90. 人情ってなんだ (2001/1/16)


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アメ横の近くのギョウザ屋に行った。同期のMさんが一度食べにいって、まあまあいけるんじゃないかということで、私たちも誘って四人で行こうということになったのだ。私の会社からアメ横まで歩いて行ける距離だということが初めて分かった。軍服で有名な中田商店の前も通った。

余談だが、フランス人の前でナチスの服を着てナチ式の敬礼をして殴られそうになった日本のミリタリーマニアがいたのだが、この場合どちらが悪いのだろうか。私からすれば、この民主主義の世の中で、問答無用で殴りにいこうとするフランス人の方がどうかしていると思う。確かにフランスは第二次世界大戦でドイツに敗れて占領され、傀儡政権を建てられた、つまりレイプされたに等しいわけだから、その心情も理解できなくはない。しかし、その殴りにいこうとしたフランス人は若く、戦争の経験は一切ない。フランスという国が、自国民に対してドイツへの憎しみを再生産したことは否定されなければならないのではないだろうか。

とまあ今回はそんな国際的な話をするのではなく、いわゆる「人情」といったものへの私の疑問を書くことにする。

■ギョウザ屋のおばちゃん

そのギョウザ屋は、化粧の濃いおばちゃんと二人くらいの若い衆がやっている店だった。店の面積は小さかったが、それなりに繁盛しているようで、私たちが入ってまもなく全ての席が埋まった。おばちゃんは「気さくに」客に応対する。本来なら、親しみやすいとでも言うべきおばちゃんの口調なのだが、私には横柄に聞こえた。口調だけならいいのだが、このおばちゃん、客に水の入ったコップや皿を置くときに、ガチャンと置く。そのとき私は思った。この店は決して「人情」の店ではないということを。

特にこの店に関して言えば、ギョウザといっても焼きギョウザしかない。ギョウザ専門店というより、一般的な中華料理全般の店なのだろう。本場中国では、ギョウザといえばまず水ギョウザであり、わざと余らせてそれを焼いて焼きギョウザにし、さらに余れば揚げて揚げギョウザにする。少なくともこの店は本場を真似た店ではない。それはよい。私は本場かそうでないかということを問題にしたいのではない。

私が違和感を感じたのは、出されたギョウザを一口二口かじり、その後そのギョウザの断面を見たときである。具が、明らかに機械で混ぜられて作られている。しかも肉の量が少なく、野菜が主体である。それと、このギョウザは一つ一つが大きいのだが、それは大きい方が味が豊かになるからというのではなく、ただ単に包む手間を省くためなのではないか、と私は思った。

結局この店は、労働者のための店なのだと私は結論した。とにかく安くておいしいことを志向しているのだろう。私はそのギョウザを確かになかなか悪くない味だとは思った。野菜が主体なのでしつこくないところは良い。ただ、さすがに野菜の量が多いので、食べ過ぎると飽きそうな気はした。

要するに、私たちはこのような店を見ると勝手に「人情」の店だと思うかもしれないが、やっている側からすれば単にコストの低い料理を安く出して経営している店なのだ。口調がぶっきらぼうだろうと、コップや皿をガチャンと置こうと、それらはこの店の本質ではないのだ。そう、ただそれだけのことなのだ。

■人情もどき

テレビの影響が大きいのだと思う。レポーターが、本来なら図々しいとしか思えないように現地の人々に近づく。そうすると人々はそのレポーターを迎え、親切にする。元々台本があるのだ。図々しいレポーターと調子に乗る人々。こんなものを見て「人情とはこういうものだ」と思わされているのではないだろうか。

こんな番組があるから、現地の人々は商売というものがどういうものかということを忘れて調子に乗るのだと私は思う。初対面の客に対して馴れ馴れしく話し掛けるというのは、はっきりいって失礼なことである。私は、お客様は神様です、と思えと言っているのではない。これはあくまで人と人との対話の作法の問題である。もちろん、初対面から馴れ馴れしくすることによって、店員と客とがすぐに打ち解けるという効果もあるだろう。しかし、客がどういう人物なのかをよく観察していれば、どういう態度を取れば良いのかがおのずから分かるというものである。

気安いことと人情とを混同している人が多いのは問題である。特に、何も親切にしないのに口だけ馴れ馴れしい店というのは、一体何を考えているのかと思う。

■疎外感

店員と客との仲が良い場面を見かけることがたまにある。そこで私は思うのだが、彼らはほかの客のことを気に掛けているのだろうか。常連と話し込んでいて、他の客のことなど眼中にない店員をたまに見る。商売とは関係ない話をしているときには、絶えず他の客が商売に関する話をしたがっているかどうかを注意するべきである。こちらが何か注文したいのに店員が話しこんでいるとかなり腹が立つ。

腹が立つうちはまだいいかもしれない。そのうち、店が一体感を持ってくるときがある。そうすると、輪の中にいない自分だけが、急に疎外感というべきか、寂しい気分になるときがある。間違っているのは自分だ、もっと自分から店員に親しげに話し掛けなければならないのではないか、などという詰まらない考えが何故かどこからか起こってくる。この輪に加われない自分がおかしいのではないか、と。

■店員とナーナー

カリスマ店員という言葉もあるそうである。裏原宿だかなんだか知らないが、そのあたりにある沢山の小さな店には、それぞれ有名な店員がいたりするらしい。そして、客の間では、彼らと親しくしていることが一つのステータスなのだそうだ。

私は特に懇意にしている店や店員がいないのでよく分からないのだが、自分と親しい店員のいる店に誰かを連れて行くことは、誇らしいことなのかもしれない。特に、親しくなるとこういう良いことがある、あまり知られていない情報を手に入れることができる、ということなのだろうか。

先輩の行きつけの飲み屋に連れて行ってもらったことがあるのだが、この飲み屋はまだ良かった。そこの店員は、その先輩と結構親しくて、先輩はその店員と私たちの知らない話をし続けることもあったが、他の私たちを無視することはない。私たちのいないときにこの店で先輩がどういう感じだったのか、具体的に言えばいつもこの調子で下手な歌を歌いつづけるのだということを説明してくれた。こうやって知り合いの輪を作ることで商売をしているのだろう。しかし事実上、一見さんお断りである。

*

もっと高い店に行けば、本当のサービス、それはやはり本当の人情ではなく人情を装った巧妙なサービスなのだろうが、そこいらの店にはない居心地の良さを感じるのかもしれない。ただ、つまらんものを見せ付けられるぐらいなら、いっそまんべんなく客と親しくならずに応対してほしい。と願う私は非人間的なのだろう。自分の店を持ちたいと思っている人は、少なからずお客さんと仲良くしたいものなのだろうから。


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gomi@din.or.jp