76. 「女性」というタブー (2000/9/9)


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■アダルトな店に平気で入る小中学生

少し前の話になるが、私が秋葉原を歩いていると、所々にアダルト系の店が見つかる。中でも、やはり秋葉原ということもあり、美少女系パソコンゲーム専門店がいくつかあるのが目を引く。

私は基本的に、この手のゲームは「割に合わない」という理由でやらないことにしている。というのは、ゲームの内容の割には値段が高すぎると思うからである。しかし、あらゆるゲームに名作と駄作がある以上、アダルト系のゲームにも名作があって、名作だけを選んでプレイすると面白くて興奮できるのではないかと思う。しかしこの手のゲームに深く入り込んでいる人が身近にいないので、情報が得られないのである。

と話はズレてしまったが、私を何より驚かせたのは、この手の専門店に小中学生と見られる何人かの子供連れが、何の臆面もなくうろついていることである。彼らの特徴としては、一人ではあまり見かけず、必ず仲間連れだという点と、さも当たり前のように店に入ってきては出て行くことである。

私は彼らを小中学生と見たが、実際には童顔の高校三年生なのかもしれない。この手の店は本来ならば 18歳未満の入店を断らなくてはならないのだろうが、高校三年生の半分は 18歳だから問題ない。にしても、さすがに童顔に過ぎる者もいて、いかに私と言えども十人近くいる人間の全てを見誤ることはないだろう。

■性に関する二つのタブー

「タブー」という言葉がある。社会的に、触れてはいけないものをさす言葉である。ある社会に決められたルールにタブーがあることもあれば、タブーという言葉の意味が広義に解釈され、社会と呼べないほどの連帯や個々人の中で触れてはいけないと律しているものをさすようにもなっている。

18禁という言葉があるように、我々の社会では、18歳未満の成員に対して性に関する商品をタブーにしている。詳しい理由は私は知らないのだが、確か 18歳未満だと性に対して間違った知識を得てしまうからだと言われているのだったと思う。

このあたりのことまでは、我々も普通に感じることが出来る。しかし私には、18歳未満の成員に対して定めてあるタブー以外にも、もっと根深いタブーを持っているように思う。それが「女性」に関するタブーである。

■就職活動に見るタブー

私の弟は今年就職活動を行って無事に終わったのであるが、彼は私にとってあらためて衝撃的なことを証言した。彼が言うには、自分の周りを見てみると「女性は外見の良さに比例して大企業から内定をもらう」そうである。

タレントやアナウンサーなら分かる。彼女らは、外見も売り物にしているからである。外見の悪い人間がこれらの職場に入れないのは差別でもなんでもない。体力のない人間が肉体労働から締め出されるのと同じであり、頭の悪い人間が頭脳労働から締め出されるのと同じである。

客商売や受付嬢や秘書というのも一応何歩か譲って納得できる。彼女らには、外見以前に気配りなどが求められ、恐らく頭も良くなくてはやっていけないと思う。しかし、気配りや頭なら訓練できても、外見はなかなか訓練できるものではない。となると、採用時には能力よりも外見で選ばれるのも納得できる。

総務系だとどうだろうか。これに関しては、大企業が外見の良い人間を採ることの合理性を説明できるだろうか。出来るとしても、かなり厚顔な説明しか成り立たないだろう。曰く、男性社員の士気を高める、などである。

私の弟の話によれば、彼の所属するゼミで、非常に優秀でプレゼンテーションのうまい女性がいるらしいのだが、彼女は未だに就職先が決まらずに難儀しているらしい。私の弟は、彼女が未だに就職先が決まらないのはやはり外見が理由ではないかと邪推している。同じゼミで何でもない女性は内定をもらっているそうである。ただし、内定をもらえるかどうかは、能力だけでなく志望ややる気が重要であったり、一流企業ばかり受ける人もいたりするので、一概には言えない。

私は職場でもこの手の噂を聞く。私の先輩で、某新興企業の仕事に関わっていた人がいたのだが、その企業に行ってみてまず驚くのは「美人が多いこと」なのだそうである。合コンをセッティングしてくれという冗談とも本気とも取れない言葉も飛ぶというものである。

また、私の会社はソニーとも取引があるのだが、ソニーの事務系の女性もやはり美人が多いと聞いている。大企業はどこもそうであるとも聞く。

■このタブーの正体は?

このタブーは単純に男性の人間的な嗜好から来るものなのだろうか。つまり、現在はたまたま男性が主導権を握っており、自分たちの会社に魅力的な女性を入れたがっている結果が上記のようなことになる、と単純に考えてよいものだろうか。

結論から言うと、世の中というものは巧妙に男女平等を装うことで、女性は軽んじられて当然とする常識をタブーとして包み隠しているのではないだろうか。

私はこれまで色々とテレビを見たり本を読んだりしてきたが、テレビや本が真実を語るわけはないのである。なぜなら、女性を軽んじると抗議が来るからである。一方、アダルトなビデオやマンガなどは、その点があらかじめ了承済みなので問題は起こらない。そして、公共の検閲の網の範囲外である普通の会話、つまり学生やサラリーマン同士が交わす言葉の中にこそ人々の常識はある。

マスコミが「読者・視聴者はバカだ」と言うことは出来ない。たとえ本当のことであっても、というかこれはまぎれもない本当のことなのだが、この単純な事実をマスコミは覆い隠さなければならない。ちなみに私のこのページはマスコミではないからこそ、そして匿名であるからこそ堂々と言い切れるのである。

そして「女は一概にバカで下等な生き物である」というのもまた先の例と同様の社会的事実ではないだろうか。ここで私は、科学的事実と言っているわけではなく、あくまで社会の中の事実つまり言うなれば常識のようなものとなっているのではないかと言っているのである。

■同僚との会話に浮かぶ例

私はよく、勤務中の休憩と称してよくE先輩と同期のMさんと話をする。その中で、将来どんな仕事をしたいか、という崇高な(?)話になった。私は、仕事よりもプライベートの方がやりがいのあることが出来そうだ、みたいなことを言ったのだが、そのあとでE先輩にもその質問を振ってみた。この先輩は、バブルの頃に忙しくて金を使う暇がなかったのでよくフィリピンパブに行っていた、と楽しそうに語るので、私は質問を振るにあたってE先輩に「(やりたい仕事は)チャンネー関係ですか?」と訊いてみた。チャンネーとはネーチャンを逆にした言葉であることは改めていうまでもないのだが、つまり女性を相手にしたり女性と共に仕事をするのが男として理想かという質問をしたのである。まあよく考えれば、これこそ仕事ではなくプライベートの方が良いだろうから私の質問は的外れも良いところである。

が、E先輩は面白い方向に話を持っていってくれた。
「女の子と仕事をするのは大変ですよ。前にしたっけ、トラン○コ○モ○に勤めている友人の話とかさ、なんだっけ、テレマーケティングみたいな女性ばっかりの職場の話とかさ…」
彼の話を要約すると、女性同士はよく衝突するので、取り持つのが大変なんだそうである。それを聞いてMさんまでも大いにうなづいている。彼はまた違ったことを言っていて、
「男なら『これやんねえとぶん殴るぞ』と言えばいいんスけど…」

予備知識だが、トラン○コ○モ○とは話によると元々生命保険かなにかの女性の多い業種の会社が副業として乗り出して作った情報処理の子会社で、本来は情報処理というと普通に男が多い会社が多いのであるが、この会社はいわゆる生保レディかなにかの受け皿会社なので女性が多いそうである。テレマーケティングとはいわゆる電話調査や電話受け付け業務を請け負う会社で、アルバイトの女性をたくさん雇って電話応対させるのである。私はテレマーケティング関係の会社の仕事はしたことがあるので、実際に現地の電話センターのようなところに何度も足を運んだことがあるのだが、本当に見る限り女性ばかりの職場であった。ただし、若い人だけでなくむしろおばさんのパートの方が多いので断っておく。にしても時間帯によってはいわゆるギャル系の女性がちらほら目立つなど、確かにこの会社でアルバイトを管理するのは大変だろうなと思った。

話を元に戻す。E先輩の場合、女性同士はよく衝突するので扱いづらいと言っているのである。扱いづらいというのは、面倒を掛けられるからであり、世話を焼かせられる、つまり程度が低いと言っているのではないだろうか。私はE先輩に対して「つまり女はバカだと言いたいのですね」と言ったところ、E先輩とMさんは大笑いし、E先輩は私に「それは論理に飛躍があるんだよ」と言ったものの否定はしなかった。

Mさんの場合は多少話が込み入るが、要するに男は殴れるけど女は殴れない、つまり男は一人前だから殴るが女は半人前だから殴れない、ということだと私は考える。まあ一般的に女性は男性よりも力が弱いのだから、男が女を殴るというのはフェアではないのかもしれない。だとしたら、女性の方が口喧嘩が強いと一般に言われるので、女が男を罵ったり言いくるめたりするのもフェアではないのではないだろうか。そういうことが一般に言われない以上、やはり女性は半人前だという常識が世間一般にあると考えても良いのではないだろうか。

■カカア天下はなぜ亭主関白よりもイメージが良いか

夫婦や家族で、男性が強い主導権を握っていることを亭主関白と言い、女性が強い主導権を握っていることをカカア天下と呼んでいる。

これは私の偏見かもしれないが、亭主関白をしている男性は時代錯誤で間違っているというイメージが強いのに対して、カカア天下をしている女性にはあまりネガティブなイメージがない。むしろその独裁者ぶりが微笑ましく描かれていたりするものである。これもまた、女はバカなのが当たり前、バカには逆らわない方が良い、という考え方ではないかと私は思う。

肝っ玉かあさんは肯定的に捉えられ、現代に存在しても恐らく良いイメージで迎えられるだろう。しかし独裁的な父親はかつてのまま現代に受け入れられることはあるまい。たとえ一部の人々の間で、父権を取り戻すべきだという考え方が広がっているとしても、強権的な父親をそのまま現代によみがえらせようとしているわけではない。

また、男性と女性が結婚するとき、男性は女性に対して「君を幸せにしてみせる」と言うことは美談となるが、逆に女性が男性に対して言って美談となるだろうか。女性は「家庭を守る」とでも言うのが順当なところだろう。この言葉は言い換えれば「家庭を守るために働く」という主体性のない仕事に従事すると宣言しているも同然である。一方「君を幸せにしてみせる」は、男性が女性に従属しているようなイメージもあるのだが、実際のところ男性の行動には主体性があるし、だいいち幸せにされる隷属的な主体としての女性が結局のところ導き出されるだけである。

■不気味さ

私は男女同権論者ではない。社会的・生理的にうまくいくというのであれば、男尊女卑もやむをえないと考えている。社会的にうまくいかなければ社会が荒廃し、生理的にうまくいかなければ子孫が減っていくので、そんな事態になるのであれば男か女のどちらかが蔑まれなければならないとしても止むをえないのだ。

かわいくて頭の悪い女性タレントがテレビによく出てくるが、視聴者は彼女を人間として見ていなくて一種の動物として見ている。しかし、視聴者はそんな動物を必ずしも蔑視しているわけではない。そこがまた難しいところなのであるが、本質的にはジミー大西と扱いは変わらない。

男性は、美人やかわいい女性に対しては、チヤホヤしたり、照れたりして、自分より格上の扱いをしているように思えるかもしれない。しかしそれも、男を魅了するという前提の上で成り立っている。だから、男を魅了しない器量の悪い女性を露骨に蔑み無視するし、たとえ器量が良くても男を魅了しないで不愉快にさせたとたんに蔑みが始まる。

女性タレントがヌード写真集を出すときに、ある女性が「ヌードはエロスではなく芸術」と言った途端に男性誌に叩かれるのである。男性誌の言い分は、男を興奮させることの出来るボディを持っているのに芸術っぽいヌード写真集を出すのは無意味、男を興奮させてこそ写真集の価値がある、のだそうである。そして、女性誌でそのようなヌードが「ヌードなのにイヤらしくなくてキレイ」という読者の感想を得ていることまでも彼らは批判するのである。

女性は、男性を魅了することでしか人間的な扱いを受けないのである。あとは、家を守る、つまり子を育て家事をこなす格下の存在とされているのである。または、事務職という名の、男より低い賃金で働く格下の労働者であり、その目的は主に男性社員の結婚相手となることなのである。

私は以上のことが社会的事実だと思うのだが、ところがどうだろう、表面的には全く取り繕われ、いわゆるタブーと化していることに不気味さを感じる。

■家庭内での男女の地位のバランスへの批判

日本は縄文時代から家父長制であったと言われている。つまり一言で言えば、父親が全てを決める権限を持っていて、家を継ぐ長男がその次に強い権限を持っていて、あとの母親と残りの子供はそれに従うだけである。

しかし民俗学的な研究によると、実際のところ母親が精神的に家庭を引っ張っていたとも言われているらしい。父親は制度上・表面上の権力を握ってはいるものの、重要な意思決定は実質的には母親が行い、父親は黙って母親の決定を許可するだけだったということらしい。言うなれば、男が名をとり、女が実をとった、という説である。

私は上の説は少なくとも現代に関しては当てはまらないと考えている。なぜなら、人々が貧しかった頃には、男と女が協同しなければ生活していけなかっただろうから、名をとるとか実をとるとかに関係なく、実質的に男女が平等であったと想像できるからである。

人々が豊かになると、もはや女性は家事労働に専念するようになり、完全に表の経済からは無視されるようになった。一方で男性は外へ出て金を稼いでくるので、その金が生活費として家庭を支えるのだが、実際の金の動きがないことから女性の家事労働は評価されないどころか、女性を奴隷のごとく認識する男性が生まれて「誰が養ってやっていると思っているんだ!」などの言葉が生まれたのである。

しかし現実的には、私の周りを見回してみると、数少ないサンプルではあるが、実のところ女性の尻に敷かれている男性は意外に多いのである。というか、露骨に男が主導権を握っている人を見たことがない。

かといって私はいまさら自説を撤回することは出来ない。というかその必要は無い。つまり男性は、自分が結婚した相手の女性は、すぐに女性とは思わなくなる、ただそれだけのことのように思える。結婚を嘆く男は多い。既婚女性の力の強さは、よくテレビやマンガや雑誌で語られる通りである。しかしながら未婚女性の扱いはそれとは全く関係ないのである。

■まとめ

だが世の中を見てみると、女性の時代である。

精神科医の間で一昔前に言われていたことの中に、いまの時代は男の子の方が精神的に弱くて、女の子の方が強い、という話がある。彼らによれば、男の子は親から強くなりなさいと言われて逆に精神的に不安になるのだという。逆に女の子は特に何も言われないので逆に強いのだという。

しかしそれはあくまで子供の頃の話だろう。子供を脱皮すると、心身症などで苦しむのは女性の方が多い。拒食症や過食症のような病気に男性が掛かるという話はあまり聞かない。

それでも、商業的には女性をターゲットにしたものがよく売れるという事実がある。ということは、女性は強いということではないだろうか。

ではなぜ女性は強いのか。

蔑まされたり無視されたりするから強いのではないだろうか。男性は、ダメ人間でも今の世の中では精神的にそれなりに安定していられるのではないだろうか。それに引き換え、女性のダメ人間は社会的な逆風が強いのではないだろうか。私がそもそも女性のダメ人間をあまり知らないからだろうか。

私は、弟から彼の友人の話を色々と聞く。その彼の話を聞いていると、男でかなりのダメ人間がいたりして笑わせてくれる。でも、彼らはあまり問題意識をもっていなさそうだし、逆にダメなことを自慢げに語るという文化もあるようである。

まあここまでの私の説明が無茶苦茶なものだとしても、これだけは言える単純な法則がある。強い者は社会的弱者である。ユダヤ人に頭が良かったり金持ちだったりする人が多いのも社会的弱者だったことが大きいだろうし、強いボクサーが元々いじめられっ子だったり、貧しい家に生まれた人が大成功を収めるのに対して金持ちの家に生まれた人は凡庸だったりすることは多いだろう。今の社会で女性が影響力を持っているのも、やはり立場が弱いからではないだろうか。

とにかく現時点では、私に言わせれば、男性は女性を社会的弱者にしておき、そのお陰で女性は着飾ったりエステに行ったりしなければならなくなっているのである。そして世間ではこの事実を隠しているのである。

しかし男もエステに行く時代である。これからどうなるか分からない。職場でのセクハラの取り締まりも厳しくなっているそうである。なんでも、職場でプロポーズしてもセクハラだと訴えられかねないそうである。男性からすれば、いまの時代を懐かしむような時代がすぐそこまで迫っているかもしれないのだ。


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gomi@din.or.jp