやりとりは発生しない。

商社マンで、海外で仕事をする人間にはやはり通じる言語で会話できなければ多分話にならないだろう。そういう人たちからすると、英会話というのは飯のタネなのだから勉強して当然といえる。

ではその他もろもろの人間にとって英会話は必要なのだろうか。英語を公用語化するべきだとの議論もあって、この話はなかなか面白いのだが、ここでは英会話教室に話を限定することにする。はっきりいって、英会話は不要だと私は思う。

英会話教室が生徒を獲得するために宣伝をうつとしたら、英会話ができるとこれだけいいことがありますよ、と宣伝するのも普通に効果があるとは思うが、それ以上に効果のある方法がある。それは、これからの時代、英会話ができないと困りますよ、という風潮を広めることである。

またまた私の身近にいるタレントにご登場願うことになるが、H先輩はロクに英語もできないのにアメリカで二ヶ月間仕事をしてきたツワモノである。

ただ、問題はやはり「就職に不利」と言われるとどうしても不安を感じてしまうのだろう。一昔前までは「就職に有利」という言葉に過ぎなかったのだが、最近では敵もさるもので、もはや英会話はできて当たり前と言わんばかりの強い言い方である。考えても見ればいい。中学高校大学と、馬鹿はそこらじゅうに転がっていたはずである。そんな連中が英語を喋れるようになると思うか? 少なくとも、誰かを追い抜かそうと思わぬ限り、追いつかれずにすむために英会話をやるという選択肢はありえないのである。

*

最近私の職場に突然、なにかの資格をとるための案内の電話が掛かってきた。案内の電話をかけてきたおばさんは、私の出た大学名を最初に言ったので、卒業生の名簿が漏れているのかもしれない。…というのは考えすぎだろうか。おばさんの目的は、私の住所を確認だけして、あとからその住所に資料を送るということなので、ただ送りつけるだけのものとは違うのだから、と考えることも出来なくはないのだが、逆に言えば教育産業というのはよほど儲かるものに違いない。


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gomi@din.or.jp