59. 椎名林檎からの音楽考 (2000/5/20)


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MPMAN とビグザムを VAIO の上でFigure 1. 私が愛用している MPMAN と、弟からもらったビグザム (VAIO の上にて撮影)

最近私の音楽自分史の中で大きな事件が起きた。椎名林檎である。私は 4月の頭に椎名林檎のニューアルバムを買って、すぐに MP3 に変換して自分の MPMAN に入れて聞き始めたのだが、それからずっと MPMAN に椎名林檎を入れっぱなしであり、毎日毎日それを聞いているのである。これは異常である。新しいアルバムを買ったりしたときには、聞き込んでみたくなるので三日ぐらいずっと聞くことはありうるのであるが、この一ヶ月半という長い間、延々と飽きもせずに聞き込んでしまった。

そこで今回は冷静に椎名林檎についてまず書くことにする。

はじめに言っておかなければならないのは、私はシンガーソングライターとしての椎名林檎を認めているわけではない、ということである。私は椎名林檎の声や歌い方、曲については非常に素晴らしいと思うのであるが、詩については特別な評価はできないし、曲と詩を組み合わせた楽曲としてみたときは疑問が浮かぶ。

一つ一つ説明していこう。

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年初私が田舎に帰ったとき、小学四年生の子供が椎名林檎を好きだったのだが、彼女は椎名林檎の歌い方だけは嫌いだと言っていた。あの絞るような声のことを言っているのだと思う。私はあの声を特別に良いとは思わないのだが、それでもあの歌い方は味があって良いと思う。少なくともユーミンの倍音な歌い方よりはよっぽど良い。

ちなみに私はユーミンなぞシンガーソングライターとして全く認めない。私が女性シンガーソングライターとして一番素晴らしいと思っているのは広瀬香美である。彼女の歌唱力はもとより作曲センス、そしてなにより編曲の素晴らしさは、私の中では日本のポップスで一番だと思う。私の中での彼女の弱点もやはり詩である。彼女がどういうリスナー層を狙っているのか、という問題なのかもしれないが、詩がいまいち広瀬香美をメインストリームに行かせない理由となっていると思う。私は彼女のアルバムを八割がた持っているのだが、大ヒットした曲とアルバムに詰まっている曲との詩の対比が面白い。大ヒットした曲は、強い女・気取った女が恋に落ちるといった内容が多いのであるが、アルバムまたはあまりヒットしなかったシングルの曲は、完全に自立している女性がマイペース・等身大で生きるとか、自分をアピールするだとか挙句男に少し媚びるとか、メインストリームとはかけ離れた内容のものが多い。彼女は最近は曲を提供する側に回ることが多く、そんな曲は凡百のポップスとは一味違うのですぐ分かる。自らで歌う活動も行いつつ、他の歌手に曲を提供しつづけるといういまのスタイルをいつまでも続けて欲しいと私は願う。

ついでに言えば、広瀬香美もヘンな歌い方をする。あれはボイストレーニングの結果そのようなスタイルを取っているだけであり、別に無理に声を出しているわけではない。でなきゃあの広い音域は出ないだろう。それに、無理をしていない声というとオペラ歌手のような歌声になってしまうのだ。

余談が長くなったが、椎名林檎の歌い方はあれでいいのである。曲によって、曲の個所によって声色を使い分けているのも聞いていて楽しい。

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私が椎名林檎を評価する上で最も大きいのは、何と言っても曲である。私が最近耳にした情報によると、あの曲調は実は「アングラ歌謡」と呼ばれるジャンルの延長線上にあるらしい。ある音楽評論家は、椎名林檎は日本のポップスの裾野を広げた、とあの独特の曲調について評価しているが、私の聞いた話によると、アングラ歌謡をよく聞いていた人からすれば別に新しくもなんともないらしい。ただ、私自身がアングラ歌謡というものを聞いたことがないので何とも言えない。アングラ歌謡、という語感から想像できる音楽と椎名林檎の音楽は、少なくとも私の中では一致する。

椎名林檎の曲は、多分短調の曲が多い。私は音楽には中途半端に詳しい人間だと自認しているのだが、ニューアルバムや主要なシングルを聞いてみても大体が短調…というか長調らしき曲が見当たらない。ちなみに、長調は一種類しか音階がないが、短調には三種類の音階があり、漠然とメロディを作ると私の経験から言えば長調になることは少ない。私は音楽教育を受けたことがないのでそうなのかもしれない。小さい頃からモーツァルトのピアノ曲に親しんだ作曲家なんかはむしろ長調の曲しか出てこないものなのだろうと勝手に想像することしか私には出来ない。椎名林檎は恐らく正規の音楽教育を受けていないのだろう。

ついでに言えば、ポケットビスケッツに曲を提供していたパッパラー河合なんかは、曲を聴くと露骨に彼が小さい頃には音楽教育を受けていなかったことが分かる。それは楽曲の良し悪しとは直接関係はないのだが、少なくとも私には、曲が自然には聞こえない。作曲・編曲という作業は案外保守的なものであって、革新的な音楽はなかなか受け入れてもらえない。新しいタイプの音楽と言われヒットした曲をみても、さまざまなジャンルの良い部分を寄せ集めることで作られたり、既存の曲のコード進行を引用してちょっと変えることで付いた微妙なニュアンスが曲全体を支配していたりすることが多いのである。

ここで私の音楽の好みについて簡単に説明しておこう。私はバッハが大好きである。コンピュータ音楽も大好きである。生楽器も好きだがシンセサイザの方がむしろ好きである。生バンドなら、ビッグバンドよりも小規模編成が好きである。オーケストラ音楽よりも、弦楽何重奏だとかピアノ何重奏の方が好きである。ついでに常識的な説明をさせてもらうが、ピアノ何重奏というのはピアノが何台もあるわけではなくて、バイオリンとかチェロとか他の楽器と合奏するのがピアノ何重奏である。テクノは、ユーロビートと結びついたものではなく純粋なテクノなら好きである。メタル音楽はテクノ的な聴き方、つまりあのザクザク切り込むギターの音色が好きである。私が一番好きなジャンルはプログレハードと呼ばれるもので、プログレがロックとクラシックの融合のようなやや前衛的な音楽で、そいつをヘビーメタル的にしたものがプログレハードである。プログレハードの私の中での代表的なグループは DREAM THEATER や Symphony X などである。

椎名林檎の音楽は、私に言わせればプログレポップとでも言うべきものである。この言葉は私の造語である。彼女の音楽に近い音楽を敢えて探すとすれば、Queen や Valencia なんかがそれに当たると思う。ただし私の音楽の知識はことにジャンルに関しては狭いので、もっとそっくりな音楽はいくらでもあるのかもしれない。Queen はロック寄り、Valencia はポップ寄りである。

最近の音楽はどんどんありきたりになってきていたが、ここ最近は確実に新しいタイプの音楽が登場している、と私は見ている。もっとも、深く音楽について知る人からすれば、別にどうということはないのかもしれないし、また私が「ありきたり」と断じた音楽についても微妙な差異やオリジナリティについて論じることの出来る人がいるのかもしれない。

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ついでにいえば、私の最も嫌いな音楽家は小室哲哉である。世間一般で評価が高いかもしれないが私からみてどうでもない音楽家は坂本龍一である。しかし彼らの対談を深夜テレビでたまたま見たのだが、坂本龍一はなかなか面白いことを言っていた。曰く「小室さんはリスナーを教育してしまった。自分の音楽が快感になるように」みたいなことである。私はそれを聞いて「鋭いな」と思った。が、小室哲哉がどう考えていたのかは私が知ることは出来ない。私に限らず誰も知ることは出来なさそうである。彼は若者のカラオケ嗜好に合わせて曲を出していっただけで、それに消費者が慣らされていったのは彼の意図ではなかったかもしれない。we are the one などというあからさまに we are the world の真似のような企画を出すような彼のようなある種の天才について、我々が想像することの意味は疑問である。

話がどんどん脱線するが、私はつんくが大好きである。シャ乱Qでの彼の作曲センスや歌唱力は素晴らしいが、プロデューサとしてのセンスは特に素晴らしい。小室哲哉がプロデュースした女性歌手は、歌が下手なくせに歌で売れようとしやがって、みたいに思うのであるが、なぜかつんくのプロデュースする女性歌手についてはそうは思わない。というのは、小室哲哉が女性歌手自身を立てようとするのに対して、つんくはグループを立てているからだろうか。小室哲哉がプロデュースした女性歌手は、実力もないくせにプロとして独り立ちする気だと私は思い、この嫌悪感は生理的なレベルにまで達するのである。しかしつんくのプロデュースした女性歌手グループは、同じ努力が全面に出ている小室プロデュースと比べても、パフォーマンス面で優れているし、彼女らはあくまでショービジネスということを意識しているもしくはさせられているという印象を受ける。

はっきり言ってしまうと、歌手なんてものはショービジネスなのである。カリスマ化するのも流れなのだが、我々は彼らの音楽を金を払って聴いているのであって、彼らの歌や踊りを見にコンサートに行きやはり金を払っているのである。似たようなミュージシャンがどんどん出てきて消費されていくのは別に異常でもなんでもない。歌手のことをアーチストと呼ぶことに私は嫌悪感を覚える。代えがたい人がいて、一人一人みんな違う音楽を持っていて、歌手は芸術家だと言いたいのも分からなくはない。しかし、歌手を持ち上げるのはファンそれぞれの思い入れがなせるものであって、歌手とはそういうものなのだという観念が固定化されてしまっているのには疑問を感じる。

様々な歌手が出てきては消える。それはつまり消費されたということである。中には全く売れずに消えていった人もいたかもしれない。コアなファンを一握り熱狂させて消えていった人もいたかもしれない。広くファンを掴んで歌い続けていても、いつのまにか消えた人が多い。大御所となって年をとっても歌い続ける人もいる。ともかく、本物の歌手じゃないから消えていった、という考え方は誤りである。あるときに彼らの音楽を聞くリスナーがいたことが全てである。

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話が大幅に脱線した。話を戻すことにしよう。

私は椎名林檎の音楽が大好きだが、詩に関しては特に感動したりすることはない。それどころか共感すらしない。どんな詩でも私は椎名林檎の曲と歌さえ楽しめればそれで良いと思っている。

椎名林檎が売れた理由の説明として、詩がどうこうという話が必ず出てくる。詩がリスナーの共感を呼んだ、という説明は非常によく見かける。ついでにいえば、そんなリスナーの声に対して「私は自分の思いを詩にしただけ。共感されるのは迷惑」などと椎名林檎本人が言っているらしい。これを聞いて椎名林檎のことを硬派だとか孤高だとか言うのは勝手である。しかし私は、椎名林檎のそのような態度も含めて全体がリスナーたちに消費されている、ということを感じるだけである。硬派だと思うのは評論家が、孤高だと思うのはファンが、それぞれ思っていれば良いのである。そんなムーブメントとも言える椎名林檎を外から傍観する者からすれば、それらをひっくるめて現象だと思っていれば良い。彼女はすごい、と思って音楽を聴かなければならないわけではないし、彼女をすごいと思いたくない人がそれだけの理由で彼女の音楽を聴きたがらないのもおかしい。

ついでに言えば、私は浜崎あゆみの外見は好き、喋り方も悪くない、でも歌い方が嫌い、頭の中身はもっと嫌い、でも浜崎あゆみの曲には好きな曲もある、といった感じである。鈴木あみに関しては、外見は好き、喋り方と歌い方にやや共感、頭の中身には興味がある、でも曲は概して嫌い、といった感じである。

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私が思う椎名林檎の最大の欠点は、詩が曲に乗っていないことである。分かりやすく言えば、椎名林檎の歌を聞いても歌詞が聞き取れないことが多いのである。これは歌手としてはかなり変だと私は思う。

一つ例を出そう。

♪劣等感・カテゴライズ そういうのは捨ててみましょう

これはどういう風に歌われているのか。

♪れーっとーーーーーーーーーーーーかーんかーーてーごーらーいず …
(一文字が多分 16分音符一個分)

劣等感という言葉が全く聞き取れない上に、カテゴライズという言葉も文脈に乗っていないのでさっぱり分からない。ただでさえ、英語と違って日本語は音の高低で言葉が違ってきてしまうので言葉が聞き取りにくいのに、その上さらにメロディに合わせるために変なところで言葉を区切ってしまっている。

ついでに言えば、日本語よりもこの点で弱いのは中国語である。中国人が中国語の歌を普通に聞いて普通に意味が取れるものなのか知らないが、我々が英語の歌の歌詞を所々聞き取れるのに比べて、中国語を生半可に学習したぐらいでは恐らく歌詞を聞き取って意味を理解することは難しそうである。

椎名林檎の歌の歌詞は、やっかいなことに「劣等感」「カテゴライズ」などの単語を羅列したり、意外なところに意外な言葉が出てきたりするので、そうなってくると歌詞カードを見ながらでないと何を歌っているのか分からなくなるのである。アングラ歌謡の延長説があることからもうかがえるように、彼女の歌詞には色々な言葉がちりばめられている。先の例で同じメロディで、

♪太陽 酸素 ???? もう十分だったはずでしょ

というのもあるのだが、歌い方にクセがあることも手伝って、私にはさっぱり聞き取れなかった。一ヶ月半も聴きつづけた人間が言うのだから是非この点は強調しておきたい。

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あまり長くなってしまうのもなんなので、今回は椎名林檎周辺の話だけでやめておく。というか、私がいまあまり音楽に興味を持てなくなってきているので、またいつか音楽への興味が再燃してきたときに書くことにする。


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