91. 減速主義者 (2001/1/19)


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私は減速主義者である。原理主義者ではない。

減速主義者とは、要するにそんなに一生懸命働かずに、ほどほどに働いてほどほどに収入を得てほどほどの生活が出来ればよいと考える人々のことである。ちなみに英語で言うと down shifter らしい。車を走らせるときに、一速から二速とかにすることをシフトアップと言い、逆に二速から一速とかにすることをシフトダウンと言うらしいので、語源はこのあたりかもしれない。

■不遇な身と嘆くなかれ

能力はあるが過小評価されていると自分で思っている人が多い。私もその一人である。そう思うこと自体は良いのだが、じゃあどうしようというときに、それぞれの人の特性が現れる。もっと自分を認めてくれる人を探そう、と考える人は多分ほんとうに能力のある人なのだろう。逆に、面倒がったり、ともかく現状に甘んじている人は、ほんとうに能力があるのかどうか疑わしい。特に、現在の待遇に文句ばかり言って何もしようとしない人を見ると、口だけなのではないかとも思わなくない。

ここへ新たな人々が生まれてきた。自分がほんとうに能力を持っているかどうかはどうでもいい。能力があっても最大限に発揮する必要はない、または無理して背伸びをせずにマイペースで働けばよいではないか。なにも、自分の実力を認めてもらう必要はないし、文句言われない程度に働いていればよいのではないか。それが減速主義者である。

■技術者不遇の世の中

私は技術者である。いまの日本で最も不遇な扱いを受けてきたのは技術者ではないだろうか。いかに官僚や医者や弁護士や経営者や商社がエラぶろうとも、いまの日本を作り上げてきた最大の原動力は、この高い日本の技術力にある。確かに優秀な経営者がいなければ優秀なメーカーは育たないし、優秀な商社員や販売員がなければ機械の材料さえ手に入らないし作ったモノも売れない。しかし、自分たちの優秀さを証明したいのなら、他のローテクな国へ行って一旗あげてみろと言いたい。

しかしそんな技術者は日本ではあまりに地位が低い。私は別に技術者が虐げられているとまで言うつもりはない。しかし、技術者というと好きなことをやっている人種だと思われているフシがある。日本ではなぜか、好きでやっていることほど給料が低い傾向にある。これはなかなか合理的なシステムとも言えなくも無い。しかし、理科離れして技術者の数が減ってくるとそうも言っていられないだろう。労働市場の需給を無視することは出来ないのだ。

特別に努力しても報われないのであれば、努力する必要はない。最低限のことをやっていればそれでよいのである。自分が面白いと思った仕事は自分なりに努力すればよい。しかし、つまらない仕事まで努力する必要はない。

■報酬を上げてもらう

自分が正当に評価されていないと思ったとき、二つの方法のうちどちらかを取ることが出来る。一つは、報酬をあげてもらうことである。それが無理なら、報酬の低い分だけ怠けることである。

サラリーマン特に大企業のサラリーマンが報酬をあげてもらおうと思ったら大変である。まず第一に、望む報酬にふさわしい分だけ働くことである。多分これが一番重要な点であることは確かである。次に、働いた分だけ賃金を要求することである。多分これが一番難しい。一番近い上司に言ったところでどうにもなるまい。おそらく彼は迷惑そうな顔をするだけである。あまり強く要求すると、彼に突然飲みに誘われて、彼の愚痴と世の中の仕組みについての長い話を聞くハメになるかもしれない。

進んだ企業であれば、業績給という仕組みを利用できるかもしれない。業績給といっても、たとえば私の会社はほとんど給料が変わらないので、無いも同然である。それでも見合うと思ったら、業績給の評価基準にのっとって働けばよいのである。あるいは褒賞を期待することも出来る。目立った業績をあげれば特別な褒賞をもらえるかもしれない。

■働かない

報酬を上げてもらうことは、会社に働きかけなければならない可能性が高く、またその評価も会社に左右される。だから自分の望んだ程度の報酬を得られることはまれであろう。そんなことをするぐらいなら、自分の好きに出来る手段をとった方が早い。つまり、働かないことである。

たとえば、自分は本来ならば給料をいまの倍くらい貰わなければ損だと思ったとする。その場合、会社に働きかけて報酬を倍もらえるようにするよりも、半分なまけるほうがはるかに簡単である。半分なまけたことによって報酬が下がるかもしれないが、そのときはさらになまければ良いだけの話である。

いまの日本では、あまりに働かないとリストラの危険もあるかもしれない。しかし、大抵の場合、会社は社員を解雇することはとても難しい。それは、制度的な意味でも、また人情的な意味でもそうなのである。勤怠に関すること、つまりあまりに遅刻が多かったり、無断欠勤が続いたり、または業務命令を頻繁に無視したりすると、多分あぶない。しかし、なまけるためにこれらの手段をとる必要はない。ちなみに、解雇された社員が会社を訴えることもあるので、会社は簡単に社員を解雇することは出来ない。

■働かない時間の使い方

では、働かないのであれば、そのあいだどうしていればよいか。

出来る限り真面目に仕事をしているように見えることがなにより望ましい。それでいて、なるべく心地よい時間を過ごせればよい。いまであれば、ネットサーフィンこそが一番簡単な方法である。友達とメールのやりとりをするのもよい。また、最近は日記サイトが流行っているようだから、自分の日記を書いて公開してもよいし、私のように文章を書いても良いのではないかと思う。

同僚の席へ行っておしゃべりをするというのも良いだろう。可能ならば。

バレなければ、寝るというのも一つの手である。

■正しい減速主義者のありかた

私は、まず第一に、残業しないことを考える。これは非常に正しい減速主義者のありかたである。プライベートで平日の一日に自由になる時間はどれくらいだろうか。睡眠が七時間、勤務が八時間、通勤が往復で二時間、食事風呂もろもろで二時間取られるとすると、残りはたった五時間である。残業を二時間半してしまうと、平日の自由時間が半分減ってしまう。自由時間が半分減ったのに給料は 1.5倍にもならない。これは非効率的である。もっとも、週末の自由時間を入れると大したことにはならないかもしれないが。

残業をしない、といってもことはそう簡単ではない。とくに、責任ある立場になればなるほどほとんど不可能に近くなっていくものである。しかし私はまだほとんど責任がないのでその点は楽である。そうなると、残業をしないで済む方法は簡単である。追加の仕事を引き受けないこと。多分自分がその仕事を断れば、誰かがその仕事をしなければいけないことになるのだろうが、そんなことは知ったことではない。いや、好んで仕事をする人もいるのだから、なになにさん頼りにしていますよと日々口にしていれば事は荒立たない。

そもそも、残業しなければならないのは、上の人間が悪いのである。だから、残業をするハメになったら、上司からおごってもらうのは当然と考えた方が良い。逆の場合もある。下の人間があまりに残業してしまうと、これまた上司の責任になる。だから、なるべく残業をしないことは上司のためでもあるのである。

■減速主義者たれ

若い頃というのは、時間こそがなにより大切なものである。若い頃に一生懸命働いて大金を得ることが出来ても、使うときになって有効な使い道がなければどうしようもない。小学生の頃は百円だって心躍る買い物が出来たものだが、いまでは千円でも難しい。チョコエッグでも買っておまけの動物フィギュアを集めて楽しむことが出来る人間はごくわずかである。

余談だが、H先輩は一個150円のチョコエッグをダンボール箱ごと 80個一万二千円分も一度に買ってしまう人である。これはいわゆる「大人買い」であり、なにか物悲しいものがある。

E先輩は、バブルのころはバリバリ働かされていたらしい。当時は家には寝るためにだけ帰るというありさまで、遊ぶのももっぱら飲みに行ったりするぐらいだったらしい。とにかく時間はないが金だけはたまったので、近くのフィリピンパブに遊びに行って貢いでいたという話である。私の業界では、一年で外車を買ったが乗る暇がない、という話はありきたりで比較的よく聞く話である。

遊ぶためにはお金がいる、という常識がこれまではあった。いまもやはり遊ぶために金が必要なことには変わりないのかもしれない。飲みに行くにも、釣りやキャンプや登山や旅行、スキーやスキューバ、食べ歩きや温泉めぐり、競馬などの賭け事、高価なコレクション、別荘やクルーザー、挙げればきりのない話である。

ところが、コンピュータゲームなら安く遊ぶことが出来る。人気のゲーム、ドラゴンクエストの最新作(7)ならば、一本で二百時間遊べると言われ、そうなると一時間にたった 40円にも満たない。ゲームだけで遊ぶというのは虚しい。ソフトだけでなくハードも買わなければならない。しかし、これだけ安く遊べるのだから、娯楽に金をつぎ込む必要はない。であれば、最低限稼いで、あとはゲームでもやっていたほうが良いのだ。

コスト的に見れば、読書は一番効率の良い娯楽だと私は思う。図書館に行けばタダで面白い本がいくらでも読める。もっとも、本を面白いと思えることがなによりの前提となるのが万人に勧めがたい点である。

あるいは別の極端な例もある。フリーターとして働き、金がたまったら仕事をやめて長期旅行に出かける。アジアとかならうまくすれば低価格で長期滞在できる。うまくすれば現地で働くことも出来る。良い大学、良い企業に入って、高い報酬だけを求めることはないのである。という話はまた別かもしれないが。

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というわけで、「認められるようさらなる努力をせよ」という考え方にとらわれる必要はないのである。


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gomi@din.or.jp