66. すれちがう物語 〜「紅の豚」考 (2000/6/25)


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最近テレビで、宮崎駿のアニメ映画「紅の豚」をやっていたので、見てみた。

改めて鑑賞してみると、この映画に対する見方が、初めて鑑賞したときと異なったことにまず驚いた。そこで今回思ったことについて書くことにする。かなり時期を逸した分析なのだが、私自身は今回初めて思い立ったことなのでお付き合い願いたい。

■初めて見たとき

私がこの映画をはじめて見たのは大学生か高校生の頃だと思う。同監督の映画では、確か「魔女の宅急便」を親子で見に行って「あんまり面白くなかったね」と話し合って以来、宮崎駿のアニメ映画を映画館で見ることはなくなっていた。だから、私が「紅の豚」を最初に見たのはやはりテレビだった。

初めてこの映画を見たときの感想を思い出すのは難しいが、とにかくこの主人公の豚の妙なダンディズムになぜか納得のいかないものを感じた覚えがある。ジーナとかいう淑女(この言葉は多少時代錯誤的な言葉だがこれ以外にふさわしい言葉はあるだろうか)の存在もいまいち納得できなかった。それでいて、同監督の代表作とも言える「風の谷のナウシカ」のナウシカを彷彿とさせる元気な女の子のカラ元気が妙に軽薄で浮いているように思えたのだった。

■これまでと異質な物語

私の周りの人々の中では、宮崎アニメの中では「天空の城ラピュタ」が一番面白い、という意見がかなり多い。私もこの作品は大好きである。まあ私の一番は何かと言われると、漫画の原作には及ばないものの、やはり壮大な世界観を持った「風の谷のナウシカ」が好きである。少なくとも、多くの人にとってはこの二つが宮崎アニメの代表作だと思う。…アニメオタクからすればまた違った評価なのかもしれないが。

私が「紅の豚」について語るときに、対比として「天空の城ラピュタ(以下ラピュタ)」を利用したいと思う。

「ラピュタ」では、空から降ってきた少女シータと出合った少年パズーが、飛空石をめぐる怪しい軍隊に追われているシータに巻き込まれて、一緒に冒険するという物語が描かれていた。ところが「紅の豚」では、主人公の豚と、いっけんヒロインのようなジーナという淑女が、いっこうに接触しないのである。ジーナという淑女はただ豚を待っている。豚は豚で過去に縛られている。

「紅の豚」は、「すれ違いの物語」である。ここに出てくる登場人物は、それぞれ自分の物語を持っていて、その自分の物語に自分の好きな人間を入れようとしても入れられないのだ。

豚とジーナとの関係は、互いに当時は意識していないものの多分初恋の相手同士であって、ジーナは豚の戦友の相手なのである。ジーナは豚の戦友と結婚したのだが、その豚の戦友は新婚直後に戦闘で命を落した。豚とジーナは互いにまた近づきたいのだが、豚は自分がお尋ね者なのでジーナに近づこうとはしない。

豚と少女(名前すっかり忘れた)の関係は、豚にとって少女はアメリカ帰りの腕の良い設計技師であり、少女にとって豚は客であるのだが、互いに好意を持っている。しかしこれも例によって年齢差と、豚は豚で自分の危ない生き方に少女を巻き込むわけにはいかないと思っている。

ついでに、ジーナと少女に熱を上げる飛行機乗りが出てきて、クライマックスで豚とこの男が対決をするのだが、この男は結局ジーナも少女も手に入れられずにアメリカに渡って成功する。

全てすれ違いなのである。

■それぞれの人物の物語

「ラピュタ」では、大体境遇の似た二人の少年少女が出会い冒険する話なのであるが、「紅の豚」では、それぞれ事情の異なる人物が自分の求める相手に近づこうとするのだが、結局くっつけないという話なのである。

私は初めて見た時に、豚のダンディズムみたいなものに反発さえ覚えたのだが、いまの私はなにか共感できるものを感じる。初めて見た時の私には、どうもそのへんが理解できなかったようなのである。

「ラピュタ」では、町の屈強な男や海賊の女ボスの婆さんが、主人公の二人に対して自分の物語を重ねてきたりするのだが、基本的には主人公たちの物語として成り立っており、そのメインの物語を中心にして平行する昔の小さな物語の存在がほのめかされて、多重の物語を形成している。

しかし、世の中そのような話だけではない。むしろ物語とは錯綜するものである、というのが「紅の豚」の構造の主張であると私は思う。たとえば、恋愛の話であれば、結びつくヒーローとヒロインが描かれれば、彼らが結ばれるまでに邪魔をしたり協力をしたりする片思いの脇役たちが周りを固める。

「ラピュタ」は間違いなく、少年パズーと少女シータの物語であった。しかし「紅の豚」は、豚の物語であり、淑女ジーナの物語であり、ナウシカもどきの少女の物語であり、豚のライバル(?)の飛行機乗りの物語である。

他の作品についても見てみよう。「風の谷のナウシカ」は、言うまでもなくナウシカの物語であった。ナウシカと対を成すクシャナという逆の生き方をしている女性も出てくるが、あくまで脇役である。ナウシカの物語を彩る対比の役目どころである。

「魔女の宅急便」は、魔女の少女キキの物語だが、同時にキキの母親の物語も背後に感じさせている。しかし、キキと親しくなる少年の物語は希薄であり、キキの物語の中では少年は脇役である。むしろ黒猫のジジの方が少年よりも重要な役どころである。

■すれちがいへの感傷

私はようやく最近になって、自己というものを過剰に見る傾向が薄れてきたと感じているところである。つまり、他人の物語というものについてよく意識するようになってきたのである。他人の物語の中で、私は多分こんな脇役なのだろう、と意識するのである。…まあ結局のところ、このような意識は自己を過剰に見る傾向が別の形をとっているだけなのかもしれない。

私はこれまで、これからも友達でいたいと思った人と疎通になり途切れたり、私自身が乗り気でなかったために途切れたりした友達がいた。異性に関してはいまのところ誰ともすれちがっている。そんなわけで、すれちがう物語、については何か感傷的なものを感じる。

「紅の豚」では、特に豚は自らの方向付けによって、自分の好きな相手の物語とすれちがう。すれちがうよう自らを方向付けるのではなく、くっつくように方向付けることも不可能ではないのだ。しかし、愛する者を思いやるためにすれちがっている。

ひるがえって私の場合のすれちがいは、決して思いやりですれちがっているわけではない。なりゆきと臆病と自己本位ですれちがっている。このあたりが豚と私の大きな違いである。しかしよく分からないが、私はこれまでの自己本位のすれちがいにも、豚のすれちがいを見て思うのと同じように感傷的になってしまうのである。

■物語の多くは一人の視点で描かれる

恋愛の話では、ヒーローとヒロインが最終的に結びつくことが多い。また、逆に最後の最後まで結局結びつきませんでした、という物語も時々ある。なんにせよ、恋愛の話の多くは、主人公たちの物語ただ一つが中心となっている。最終的に結びついても結びつかなくても、主人公たちの物語と脇役たちの物語、といった構成になっていることが多い。

しかし人生とはそんな単純なものではないのだ。たとえば、私自身は、私自身の物語の中では主人公なので、私の頭の中には私を中心とした物語が描かれている。人は恐らく誰でもそういうものだと思う。だからこそ、世の中にある様々な物語には主人公がいて、その主人公の視点で主人公を中心にして主人公の物語が描かれることが多い。古今東西あらゆる話というのは、史実を忠実に書き記したものではなく、多くは創作である。史実をもとに作られた話もあるだろうが、そういう話も人々に語り継がれていくに従って創作的になっていく。その創作的になっていく段階で、これは私の予想なのだが、必ず主人公の物語に変わっていってしまうのである。

だから、私以外にも「紅の豚」にはなんらかの違和感を感じて鑑賞した人が多いのではないかと思う。神話から小説まで、古今東西の名作の話とは異質だからである。

小説には、一人称を使ったものがある。その一人称は、必ず一人の人物の視点に固定されている。話の途中で別の人物が一人称を使うことはない。いや、使うのも小説家の勝手なのだろうが、一般に一人称の人物をコロコロ替えることはやってはいけないそうである。

ここで私は大げさなことを言うと、「紅の豚」という話は、極めて画期的な人工創作話なのではないかと思うのだ。

しかし、この話の構成はやはり成功していないのではないか、とも思う。中途半端なのだ。だから、この話の背景に流れるノスタルジーと各登場人物の片思いだけが浮き出てくる。個々の登場人物の物語のすれちがい、という人生における重要なテーマの一つがうまく視聴者に伝わっていないのではないか。

■宮崎アニメをもっと輸出しよう

「紅の豚」がテレビでやっていた次の週に今度は「となりのトトロ」をやっていたのでそれも見た。この話は、日本を世界の人々に好意的に理解してもらうにはちょうどよい話なのではないかと思った。アニメは最近よく輸出されるそうで、クレヨンしんちゃんが各国の親たちから嫌われているとか、ドラエもんが広く受け入れられているとか、北斗の拳がフランスで放送禁止などという話を聞く。宮崎アニメはどの程度輸出されたのだろうか。ポケモンが世界を席巻しているそうで、アメリカなんかでは過剰な反応を見せていたりもするのだが、アニメで日本のイメージをよくすることもどんどんやってほしいものである。


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gomi@din.or.jp