65. アメリカ人に共生を教えてやろう (2000/6/24)


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私は自分でデータを漁って調べるということをしない人間であるので、私の情報源はもっぱら本やテレビやインターネットでの誰かの言葉である。私には、これだという特定の情報源はないので、時に色々なものの見方に触れて混乱することがある。

特に最近混乱させられたのは、日本は実はアメリカに経済戦略で勝っている、政治戦略で負けているからあたかも経済戦略でも負けているように見えているだけである、といった見方である。

最近までの私の国際経済感は、金融でリードするアメリカの一人勝ちで、日本は貯蓄があるものの不況に陥っているといった感じである。私は、金融で勝ちさえすれば…表現が悪いので言い改めよう。私は、金融により付加価値を掘り起こすことができるのならば、製造業は必要ないと思っていた。アメリカは現在その金融によって国が好景気に沸いている。物を作る時代ではなく、金を動かす時代になったのだと私は思ったのである。

しかしどうもそのあたりが怪しいらしい。結局は物を作った者が勝ちなのではないか? という見方があるらしい。

■産業の発展

ここでひとまず、国の一般的な発展論について一通り説明することにしよう。断っておくが、私の認識はかなりいい加減なのでその点を留意して聞いて欲しい。

最初はどこの国も、酪農林水産業と、家内制手工業による生活必需品によって人々が生活していた。そのうち、自国だけでなく、他国と品物をやりとりするようになった。そして隣国との貿易だけでなく、はるか遠く離れた国との貿易もするようになった。そんなとき、豊富な産物を持ったアジアに対して、貿易品として有力なものを持たなかったヨーロッパは、イギリスをかわぎりに工業化していった。

工業化というのは、熟練工を必要とせず、機械を使って沢山の品物を作るようにすることである。フルオートメーションである必要はない。熟練工が一つ一つ作ると、一つ一つが完成するまでに時間が掛かるし、生産量も熟練工の人数より多くは作れない。ところが工業化すると、熟練工でなくとも、とにかく人手があればある程度の教育で機械の助けを借りて沢山物を作れるようになる。しかも一つ一つ手作業で作るよりも手間が掛からないし、資本家は代わりがいくらでもいることから労働者を安く雇えるのでコストがかからない。

各国が工業化すると、今度は労働者のコストがポイントになってくる。品質の良い物を提供できる国と、品質の悪い物しか提供できない国とでは、対価が変わってきてしまう。たとえば、品質の良い物を提供できる国と、品質の悪い物しか提供できない国とで、お手伝いさんを雇うとする。いくらで雇えるだろうか。もしそのお手伝いさんが、お手伝いさんをやるのではなく、工場で働くとしたらどうだろうか。一方の国では、品質の良い物を作れるのに対して、もう一方の国では品質の悪い物しか作れない。同じ労働力でも、その国の技術力によって労働力の価値が違ってくる。品質の高い物を作れる国では、品質の高い物を他国に高く売ることができる。物を作る労力、つまり労働者の労働は同じだとしても、一方の国では高い価値をもち、もう一方の国では低い価値しか持たない。だから、その違いがお手伝いさんを雇う時にも影響する。その人がお手伝いさんをやるか工場で働くかはそれぞれの人間の勝手である。しかし、工場で働くといくらもらえる、お手伝いさんをやるといくらもらえるの? という話になってくるのである。当然、お手伝いさんをやるのに見合う賃金が必要になってくる。これが、労働者のコストの上昇である。

技術力のある国とない国とでは、労働者のコストがかなり変わってくる。では、技術力のない国が常に不利かというと、そうではないのである。技術力の高い国では、品質の良い物を作ったときに儲かる分が、労働者のコストを上げてしまう。品質の悪い物を作るのにも、高いコストが掛かってしまうのである。たとえば、ある工場では品質の良いものを作って儲けているとする。またある工場では品質の悪いものを作って儲けが薄いとする。当然、品質の良いものを作る工場の方が、労働者に対して高い賃金を払うだけの余裕があるので、労働者がすぐに集まる。ところが、品質の悪いものを作る工場は、儲けが薄いので労働者にあまり賃金をあげられないため、なかなか労働者が集まらない。

ここで一言断っておくが、ここで言う「品質の悪いもの」とは、技術力がなくても作れるもの、という意味なので、いわゆる粗悪品のことではない。「品質の悪いもの」という言い方は適切ではないのだが、文章が煩雑になるのでこのままにさせてほしい。

もう一言ばかり断っておくが、その「品質の悪いもの」でも、大量に作ることが出来れば、その分だけ工場は儲けることが出来るので、労働者に対して高い賃金を払うことも出来る。しかし、大量に作るためには設備投資が必要で、なおかつその大量の品物を売りさばかなければならない。しかも、大量に作ったことによって世界的にその品物が過剰になってしまったら、その品物を必要とする人は誰から買ってもよくなるいわゆる「買い手市場」となり、売る側の足元を見て「あいつから買っちゃおうかなあ」みたいに値切ることが出来るため、売る側は値段を下げなくてはいけなくなってしまう。そうなると当然工場は儲けることが出来なくなり、労働者に対しても低い賃金しか出せなくなり、最終的には労働者が集まらなくなってやっていけなくなってしまう。

話を戻そう。日本のような先進国は高い技術力を持ち、品質の良いものを他国に売ることが出来る。逆に言うと、低い技術力で作れてしまうような物を作っても、コストが高すぎてどうしても他国に負けてしまうのである。

その国が高い技術力を持っているかどうかは、為替相場を見ればすぐに分かる。日本人で大学を卒業してすぐに一ヶ月間働くと 20万円くらい手に入る。これをたとえばタイの通貨バーツに交換してタイでそのお金で暮らすとする。日本で 20万円を使うよりもずっと多くのことが出来るはずである。逆に言うと、タイの人が一ヶ月働いて稼いだ金を持ってアメリカに渡ったとしてもろくに使えない。いわゆる出稼ぎというのは、労働単価の高い国や地域で働くことによって、労働単価の低い国にいる家族にとっては高いお金が手に入るのを利用しているのである。

■製造業の先には流通業が?

ここで実際の話をすることにしよう。

過去の日本は、欧米の先進国を追いかけつづけ、ついには GNP だか GDP だかで世界ニ位にまでなった。私は詳しくは理解していないのだが、GNP だか GDP だかの指標は、国民全員がどれだけ稼いだかの合計のようなものである。

技術力を高め、物を作ることにひたすら力を注いできた日本は、品質の高いものを世界各国に売りさばいて儲けている。品質の低いものは中国や東南アジアやアフリカなどから輸入しているのである。私の見たところ、日本は総合的に言えば世界で最も技術力のある国だと言って良いと思う。ただし、軍事技術に関してはアメリカに劣るし、ソフトウェア技術でもまだ勝っているとは言いがたい。私のこの文章もアメリカのマイクロソフト社の開発した Windows で書いている。日本も実はかつて Windows よりも優れた Tron というソフトウェアを持っていたのだが、政治的事情によりアメリカへ広く輸出することが出来なかったといわれている。もしこの Tron がアメリカへ広く輸出されていたら、いまごろは日本が世界的にソフトウェア技術をリードしていた可能性が高いと私は思う。

日本は、世界的な技術力獲得競争を想定し、どんな国にも勝てる技術力を身につけることを目的としてきた。技術力さえあれば国民が豊かになれる。そう思っていままでやってきたのである。

ところがアメリカは、技術力での勝負を軍事技術以外では半ば放棄し、金融や情報を握って豊かになる道を歩むことを選んだ。物を売るよりも、金を貸す方が儲かる、情報を独占するほうが儲かる、と考えたのである。

金を貸すと儲かるのは周知の通りだが、情報を独占すると儲かるのはなぜか。マスコミや出版社が儲けているのと同じ原理である。

また、経済とは物と情報の流れで決まってくる。物と情報の流れを速くすることで、豊かになれるのである。たとえば、私が買ってきた本なら、読み終わったあとで売ることのできる場所があったとする。そうすると、私が買った本は、私の家の押し入れに長いこと押し込まれるのでもなく、捨てて燃えるゴミとなるのでもなく、古本屋が買い取ることで私は豊かになる。しかも、私が売った本を誰かが安く買うことでその誰かも豊かになれる。まあこれには異論があって、古本屋がなければ新刊本がよく売れるようになるかもしれない。一冊の雑誌は、古本屋が無ければせいぜい友達のあいだで回し読みされるだけであるが、古本屋があればそれ以上の人が見ることが出来る。本を作る人は儲けが少なくなるが、本を作るための労力が減り、逆に本を古本として流通させる人が儲けることが出来るようになる。本の材料となる紙を使う量を減らすことが出来て、本の中身という情報は広く人々に行き渡り、結果として貨幣の流れが盛んになる。

物を沢山作ると豊かになれるが、一つの物を有効に利用しても豊かになれる。たとえば、日本全国に空家があると思うが、その空家が減れば余計な家を建てなくてすむので豊かになれる。空家を減らすにはどうすればよいか。空家を欲しがっている人と、空家を貸したがっている人とを、情報で結べば良い。

流通コストを下げるというのも重要である。たとえば、どこかの工場で作った品物を、全国の人々が欲しがっているとする。全国の人がどの程度欲しがっているのかを工場の人が予想するのは難しいので、あいだに店が入る。ところが、店は全国に散らばっていて、工場の人が一軒一軒の店に品物を配達するわけにもいかないし、店の人々がその工場に押しかけるわけにもいかないので、問屋が入る。そうすると、店で働く人、問屋で働く人、それぞれの労力が掛かるようになる。そこに情報技術を導入するとどうだろう。インターネットで工場がホームページで品物を直接売るのである。ホームページで品物を売るには、お金のやり取りつまり決済のシステムだとか、品物を届ける宅配のシステムが必要になる。しかし、店や問屋が入るよりもずっと安く品物を人々に届けることが出来る。店や問屋で働いていた人は、別のところで働くので、彼らが物を作れば物が増えて豊かになるし、より高度なサービスを始めたら便利になって豊かになれる。

アメリカは、物(金も)や情報の流れをスムーズにすることで豊かになっている。一方日本は、良い物を作って物そのもので生活を便利にしたり、良い物を他国に売ってそのお金で沢山の物を世界各国から買ってきて豊かになっている。

■流通業を選択したアメリカ

日本の場合、良い物を作りつづけていれば良いのであるが、アメリカの場合はそうはいかないのである。

アメリカの場合、物や情報の流れをスムーズにすれば良いというが、まず物と情報を作らなければならない。生活に必要な物と情報のうち、ある程度のものは自国でまかなえるが、自国の技術力よりも低い物は買った方が安いし、自国の技術力よりも高い物は外国から調達してこなければならない。そのため、自国でなにか物を作って他国に売ることになるのだが、いまのアメリカは物を作っても大雑把に言って軍事兵器と農作物とソフトウェアぐらいしか競争力がない。情報を売ることも出来るが、ハリウッドくらいしか私は思いつかない。

アメリカの場合、なにで一番金を稼いでいたかというと、私はよくは知らないのだがやはり投資で金を稼いでいたのだと思う。しかも、投資に必要な金を日本から借りてまでも投資に熱を入れていた。日本から低利で金を借りて、その金を他国へ高利で貸せばよいのである。つまり、貨幣の流通業なのである。私はアメリカのこの方法を初めて知ったときに、なるほど、これからの先進国は金融で金貸しをやっていればよいのか、物を作って売るより効率的じゃないか、と思った。しかしこの方法には、ちょっと考えれば限界があるという結論に簡単にたどり着く。高利で借りてくれる相手がいなくなったらどうなるか。つまり、世界がある程度発展して、産業発展のために金を借りなくてはいけない国がいなくなったらどうなるか。また、そんな国に金を高利で貸しても、帰ってくる保証はない。現にロシアに投資した金が返ってこなくて世界中の先進国が損をしたし、中国が金を返さずに日本の銀行が損をしたりしているのだ。

そうなるとアメリカは有力な資金源が先細りすることになる。するとどうしても物を作って売らなくてはならなくなってしまうのである。贅沢に慣れた国民を満足させるためには、とにかく物をあてがわなければならない。自国で作れるものには限りがあるので、他国からも調達しなければならない。自分で世界中にグローバルスタンダードを押し付けた手前、貿易障壁を無くさなければならないので、他国の安い品物を国民がどんどん買ってしまう。アメリカを始めとした先進各国は、他国の安い品物から自国の産業を守るために、他国をダンピングだと断定して高い関税を課して流入を阻止しようとしている。それでも物は自国に流れてくるので、国民が買う分を、逆に他国に物を売ることで取り返さなければならない。しかし近年のその試みはうまくいかず、アメリカは貿易赤字を増やしつづけてきた。最近になってようやく下げ止まるのではないかと言われてもいるが、もう遅いのである。

いくらアメリカが物と貨幣と情報の流通で豊かになろうとしても、流通させるだけの物が必要なことに変わりはない。古本で言えば、紙を作って製本して印刷する印刷所と、中身を描く作家がいなければ、そもそも古本屋だって繁盛しないのである。外国に借金して本を作る代金を調達してきた国がアメリカなのである。

■負の流通業と化した弁護士たち

しかもアメリカには、訴訟大国という側面もある。メーカーが作った製品は消費者の手に渡る。消費者が粗悪なものを受け取った時に身を守る助けとして弁護士がいるはずなのだが、消費者が大した損害を受けたわけでもないのに弁護士がしゃしゃり出てきて、メーカーと消費者の間で中間搾取が行われている。東芝の訴訟で東芝が敗訴して 1100億円分を消費者と弁護士に支払うことになり、かなりの額が弁護士に渡ったらしいのだが、その弁護士に渡った金額というのはちょっと考えれば分かるとおり、そのまま消費者に上乗せされるのである。敗訴したメーカーは他のメーカーよりも競争力が落ちるかもしれないが、他のメーカーもその判決を見て明日のわが身とならないよう余計に警戒するようになり、消費者も望まないような機能にコストをつぎ込むようになる。行き過ぎた弁護士は、生活を豊かにするという本来の目的をはずれ、逆に人々を不幸にするのである。

■ひたすらコスト削減を目指した日本

日本とアメリカは、先進国として肩を並べていた時に、発展途上国が発展してきたことで同じ問題に直面した。自国の製品の中で、他国よりも技術力を要するものは良いのだが、他国でも作れるようなものは他国のものよりもどうしても割高になり、売れないようになってしまったことである。

発展途上国が発展して例えばテレビなんかを生産できるようになったのは、日本の影響がかなり強いのだということを、現在のマレーシアの首相マハティールが主張している。日本は、なるべく安く品物を作るために、部品を東南アジアなどで作るようにしていった。そこで技術が日本から東南アジアに渡っていったわけである。ついに日本は、価格競争力を維持するために東南アジアを中心に生産拠点を移し、その結果日本本土には工場が少なくなっていったのだ。しばらくすると、日本が現地に作った工場からノウハウを得て、現地のメーカーが興ってきて工場を建ててテレビなんかを作るようになる。すると、日本が現地に作った工場で作る製品も価格競争力が落ちてくるので、日本はさらに高い技術を要する製品を作る工場を作っていくことになる。この流れは、最終的に現地の技術力が日本の技術力に追いつくまで続く。仮に現地の技術力が日本の技術力を凌駕することになったら、逆に彼らが日本列島に安い人件費を求めて工場を建てに来るのである。

このようなごくごく教科書的な市場絶対主義であるが、このような理想的な形が実現しているのは日本があればこそである、とマハティールは言っている。もし日本という国が無かったら、欧米各国のメーカーは発展途上国に工場を作ってまで競争することもなく、自国で小競り合いをするにとどまるのではないか。マハティールは、先進国はいつまでも先進国でありつづけ、発展途上国はいつまでも発展途上国でありつづけ、発展途上国はいつまでも先進国から高い品物を買わされつづけただろう、と言っている(彼は実際には富める北側の国々と貧しい南側の国々という表現を使っている)。

私はこの主張を日本人として非常に喜ばしく思うが、いくつか異論がなくもない。台湾の現在の発展は、日本が戦前戦中に社会資本を整備したことが礎となっていると言われているが、台湾が電子立国として今日コンピュータの生産大国となっているのは、台湾からアメリカなんかに留学した学生の多くが戻ってきて産業を興したからだと言われているらしい。アメリカという国が、国益を第一に視野に入れながらも、留学生を各国から受け入れている点は素晴らしいと思う。貧しい国が豊かになるには、留学生の存在は欠かせないだろう。しかし、留学生は留学先の国の考え方に染まってしまう可能性があったり、貧しい国での貧富の差が国の混乱をもたらすこともあるだろう。

日本は最近、閉鎖的な国だと言われつづけてきているが、日本こそが現在の市場絶対主義を成り立たせることに最大限の貢献をした国なのである。彼らの言葉に騙されてはいけない。彼らは、自分たちの商品を売り込むときは、相手の国に関税障壁があると「自由貿易でなくてはならない」と主張し、逆に相手の国が品物を持って自分たちの国に安く売り込みにくると「不当に安く製造された商品だからダンピング課税するのが当然だ」と関税を掛けてくる。そうやって日本は、彼らの圧力に屈して牛肉・オレンジ・米などの輸入に掛けていた関税を掛けられなくなり、日本国内の食料の自給率は下がる一方になり、もし何かの自然災害や事件が起きて食料の輸入が減ってしまったら日本中が餓えることになるようになってしまった。それに対して、日本からアメリカに輸出している鉄鋼製品やスーパーコンピュータなどには、彼らはむりやり理由をこじつけてダンピング課税を掛け、事実上輸出させまいとしているのである。

■日本に対抗するためにアメリカがやったこと

競争力のあった日本に対抗して、アメリカはいくつかの戦略をとった。

一つは、円をドルに対して高く設定するよう世界的な合意にもっていったのである。プラザなんたらだかよく分からないが、本来市場原理で決まるはずの為替相場を、各国で介入して円高ドル安にしていこう、といったことである。円高になると日本の製造業の競争力が落ちてしまう。ただし日本は資源のほとんどない国なので、円高により資源の買い付けがしやすくなったり、また我々は海外旅行に安く行けるようになった。

日本のメーカーは、円高を乗り切るために、先ほども述べたように海外に工場を移していった。この経営努力は素晴らしいと私は思う。そのお陰で、日本のメーカーは超円高と言われる 1ドル 80円くらいでも利益が出るのではないかと言われるほどの強力な競争力を持つようになった。

アメリカの戦略はこれだけではない。日本がゼロ金利を維持しているのも、銀行が貸し渋りをするのも、全てアメリカの戦略である。

日本がなぜゼロ金利を維持するのかというと、日本に預けていても金利がほとんどつかないことから、余剰資金がアメリカに投資されるからである。また、日本はアメリカの国債を大量に購入していて、つまりアメリカは日本に大量の借金をしているため、もし日本が金利を引き上げると、アメリカに貸していた金の多くが引き上げられると言われているのである。日本がアメリカの国債を売ると、アメリカの国債の価値が下がり、アメリカはこれから借金していけなくなってしまい財政が破綻してしまう。また、現在のアメリカの好景気は個人投資が盛んなことが主な理由であり、アメリカの国債の価値が下がると個人投資しているアメリカ国民全体が見かけ上の損(というか見かけ上の得がなくなる)をして、一気に景気が悪くなると言われている。そうなると、アメリカ発の世界恐慌が起きてしまい、今度は日本がアメリカや世界に日本車などの製品を売ろうとしてもあまり売れなくなってしまうのである。

アメリカは大消費国であり、日本は大生産国である。アメリカはいま、自国の大幅な財政赤字を棚上げにして、国民が借金漬けの好景気で沸いている。一方日本は日本で、大幅な財政赤字を抱えてはいるが、世界経済を守るためのゼロ金利により不況が続いている。消費の多い国が好景気なのに、生産が多くて人々がよく働いている国が不景気というのは、非常に不公平というか、はっきり言って日本は冷や飯を食わされているのである。

■アメリカ人はこれから働くのか?

ここからが問題の個所となる。

私はこれまで、アメリカはこれからも大消費国でありつづけ、貨幣を右から左へと動かすことで国を成り立たせていくのかと思っていた。現にいまのアメリカを見ても勝者の姿しか見えてこない。

しかし私が最近触れた考え方では、アメリカは徐々に破綻してきており、これからは消費国であると同時に生産国にもなろうとしているようなのである。なぜそうと言えるのか。色々な情報を総合すると、アメリカは日本に対してリストラを要求しており、リストラというのは日本の生産能力を下げることにつながるのである。日本が生産しなければ、アメリカがその分を生産して世界各国に売ることが出来る。日本が競争力を落せば、アメリカのメーカーが有利になるのである。

アメリカの戦略は非常に巧妙である。日本という国は実は、技術力のある沢山の中小企業が産業を支えていると言われている。アメリカは当然そこを狙ってきた。どうやって? 中小企業が恐れるのは、大企業から切られることと、資金のショートである。大企業から切られるというのは、日産が工場を閉鎖したりしてリストラするときに部品会社なんかの取引先の数を減らしたようだが、これは先のリストラに因る。資金のショートに関しては、銀行の貸し渋りが元で起こる。銀行に貸し渋りをさせるためにアメリカがとったのは、日本の銀行がバブル期からの不良債権を大量に抱えているのを見て、国際的な業務を行う銀行には一定の自己資本比率をもつべきだという基準を決めたことである。この決定はアメリカが直接勝手に決めたのではなく、世界的な金融機関の集まりで間接的にアメリカが差し向けたのである。銀行が自己資本比率を維持するには、要は貸しすぎないことである。

銀行はいつまでも不良債権を抱えたままである。なぜなら、償却つまり取り立て不能な部分を諦めると、損が確定してしまうからである。また、これまでに大量の金を貸してきた企業の多くが瀕死になっており、貸した金がとても全て返ってくるとはないと分かりきっているにも関わらず、いつ倒産するかもしれない企業に追い貸しすることで生き長らえさせ、自らの損がいつまでも確定しないようにしているのである。

国から銀行に結局特別融資が行われたのは記憶に新しく、国から兆単位の金が銀行に貸し与えられた。にも関わらず、銀行はその金で不良債権をばっさり処理することはせず、せっかく借りた金だということでその金を「運用」することで財政を回復させようとしている。銀行はいつまでたっても、自らの損が確定するような巨額の不良債権を処理せず、逆に小額ながらある程度回収が見込めるような健全な中小企業から資金を引き上げている。

■アメリカの一人相撲

このように、日本の銀行に策を弄することで日本の中小企業にダメージを与えようというのがアメリカの戦略である。しかし、この戦略は日本を底深い不況へと誘ってしまった。無論アメリカにとってみれば、日本人が不況にあえぐこと自体はどうでもよい。しかし、これからアメリカが物を作って売ろうというときに、日本人にも買ってもらわなければならない。そしてなにより、日本はアメリカの国債を大量に保持しているので、日本の経済が立ち行かなくなると日本はアメリカの国債を売ることになる。そうなると、アメリカの好景気も潰れてしまい、日本だけでなくアメリカも購買力がなくなり、世界的な恐慌に陥ってしまうのである。

アメリカは何度も、直接あるいは世界的機関を介して、日本に内需拡大を求めてきた。日本人がアメリカ人のようにパーッと出費しないのは民族的な性格とも言えるが、日本は政治が弱いので人々は将来の不安を抱えているのである。そしてその主な理由は、銀行に預けても利子が増えないからである。日本がゼロ金利政策をとりつづけるのはアメリカに資金の流れを向けたままにしておくためであるのだから、そもそも日本の内需が拡大できないのはアメリカのせいなのである。

私に言わせれば、結局アメリカは一人相撲をしているのである。アメリカはしきりに日本が悪いなどと言っているが、少なくとも日本の政府が世界経済を人質にして何かやろうとしているわけでもなんでもない。日本がバブル期に投機に走らずに社会資本を整備していれば、老人がたくさんの個人資産を抱えたまま将来に憂える、などという景気の悪い現状は生まれなかったのかもしれないが、過ぎてしまったものは仕方がなく、いまから社会資本つまり福祉だとかを整えようとしても遅い。それにバブルで投機に走るのは自然の流れのようなもので、アメリカや世界各国とくにロシアなんかを見ても明らかである。ようやく世界が学んだくらいで、あるいはアメリカはこれから学ぼうというものを、日本の過去を責めても仕方が無い。また、バブルを潰した主因の一つに、アメリカが仕組んだ自衛策(?)であるところの超円高もある。

欧米人特にアメリカ人は、市場による競争が行われることで人々が豊かになっていけると信じる人々である。それがいわゆる資本主義の本当の姿である。日本やドイツも資本主義ではあるが、この二つの国(フランスも?)は競争を絶対とするのではなく、よく言えば時に協調的であり、悪く言えば馴れ合いがあり、すさんだ競争を避けて経済を発展させてきた。

未だ理想の体制が生まれたわけではないこの世界ではあるが、真剣勝負の競争ばかりではうまくいかないということが広く認知されてきたのではないだろうか。あるいは、経済的価値を求めての真剣勝負だけではなく、精神的な価値を含めての真剣勝負にすればよい、と主張する人もいる。なんにせよ、金ばかり追い求める企業・組織には退場してもらう方が世の為である。金の力は恐ろしいので、簡単にはいかないだろう。

ここは一つ、アメリカ人に共生というものを教えてやろう。

共生という概念は、一歩間違えば、勝ち組の国家・企業が掲げるスローガンとなって世界を不平等なまま停滞させる危険もある言葉ではある。しかし現状を見ると、ここで一度真顔になって「共に生き共に反映しよう」という考え方を広めることも必要ではないだろうか。

ただ、一つ言っておかなければならないことがある。いまから十年以上前、アメリカは自信を失っていた。ちょうど日本にバブルが起ころうという時である。日本が急成長を遂げ、アジア各国が台頭してきたそのとき、アメリカは経済的な危機にあった。そこでアメリカの下院は、日本の銀行の強さの秘訣を教えてくれ、と日本から人を招いたこともあるそうである。いまの両国を見ただけでは想像が出来ない。

日本はオイルショックだろうが超円高だろうが自力で乗り越えて他国を圧倒した。その過程で東南アジアを中心とした当時発展途上だった国々が発展するタネも巻いた。ところがアメリカは、自らの苦境に際し、まず他人の足を引っ張ることを考えた。その違いが、いまの世界を閉塞的にしたのだと私は思う。

百歩譲って、アメリカの言うグローバルスタンダードを各国が完全に受け入れていたら、いまごろは世界的な競争絶対主義による経済でうまくいっていたかもしれない。しかし、恐らく富める国と貧しい国の格差はいまより隔たっていたことだろう。それは、いまのアメリカ国内の貧富の差を見れば明らかである。ついでに言えば、そうなったとしても日本は多分富める国として今よりも豊かになっていたかもしれない。貧しい国々の犠牲の上で。

【参考文献】


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