86. ゼノギアスとアニメの系譜 (2000/12/02)


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やっとゼノギアスをクリアした。ゼノギアスとは、プレイステーション用ソフトで、スクウェアから発売されていたサイバネティック RPG を名乗るコンピュータゲームである。このゲームは既に二年前くらいに発売されていたので、もう流行遅れのソフトである。

このゲームの特徴は、従来 RPG というと主人公が剣や魔法や銃とかで戦ったりするのだが、それに加えてロボットに乗って戦うことも出来ることである。独特の世界観がまた魅力的であり、それは後述する。

そして一番大きな特徴というと、時折アニメーションが挿入される点である。本物のアニメーションを使用しているというほかに、このゲームのストーリーやディテールにはアニメの影響がかなり見られる。今回の話はこのあたりがメインである。

私はこのゲームに関してネタバレつまりストーリーからなにから全て語る可能性があるので、もしこのゲームをやりたいというのであれば読むべきではない。ただし、私が思うに、このゲームをいまさらやる価値はハッキリいってない。

■世界観

この世界にはメインとなる大陸がある。このイグニス大陸では、二つの国家が互いの覇権を賭けて戦っていた。二つの国家、キスレプとアヴェのほかに、ニサンという独立した宗教国がある。

この世界の戦争は、古代の地層から発掘されたギアと呼ばれるロボットによって主に行われている。四千年前に滅んだ古代文明の遺産で戦争をしているわけである。このあたりは、どうも「風の谷のナウシカ」などの影響を感じ取れる。特に、ギアを整備するための施設が「工房」と呼ばれているのは、ナウシカの「ペジテの工房」と相似である。もっとも、ナウシカの世界では発掘されるのはほぼエンジンだけであり、船体は自分たちで作っているという違いがある。これら古代文明の技術を管理しているのが「教会」であるというのもまた面白い。現実の歴史でも、中世ヨーロッパでは修道院が知識や知恵を管理し伝えてきた。

大陸以外にも国はある。なかでも、大陸の戦争を裏で操っているソラリスという国があり、どちらかの国が優勢になると他方の国に加勢し、高性能なギアを提供したり実際に部隊を送ったりして、戦いを長引かせている。この国は空に浮かんでおり、文字通り天上から大陸を支配している。

天上にはもう一つの国がある。シェバトと呼ばれる都市国家で、この国は五百年前には地上にあったが、ソラリスとの戦いに敗れ、バリアを張って天上に逃れ、世界から忘れられたまま天空をさまよっている。この国の描かれ方は、なにやら「天空の城ラピュタ」を想像させるものがある。この国はラピュタと違っていまだ人々が住んではいるのだが、人々は世の中との接触を避けて、貧しくおとなしく暮らしている。

他に、巨大なサルベージ船自体が町のようになっているタムズという集まりがある。この船の船長の顔のグラフィックスも人格もなにやらアニメっぽい。

ゼノギアスの世界観は非常に素晴らしいと私は思う。

■登場人物

主人公はフェイと呼ばれる。フルネームはウォン・フェイフォンだから、確実に中国名である。髪を後ろに束ねているのは、とある映画での金城武と似ている。この主人公は何度か転生しており、五百年前はラカンという名前で、四千年前はキムという名前だった。キムは韓国人の代表的な苗字である。

ヒロインはエリィと呼ばれる。正式な名前はエレハイムであり、これは明らかにドイツ風の名前である。このヒロインの顔や髪の色には、あからさまに「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメのヒロインの一人アスカにそっくりである。アスカはドイツ人とのハーフであり、恐らくこのゲームの作者はアニメの作者に敬意を払って同じドイツ名にしたのだろう。性格は、序盤には著しい類似があったが、中盤以降は母性的な性格となる。

主人公をサポートする年長者にして先生と呼ばれるシタンという人物が出てくる。この先生は、日本名を持つ数少ない人物である。これは私の想像であるが、この人物の容姿や性格には、少女漫画とりわけ CLAMP 系の傾向が見られる。一言で言えば「理想の兄」といったところだろうか。

ほかに登場人物として、眼帯をつけた若き海賊にして追い出された王子であるバルド、半獣で闘技場の王者リコ・バンデラス、銃を持った聖職者ビリー、ぬいぐるみのような種族のチュチュ、お人形のような少女のマリア、いずれもアニメ的な影響を感じる。特にナノマシン群体であるエメラダは、人造人間という意味では「新世紀エヴァンゲリオン」の綾波レイのようであり、性格の子供っぽさはまた別のアニメの影響も感じる。

キャラクターの魅力はそれほどないが、パクリのようなものはなく、十分なオリジナリティのある設定には感心する。問題があるのはむしろ脚色・演出であるように私は思う。

■脚色・演出

私はこのゲームの筋書きには感心しているのであるが、脚色と演出にはたびたび失望させられた。キャラクター設定も良く、ストーリー展開も良いのに、物語に入りこむことが出来なかったのは、劣悪なアニメ的演出である。

ゲームの序盤にいきなり主人公の村が襲われ、多くの村人が死んでしまう。主人公が村を守るためにギアに乗ってロボット同士で戦闘して、その結果村が巻き込まれてしまうのである。主人公は村を守るために仕方なく戦ったのに、守ろうとした村人に非難される。このあたりの不条理の描写がとても下手である。いきなり主人公の親友たちや彼の婚約者が死んでしまうのはよくない。リアルなストーリーを目指そうとして失敗した跡がありありとうかがえる。

その後、主人公は失意と共に村を出て行き、途中で偶然エリィと出会う。自分を責める主人公、そしてエリィもまた別の理由で自分を責めており、二人の自己嫌悪がシンクロして二人は衝突して行き違いになり、そのまま一旦別れてしまう。

「新世紀エヴァンゲリオン」の製作者の一人でオタキングと呼ばれる岡田斗司夫は、このアニメの成功の理由として「登場人物が悩みを抱えていることが今の子供たちには新鮮だったのではないか」と語っている。悩みといえば、このアニメに始まったことではなく、他のアニメでも登場人物はそれぞれ悩みを抱えていたりすることはあったのだが、このアニメではほとんど全ての登場人物の悩みを深くしつこく描いたことが画期的だったと私は思う。

そしてゼノギアスもまたこのアニメを習ったのではないだろうか。しかし、主人公やエリィの悩みは全くこちらに伝わってこない。中途半端に挿入されるアニメシーンがますますプレイヤーをしらけさせる。限られた時間で限られたメッセージとグラフィックスでは、主人公たちの悩みがこちらに伝わってこないのだ。おそらくゼノギアスの脚本家は「悩める主人公」というものを記号化しすぎてしまったのだ。こういう台詞を、こういう独白をすれば悩んでいることがプレイヤーに分かるだろう、と安易に判断しすぎてしまったのではないだろうか。

「新世紀エヴァンゲリオン」では、主人公シンジとその父親との物語でもある。このアニメは、さらにその前の「機動戦士ガンダム」で描かれる主人公アムロとその父親との物語を参考にしていると思われる。アニメに限らず、父と子の物語は小説の一つのパターンとも呼べるものであり、これまでに幾多の物語で描かれ尽くされたパターンだと言えよう。「機動戦士ガンダム」では、私はよく覚えていないのだが、ガンダムに乗っている息子のために自分の発明したヘンな機械をガンダムに取り付けようとする父親が出てくる。その機械がまたローファイなもので、そんなものが何の役にも立たないことを息子は父親に強く主張し断絶する。一方「新世紀エヴァンゲリオン」では、息子にしか乗れないロボットに息子に乗るように命令したり乗らないならどこかへ行ってしまえと突き放す父親が出てくる。どちらも、父と子のリアルな側面を描いているように思えるが、父と子の話だけで物語が完結するわけではないので、微妙なバランスの上で物語全体の中の一つのエピソードとして成り立っているに過ぎない。

ゼノギアスにもまた、いくつかの父と子の物語が出てくる。しかし、このゲームの脚本家はどうもこのバランスというものがよく分かっていないのか、それとも物語というものの造形が出来ないのか、非常に安易なエピソードしか描かれていない。私に言わせれば、無いほうがマシとも言えるほど粗悪な挿話である。とってつけたように子の目の前で子をかばって殉死していく親たち、「親として」という言葉をつけて子供とのつながりを伝えようとする親のあまりに安易な描かれよう、そしてそれを分かった風に振舞う子供たち。確かに、ゲームの中で物語を成り立たせるのは難しいことなのかもしれない。しかし、出来ないならやるなと私は言いたい。または出来る範囲でまずやるべきなのだ。

■キャラクター絡みの悪演出

私は前項で、キャラクターの設定に関しては良い、と言った。しかし、脚色上作られたいくつかの人物に関しては、最低としか言いようのないものが多い。

まずその代表格がグラーフである。彼は覆面をかぶっており、力を求めてさまよう男なのであるが、物語が進むにつれてその存在理由が分からなくなり、最後には「誰々の人格の憎悪の部分が独立してしまったもの」と正体があかされて片付けられておしまいである。序盤中盤での存在感はなんだったのかわからない。まさに、アニメ的演出のためだけに登場していた人物である。

ガゼル法院と呼ばれる元老院のような議決機関がソラリスにはあるのだが、その会議を構成する 12人の老人たち、私は最初に彼らを見たときには、ああこれは完全に「エヴァンゲリオン」に出てくるなんたら機関のパクリだなと思った。「エヴァンゲリオン」に出てくる元ネタの人物たちは、いかにも物語が深遠なものであるかのように見せかけるためにわざと難解で意味深な言葉をつむぎ合うだけの存在で、次々と起こる出来事に対して「予見されていたことだ」とか「なになにしなければ」などともっともらしく言うだけの全く意味のない人々である。それに比べると、ゼノギアスのガゼル法院はまだ意味のあることを言っており、物語が破綻するようなことがない分だけはるかにマシなのであるが、全てが自分たちの予想の範囲内である、というようなアニメ的演出のためにのみ存在しているとしか思えない。

さらにガゼル法院の上には天帝カインという王がいるのだが、この王も物語の所々に側近とダイアローグするのだが、物語を彩る単なる演出であり何の意味もないまま殺されておしまいであった。

そして究極的には、一番の極悪人で人体実験を繰り返していたソラリスのカレルレンが、物語の最後で実は主人公の前世の親友であったことが分かり、よくわからないうちにエンディングではなごやかな雰囲気のまま終わってしまった。しかもこのカレルレンは、序盤中盤には全く出てこない人物なので、なにやら「とってつけた」感が強い。

中盤まで主人公の前に圧倒的な権力をもって立ちふさがったソラリスの司令官は、途中で精神薄弱に描かれ始め、ついにはガゼル法院から「塵」と呼ばれるようになった。この司令官はカインのクローンとして作られたが、途中で不要になりダストシュートに捨てられて、そこから這い上がって司令官になったという設定らしい。この設定と演出もまた中途半端であり、ゲームに盛りきれないのなら中途半端なことはせずにバッサリと切り捨てるべきだったと私は思う。

これまた中盤まで物語に大きな影響をもっていた、国を乗っ取った悪宰相シャーカーンも、物語が終盤になると何の存在感もないまま主人公たちによって国を奪回されて、いつのまにかいなくなってしまった。

しかし脚色・演出で私が気に入ったものもあった。それは、亜人で商売の才能のあるハマーが、最後の最後に主人公たちの持つ力に憧れ妬み、主人公たちを裏切ってカレルレンに人体改造を施されて強くなって主人公の前に立ちはだかる、という展開である。強いものに憧れて道を踏み外す、ということに私が深い共感を持っていたのでたまたま私はこの展開を素晴らしいと思っただけかもしれない。だから私以外の多くの人は、この展開にしらけて「なんて馬鹿なヤツなんだろう」と思ったかもしれないし、あるいは不自然な演出にあきれていたかもしれない。

細かい人物・演出では、巨艦大砲主義のソラリスの提督がいて、主人公たちのギアに襲われたときに機関銃ではなくわざわざ戦艦の主砲で迎撃しようとしてボコボコにされるというのはなかなか面白い演出だった。しかもその前に伏線として、主人公たち忍び込んだ王宮の中にこの提督の部屋があって、その部屋には大きな大砲が展示されているのも面白かった。

■優れたSF

私がこのゲームでもっとも優れていると思ったのは、バックボーンに見事な SF 作品が置かれているからである。SF 好きな友人にこのゲームのストーリーを紹介したところ、彼もまたこのゲームのストーリーが優れた SF であることを認めた。

ちなみに、頑固な SF ファンは、SF のことをサイエンス・フィクションの略だと思われることに不快感を感じるようである。彼らに言わせれば、SF とはセンス・オブ・ワンダーを意味する言葉らしい。どこに F があるのか知らないが。

とにかく、私はこの場所で、ゼノギアスの主なストーリーを大体説明してしまうことにする。そこで、もういまさら言うまでもないのだが、これからプレイして驚きたい人は、以下の説明を読まない方が良い。

*

舞台となる星があって、その外から来た文明の人々が、最強の星間戦略兵器デウスというものを作った。それでその兵器を、とある惑星まで運んでいき、組み立ててスイッチを入れた。しかし、トラブルが発生したので、またその兵器を分解して宇宙船で運び、検査することにした。ところが運んでいる最中に、部品が勝手に動き出して暴れてしまい、輸送船は近くの星に墜落してしまった。
その暴走した部品は、墜落により壊れてしまったかに思われた。しかし、自動再生機能によって再生しようする。その部品は、再生に必要な部品のコアとして、エリィという女性型の人間を作った。それと、宇宙船のクルーの生き残りのアベルという男が一人だけいた。この二人が何人かの子供を生んだ。一人がカインで、ほかに十二人だか十三人の子供がいる。
そうやって生まれたこの星の人類は、次第に子孫を増やしていった。この星の人類は、自らの意志で繁栄しようとしているのではなく、あくまでも星間戦略兵器デウスを再生するために繁栄しようとしているのだ。
デウス再生のための遺伝子が埋め込まれた人類は、再生に必要な量の「部品」が集まるように導かれる。中でも、部品のコアとして生まれたエリィとミァンという女性型の人格が、デウス再生への司令塔の役割を果たす。エリィという人格はただ人類の繁栄だけを目的とし、ミァンという人格は人類の繁栄がデウス再生へと方向づけられるよう動く。エリィやミァンという人格は、ある種の輪廻転生をする。この星の全ての女性には、エリィやミァンになる気質を持っていて、それぞれ一人ずつしかいないエリィかミァンが死ぬと、また別の誰かがエリィやミァンとして覚醒するようになっている。こうして必ずエリィとミァンが一人ずつ存在し、両方が互いに補完しあうことで、デウスの再生へ向かっていくのである。
ついにこの星の人類は、ナノテクノロジーまで身につけ、豊かな文明を築きあげた。しかしこの人類には決定的な弱点があった。寿命が短く、生殖能力が低いのだ。文明は成熟しており、劣等な遺伝子も保護されるようになり、もはや人類は遺伝子の弱体化をとめられない。これではデウスが再生できないので、ミァンはこの文明を滅亡へと導いた。これが古代ゼボイム文明としてこの世界で知られるものである。
それから約四千年後、ようやく人々は新たな文明を築くことが出来た。一旦滅亡したあとの人類は、過酷な環境を生き残ったため、再び遺伝子は元の強さを取り戻した。人々は、失われた古代文明の遺産を元に、再び高度な文明を築いた。しかしそのとき、世界は大きく三つの国に分裂し争っていた。一つは、エリィとアダムの生んだカインが天帝として君臨し、残りの十二人が元老として支配するソラリスである。この国はミァンによって操られており、強大な軍事力を背景として、他の二つの国を圧倒している。もう一つが力はないがエリィのいる宗教国ニサンであり、残りがソラリスからの独立を勝ち取ろうと集まった人々で構成されたシェバトであり、多少の力を持つ。
この三つの国が、ゲームの始まる時代より遡ること五百年前に大きな戦争を起こす。戦いは結局ソラリスが勝利を収め、その後の五百年間はソラリスが天上から地上の国々を治める時代となった。しかしその大きな戦争はあらゆる方面にインパクトをもたらした。まず、戦争の末期にソラリスにいたミァンは政敵の罠にかかってシェバトに引き渡された。ニサンの聖母となっていたエリィは、シェバトとソラリスとの密約によってソラリスへと引き渡されようとする前に、多くの人々を助けるために自ら戦艦で敵戦艦に突撃して死んでしまう。…このあたりの話は物語の根幹と比べると枝葉なので省略する。
はっきり言ってしまうと、この星の人類は二つに大きく分かれていったわけである。一つは、純粋に繁栄しようとするエリィに導かれる。一つは、デウスの部品となるためにミァンに導かれる。そこへ、移民船の生き残りであるアベルの生まれ変わりたちが絡んでくる。彼は外宇宙から来た存在ではあるけれど純粋な人間であり、当然ミァンではなくエリィと接近する。この二人は、何世代にも渡ってずっと恋人同士だったという設定で、堅苦しい SF 世界に愛を持ち込んでいる。
この星の戦争は、デウスの制御を保とうとする勢力と、デウスから人類を解き放とうとする勢力との争いなのだ。
デウスの制御を保つための人格は、純粋にはミァンだけなのだが、そこにエリィとアベルとの間に生まれた天帝カイン以外のソラリスの元老たちが絡んでくる。彼らは神になりたいのだ。しかし彼らは幾たびもの戦争によって肉体を失っており、自分たちはデウスとの同一化を果たすことが出来ない。彼らはデータバンク上のデータとして存在しつづけているのだ。そこで、自分たちにとって理想の肉体を作るために、地上から人をかっさらってきて人体実験をする。人体組織を元に新たな生き物を作り、データを集め、合成し、抽出し、理想の媒体を作ろうとする。
そしてついに時が来る。元老たちは、自分たちのための肉体が完成し、この星の上に十分な人類が繁栄しており、デウス復活の時が来たと判断した。引き金は引かれ、この星の上に生きるかなりの人々は、突然自らの体組織が崩れ始め、徐々にデウスの部品としての有機体に変化していく。この世は阿鼻叫喚となった。
しかし、デウスの部品とはならなかった人々も少なくなかった。彼らは変異により、デウスからの独立を果たした人類なのである。主人公たちもまた、変異を免れた。彼らは協力して、ナノテクノロジーを駆使して、デウスの部品へ変化しようとする人々を救済に乗り出した。多くの人がデウスの部品となってしまったが、それでも多くの人を助けることが出来た。
部品が集まったことによりデウスは復活し、この星自体に自らの根をはりはじめた。テラフォーミングつまり星全体を兵器化しようとしているのである。そこへ主人公たちが最後の戦いを挑んで勝利してめでたしめでたし。デウスのくびきを逃れた人類は多分これからこの星で独立した存在として繁栄していくことになる。

*

多分この作品は、エヴァンゲリオンの他に、Bastard! というマンガの影響を受けているように思える。Bastard! のストーリーは、最初のうちは単なるファンタジーものなのだが、途中から黙示録編という章に入り、神を相手に戦わなければならない人類を描く。

聖書の中の黙示録ってのは不可解な記述が多すぎるらしい。人間は、神が自分たちを救済してくれると思っている。しかし、そもそも神とはなんなのだろう、と来るわけだ。神による救済の時が近づくかに見えたとき、神の本当の姿に人類が絶望する。とまあそんな物語である。Bastard! の場合、天上から神の軍団として天使の大集団が地上に降りてきて、地球上を破壊し人々を抹殺する。死こそが人々に対する救済なのだ。

エヴァンゲリオンの場合、ストーリーが破綻しているので良く分からないが、ワケのわからない兵器が次から次へと襲ってくる。迎え撃つ秘密組織ネルフはなぜかそれらの敵兵器に天使の名を冠している。彼らは、なぜそのようなワケのわからない兵器に襲われるのかを知っているみたいで、ある筋書きに沿って現実を持っていこうとしているのが描かれるわけなのだが、実際のところその筋書きがどんなものなのかが結局まったく放棄されて終わってしまった。なんだか知らないうちに地球が救われる。

これらの三作品に共通するのは、神や天使を、人類の敵として描いていることである。無神論者の多い日本でしかこんな物語は生まれないのではないだろうか。実際、アメリカではスクウェア本体はこのゲームの発売を見合わせたほどである。どうやら結局現地の代理店がこのゲームを発売したようなのだが、レビューの段階で編集者が「このゲームは人間が宗教を必要とするのかどうかという根源的な問題を扱っていることに問題があるのではないか」と言っていた。

しかしゼノギアスの場合、デウスではない本当の神も描いている。デウスは、兵器なのだから、動力源がある。デウスの動力源は、事象変異機関とかいうものらしい。こいつはほぼ永久機関と呼べるものみたいで、なんでも「いくつか存在する可能性の中から特定のものを選ぶことによりポテンシャルエネルギーを取り出す」などという言葉遊びのような仕組みを持っており、要は熱力学のエントロピーの法則をねじまげてエネルギーを取り出すみたいなものなのだろう。50度のお湯を 0度の氷水と 100度の水蒸気に分離できたらエネルギーが取り出せるのと同じである。

それで、デウスのこの動力源は、エネルギーを波動として他の部分へ供給している。このエネルギーは星の上ではどこででも受け取ることが出来る。ギア(ロボット)はこのエネルギーを受け取って動くことが出来て、人間の中で才能のある人はこのエネルギーを直接自分で受け取って魔法を使うことが出来る。

ところがこの動力源があまりに高い波動を出すために、より高い次元に存在する高い次元波動を持った存在を引き付け、この星の四次元空間に縛り付けられてしまう。この存在がゼノギアスでの本当の「神」ということになっている。この神は、自らを縛りつけるデウスの波動をなくすために、主人公に対して自分のエネルギーを与えて具象化し、強力な力を持つギアで作品名でもあるゼノギアスというロボットを主人公に与えるのである。

■政治性の系譜

このゲームで他に特徴的なのは、政治的な要素をバックグラウンドにふんだんに取り入れているところである。国家元首が国民に演説するシーンや、国を追い出された王子が国を取り戻そうとするときの設定、多国間の複雑な関係や、国内の互いに敵対する勢力と他国とのつながりなどである。

日本人には国際的な情勢とか政治とかを日常的に話すような人々はあまりいない。しかし、なぜかマンガやアニメにはこのような国際関係的な要素を盛り込んだものが少なくない。

まず思い出されるのは、ガンダムである。ガンダムとはロボットアニメの代名詞のようなものなのだが、ガンダム以前のアニメの勧善懲悪で単純なストーリーのアニメとは比較にならない複雑なバックグラウンドを持っている。たとえば、本来ならば「悪の組織」でありナチスのように描かれているジオンは、地球に支配されていたスペースコロニーが自由と独立を求めて立ち上がったことになっている。まあしかしその後のジオンは、独裁を望むザビ家の人々にのっとられていってしまう。しかし、これさえなければ、主人公たちの地球連邦というのは、まるでアメリカの独立を阻止しようとしたイギリスが勝ったかのような結末を迎えて終わるのである。

さらに複雑なのは、最初のガンダムシリーズの次に放映されたZガンダムである。私は最初、なにがなんだか分からなかった。最初のガンダムでジオンとの戦いに勝利した地球連邦が、ジオン掃討のために作ったティターンズといういわば GHQ のような組織が膨張しはじめ、それに対抗するためにレジスタンスのような形でエゥーゴという組織が裏で動き出し、主人公はこのエゥーゴでロボットのパイロットとして戦うことになる。地球連邦は地球連邦でまた独自の動きがあり、またエゥーゴの他に協力組織としてカラバというものがある。抗争も、軍事的なものの他に、会議での演説によって世論の支持を得ようとしたり、資金源となっているスポンサーとの連絡をとったりなど、素人目にはかなりリアルである。

おそらく現在のアニメやマンガの政治性は、ガンダムの影響をかなり受けていると私は思う。しかし、ガンダムが突然生まれたと考えるのは早計である。ガンダムに影響を及ぼしたのはおそらくマンガのエリア88ではないだろうか。エリア88は、親友にだまされて外人部隊に入れられてしまった主人公が戦闘機で中東某国の内戦に巻き込まれるという話である。ポイントは二つある。登場人物のほとんどが戦闘機乗りであり、戦闘機同士の戦闘はロボット同士の戦闘と極めて似ている。戦闘に愛憎があるところなんかは、確実にガンダムに影響を与えたのではないだろうか。外人部隊なので世界各国から個性的な人間が集まる。主要な登場人物もバタバタ死んでいく。また、内戦を単なるシチュエーションではなく政治的に扱ったという点も大きい。死の商人の暗躍、資金ルート、王国の王族同士の争い、愛国心で無茶な戦いをする若い兵士たち。死の商人たちの行う新兵器実験で出てくる魅力的(?)な兵器、次々と各国の戦闘機に乗り換えていく主人公、ボロい戦闘機から最新鋭の戦闘機まで、メカの醍醐味を十二分に引き出している。ゼノギアスには潜砂艦が出てくるが、エリア88には砂漠空母が出てくる。

まあこれらは私の想像なのでなんとも言えないし、エリア88以前をさかのぼることは私には不可能である。

■結論

随分長いこと書いたが、なんというか、やはりこの作品は駄作なのではないかと結論せざるをえない。というのは、SF 作品としてはかなり優れているとは思うが、いかんせん物語性が腐っている。恋愛ドラマもうまく描けていないし、人々のドラマも小さくまとまりすぎて、安易に人を殺したり肉親の情を描きすぎたりする。ゲーム的にも一本道で自由度がなくて窮屈だった。というわけで、私は他人にこのゲームを絶対に勧めないし、だからこそ SF 部分のストーリーだけでも楽しんでいただこうと思ったわけである。

ただし、このゲームをリニューアルして出すべきだという声もある。このゲームのひどいところは、製作時間が足りなかったせいか、終盤にオートイベントと呼ばれる、ストーリー説明とボス対決がただ交互に繰り返されるのである。物語の展開にも無理はなく、ボスキャラもなかなか作りこまれていて、きちんと作られていたらクライマックスまで盛り上がっていただろう。しかし、私にこのゲームを貸してくれた N君は、ここまで来てこれ以上やる気が失せてやめてしまったようである。

一方で、リニューアルするよりも新しく二作目を作るべきだ、という声も聞かれた。それはそうだろう。一度遊んだゲームがリニューアルされたからといって、よほどの名作でない限り再びプレイしたいとは思わないものである。私も、あるとすれば二作目を期待したいと思う。

海外でもスクウェアの人気が高い。全フォーラムの半分くらいがスクウェアの話題で埋められている。また、賛否両論があるところは日本と同じである。


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gomi@din.or.jp