80. 学歴のどこが悪い (2000/9/30)


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■偏差値教育のどこが悪い

偏差値教育はよくないと言われる。相対評価ではなく、生徒一人一人がどれだけがんばったかを絶対評価すべきだとも言われる。ならば、体育会とかさらには記録会(遊びの要素のない運動会みたいなもの)の存在はどうなるのだろうか。運動能力の優劣や成績が周知されるのであるから、学力でいえばテスト結果の順位が全員分公表されるのと同じである。体育の時間中に 100m 走や走り幅跳びの成績を測るのも、小テストのたびに全員の点数が公表されるのと同じである。なぜ、学力テストはせいぜいが上位者だけしか公表されないにも関わらず、運動能力に関しては少なくとも全員分の成績が全クラスに公表されているのだろうか。

少し前になって、運動会で徒競走の順位をつけるのをやめよう、みたいな風潮が出てきていることが多少広く知られた。その風潮を紹介する記事は、だいたいがその風潮を大なり小なり否定的に捉えていた。私も同感である。しかし、では定期テストの点数を全員分公開する、といったことはこれまでにほとんど見られていないのではないだろうか。ただし私立の学校はひょっとしたらほとんどが行っているかもしれない。学力の順位づけだけが否定的に捉えられ、運動能力の順位づけが肯定的に捉えられるのはなぜだろうか。

大人になってからの所得格差(人によってどのくらい稼ぐかどうか)に学力が大きく影響するからだろうか。社会的弱者つまり学力の低い人に配慮しているとでもいうことなのだろうか。

ともかく、私のように運動能力よりも学力の方が長じていた人間にとっては、運動能力に秀でたものがその能力を見せる場所があるがゆえに自尊心を持っているのを横目に、学力は見せる場所がなければ見せるべきものでもないので、ごくたまにテスト結果が公開されるときだけに申し訳なさそうに自分の自尊心を満たすしかなかった…、と言えば言いすぎなので割り引いて受け取って欲しい。

■出身大学を自慢してどこが悪い

つまりこういうことである。自分の出身大学を自慢げに語る人がいても、どうか暖かく見て欲しい。彼からすれば、それが 100m を何秒で走れるのだという自慢と変わらないのだから。大っぴらに自慢するだけの度胸のない人なんかは、さりげなく相手に自分の学歴を知らせようとするのだが、それも屈折してしまった自尊心のアピールなのだ。私なんかはさらに屈折していて、自慢のしにくい非常に微妙な大学を出ているのでさらにアピールに苦労する。

私は、学歴という要素は一人の人間を判断する上で実のところ大してアテになるものではないと思ってはいる。しかし、統計的に見て学歴の高い人間が結局のところ社会人として概して優秀だとか、だからこそ企業は学歴を参考にするのだということは認める。

■東大卒のどこが悪い

最近私が見たホームページの中で、官僚とくに東大卒のキャリア官僚を批評したものがあった。私はそれを見て、非常に納得のいく個所が一つあったものの、残りは感情論で埋め尽くされていたように思えてげんなりした。私は東大卒ではなく、東大卒の人間が近くにいたとすると彼に対して特別な目を向けざるをえないだろうが、先のホームページの作者は何を根拠にここまで言い切れるのかと思った。

私が東大生批判で非常に納得のいくなと思った個所はこういう点である。テストには必ず答えがある。テストの出題者がどのように答えてほしいのかを常に考えて答えを書くよう鍛えられた人間だけが東大に行ける。だから、答えの決まっていない現実問題を解く能力に関係なく彼らが日本の進むべき方向を決めている。とまあこんな感じである。しかしこの個所にも突っ込むべき余地がありそうである。東大の入試問題はどうやら他の大学とは異なるらしい。が、私は東大の入試問題を見たことがないのでここでは踏み込まない(見ようと思えば本屋に行けばすぐ見れる)。

私が東大に限らずテストを批判するとしたら、テストは概して記憶力と直感がモノを言うのに対して、現実問題はあらゆる可能性を考えたり外堀から埋めていったり行動を積み重ねていったりすることが要求されるように思う。だから、「訪問販売員が販売実績を上げるにはどうすればよいか」というような問題がテストで出題できれば良いかもしれないが、それは実際には不可能である。なぜなら、一つの回答が何点に値するのかを調べるには、実際に訪問販売員になって売り込みをしてみないと分からないからである。

敢えて私はここでタブーを犯すと、高卒の人間と東大卒の人間とを比較すると、概して東大卒の方がずっと優秀である。なぜなら、私がここで比べられているのは、学歴しか素性の分からない二人の人間だからである。高卒の方が運動能力はありそうだとか、人を思いやることが出来そうだとか、そういった憶測を一切排した比較を行っているのである。人々は、東大卒で運動も出来て人を思いやることも出来る人間を認めたがらないものである。そんな人間に出会ったら、東大卒ならば何か弱点があるはずだと思い、その弱点を見つけて安心するしかないのが実際のところではないだろうか。

オウムに入信した学生の多くが一流大学卒だという話を聞いて、多くの人々は何かしらの安堵をしたのではないだろうか。しかし私は言い切るのだが、東大卒の人間にいかに異常な人間が多いとしてもせいぜい平均の二倍は超えないはずである。…あるいは二倍以上いるかもしれないが、絶対数からすればそんなに多くはないはずである。

あえてまたタブーを犯すならば、学力的に三流の人間の集まる大学(ある大学が一流とか二流とか判断するのは難しいが少なくとも入学する学生の学力の程度については判断が出来る)の方が、官僚になったら統計的に汚職をする可能性が高いと私は思う。

■三流大学のどこが悪い

頭が良いのに学力のない人は、多分どちらかといえば不幸である。

社会にどれだけ貢献できるのか、ということを人間の第一の判断基準にすれば、そんな基準では学力の高さで測れないどころか、頭の良し悪しでも測れない。そもそも何をもって頭が良いのかが分からないし、測る物差しもない。でも、頭の良い人は絶対にどこかで得をしているのだから、そう嘆くことでもない。逆に言えば、得をしていない人が、頭が良い人であるはずがあろうか? 実学ではなく教養というものは、実際のところ何の役にも立たないように思えるかもしれないが、教養こそ本当は役に立つもののはずである。

もう少し擁護することにしよう。

多分学力というのは、それほど高等なものではない。ひたすら机に向かって問題集を解いていくことが出来れば身につくものである。大抵の人間は飽きるだろう。それが当たり前なのだ。飽きる、というのは立派に人間の能力であると言われる。小さい頃に折り紙を教わったとする。それ以来自分の人生のほとんどを、飽きることなく折り紙に費やした人がいたとしたら、恐らくその人は尊敬されるだろう。しかし、人々はそんな人を尊敬こそすれ、決して自分がそうなりたいとは思いはしないだろう。飽きるからこそ、新しい世界が開けてくるのだ。かといって飽きっぽい人間が良いわけではない。飽きたら必ず次のものを見つけられることが重要である。

それに、高校への進学率はもはや日本では 99%くらいなのだが、大学への進学率は確か四分の一くらいだった気がする。どんなに程度の低い大学でさえ、大学に入れただけで、平均的な人よりも学力があるのだ。

■大学卒でなくてどこが悪い

大学に行く必要もない。大学は、大抵の人にとっては、就職のためと遊ぶために存在する。就職できて遊べて、なおかつ大学よりも利点が多いのならば、大学以外の選択肢の方が良いに決まっている。

しかし実際のところ、私という個人に関して言えば、やはり大学に行って正解だったと思っている。というのは、ほとんどの人は、自分と大なり小なり気の合う人としか付き合えないものである。気の合う人というのは、なぜが学力によりある程度決まってしまうように思える。気の合う仲間がいたらそれが何よりである。

が、一部の人は「自分はこんなところでこんな連中と一緒にいるべきではない」と思ってたりする。それは屈折した感情かもしれないが、アイデンティティを高く持つことは非常に良いことである。自分はこの程度の人間だと思っている人間が、大成することはないのである。

■メリトクラシー私論

とまあ余計なことまでベラベラと語ってしまったが、私が言いたいのは実は一点だけである。スポーツの出来る人はそれを自慢できるが、学力のある人がそれを自慢すべきではないとされるのはおかしい。そんな風潮になっているから、学歴のある人は屈折してしまい、学歴の高い奴が一番偉いのだと思い込んだり、逆に自分の学歴をおおやけにしないことを美徳とするような、屈折した感情を持ったりするのである。

私がこの文章を書こうと思った動機は、週刊文春の確か書評欄で、学歴に振り回される自分を告白した文章に出会ったからである。はっきり言って私も、相手の学歴が自分よりも低いと安心するし、逆に高いと少なくとも何かしらの対抗意識が奥の方で芽生えてくるのを感じる。書評子は確かこんなことを言っていた。人間ははっきりした上下関係を求めたがり、現代では学歴が都合がよいのでたまたま学歴で上下関係を決めたがる傾向にある、らしい。

インドのカースト制、イギリスの根強い階級構造、日本では学歴の他に部落差別や在日差別など、人間の基本的な性質だと言って解決した気になるのは情けない話である。しかしこと学歴に関して言えば、それはれっきとした能力であり、社会的分業の効率的なシステムであり、もともと否定されるべきものでもなければ、むしろもっとオープンになっても良いものである。学歴と学歴差別は違う。

ただ、教師や役人など、学力で選ぶことが不適当であるものもある。少なくとも創造的な仕事に就く人間を学力で選んではならない。

■漫画やテレビでの扱われ方

前回の「孤児もの」で取り扱った漫画、小花美穂「こどものおもちゃ」で、小学生ながら不良少年の羽山は、クラスで二番目に学力が高いという設定になっていた。多分この設定は、不良少年だけどワケありだという味付けに過ぎないと私は思う。多分学力以外に、悪いことをするグレた少年を弁解するような伏線を張れなかったからだろう。羽山という人物は、子供や動物にやさしくする、という設定が出来ないキャラクターであったことが大きい。

この漫画の作者は、中学生までは勉強が出来て優等生だったと語っている。しかしその後いじめにあって、別にそれが直接的な理由というわけではないだろうが、中学三年くらいからアホに目覚めたらしく、それ以後はあまり真面目ではない友人との付き合いが多いようである。パチンコ店の住み込み店員をしていたこともあると語っていることから、学力はある程度想像できる。アホに目覚めてからの人生の方が愉快だそうである。

少なくともいえるのは、学力という能力は、物語ではほとんど味付け程度にしか使われないことが多い。

テレビは学力の高い人間をほとんど称えないどころか、むしろ学力の高い人間に対する批判の方が多い、みたいなことを前に私は言った。私の考えに大きな変わりはないが、面白い兆候も見られた。PTA が選ぶ子供に見せたくない番組ナンバーワンに輝いたこともあるらしいフジテレビの「めちゃめちゃイケてる」という番組で、もう随分たってしまったが以前「抜き打ちテスト」という回があって、学力の高い出演者は誰かと順位付けして見せたののである。しかしこの程度が限界だろう。これ以上やると嫌味になる。このタレントは普段は馬鹿やっていますけど実はそこそこ頭がいいんですよ、までがせいぜいであることを逆に示した。

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本来私はこのような学歴の話を、自分の出身大学の歴史についての話のまえがきのような形で簡略にまとめるつもりだったが、予定が狂って一回分の量になってしまったので独立させることにした。そのせいもあって、中途半端な文章になってしまったことは悔やまれる。能力に順列をつけることの是非についてほとんど触れなかったし、学歴にこだわる人間の心理を深く追求することもしなかった。テレビや漫画や小説での学歴の扱われ方についても、もっと考察すると面白かったかもしれない。


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gomi@din.or.jp