52. 帰省? (2000/2/4)


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祖母が亡くなった。私はまあ仕事は休めると思って、葬式に出るために帰省した。帰省? 祖母は和歌山に住んでいて、私の父親のふるさとが和歌山なのであるが、私の田舎は果たしてそこなのだろうか。

私の免許証に記された本籍地は和歌山県となっている。私の本籍は和歌山県龍神村という村にある。この村はとんでもない山奥にある。なにしろ JR の最寄駅からバスで一時間ぐらいのところにあるのだ。しかもその最寄駅がある路線というのは、日本で一番電車が揺れる路線として有名で、そこを走る列車は「振り子」という技術を使っているぐらいに路線がくねくね曲がっているらしい。

祖母が亡くなったとの知らせは早朝電話で入ったらしい。そこで私は両親とともに田舎へ向かった。弟は試験期間中で、運悪くその週に試験が四つも入っていたため、帰省したら留年の確率が飛躍的に高くなるので家で留守番することになった。私はといえば、二日休もうと思ってメールを打っておいたのだが、通夜が一日ずれてしまい、もう一日休まなければならなかったため、途中で会社に電話を入れた。いま仕事が非常に忙しいものだと思っていたが、現場のリーダーからはあっさりとOKをもらった。スケジュールの組みなおしをしていたそうである。

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私は昔、田舎へは年に二回ぐらい行っていた。それが札幌に引っ越したあとでは年に一回となり、また東京に戻ってくる頃には、親戚がうっとうしいので帰省しなくなっていた。今回田舎へ行くのは七年半ぶりである。私が親戚を疎ましく思う理由はいくつかあって、まず私は祖父母の孫が 13人いる中で下から二番目なのである。しかも年が離れているものだから、いとこたちとあまり話が合わないし、彼らは年が近いいとこ同士で仲がいいものだからあまり入っていけない。

それから、私の父親は五人兄弟なので私には父親関係の叔父叔母が四人いるのだが、全員バリバリの関西人で私とは合わないのである。バリバリの関西人と身内づきあいをするのは疲れる。私には父親関係で叔父一人に叔母三人いるのだが、特にこの叔母三人はかなりきつい。今回帰省して初めて分かったのだが、この叔母三人はかなり意地が悪い。冗談もきつい。とくにナイーブな人間でなくても、彼女らと長くいるとうんざりするだろう。こういう人たちとは距離をおいて付き合うのが良いのだろうが、私は彼女らの身内になるのでそうもいかない。

私は今回、帰省した中で一番年下で、つまり葬儀に出席した人間の中では最年少ということになる。しかし田舎にはいとこの子供が二人いて、葬儀には出席しなかったものの、少し遊べて面白かった。一番上の叔父の、二番目の子供の子供である。子供は九歳の女の子と四歳の男の子で、二人とも父親のイラン人の血が入っているせいか、美人になりそうである。ちなみに父親のイラン人の人は仕事で忙しくて来れなかったみたいだが、旅行代理店の HIS などを経ていまでは自立自営しているようなので大した人である。

私が今回帰省して一番良かったのは、この九歳の女の子と会えたことである。私はロリコン趣味なので特に嬉しい。この子は非常に勝気で、しかも異様に人見知りしないので、葬儀の手伝いに来た近所の人にまでどんどん話し掛ける。しかも自分に関心を持ってもらいたいらしく、周りの人に色々自分について質問してくれと言ってくる。それで、いとこの中で私より二つ上で、非常に面倒見がよく私とも遊んでくれた人がいて、その人が色々と彼女に質問をしていった。彼女は特に彼のことを気に入っているらしい。男の子の方は、最初は知らない人たちの中で人見知りしていたが、次第になれてくると笑いながら暴れだしてきてかわいかった。この男の子も自分に関心を持ってもらいたがっているみたいだった。子供というのはそういうものなのだろうか。

その九歳の女の子が来た時、叔母らはまず適当に食べ物を与えて、その女の子が食べている間に次々と彼女を「いじって」いる様が笑えた。叔母らは色々なことを次々と聞いていき、それに対する女の子の反応を聞いては笑い、からかってはまた笑い、女の子を肴にして場を楽しんでいた。別に叔母らに悪意はないのだろうが、私はやれやれという思いでそれを見ていた。そう、昔はその女の子ではなく、私や私の弟がその「いじられる」役だったのだ。私の性格が覚めているのも案外こんなところから来ているのかもしれない。

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亡くなった祖母というのは、先生をしていたらしい。それで、いくつになっても近所の教え子たちから愛されていたらしい。中でも通夜後の飲み会でべろべろになった老人が言うには「恵美子先生はわしらのマドンナじゃった」恵美子が祖母の名前である。老人が言うには、老人の通っていた小学校に恵美子先生が新婚ホヤホヤで赴任してきて、当時は美人で憧れていたらしい。私の知っている祖母はヨボヨボの老婆だけなのでギャップが面白い。ちなみにその老人は恵美子先生に憧れて先生になり、司先生と呼ばれていた。飲み会の時には、父親のいとこの文彦君という寺門ジモン似の人がいて、彼は司先生の教え子らしいのだが、まことしやかに司先生のことを「ムツゴロウの弟」と言っていた。司先生は本当にムツゴロウ(動物王国・畑正憲)によく似ていた。

祖母はまた当時としてはかなり進歩的だったらしい。まだろくに車が走っていなかったころから、子供たちに自動車運転免許を取るよう強く勧めたらしい。かなり前に亡くなった祖父は、一年間だけ村長を務めたこともあるらしい。一応選挙で選ばれたらしいが、村のことだから、この人に投票するよう森林組合などで決められていたりして、交代制で村長が決まっていたのかもしれない。

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祖父の埋葬は土葬であった。つまり、仏様を焼かないで木の箱に入れ、それを裏山の墓までえんやこらと持ち運び、そのまま墓の下に入れた。日本では、土葬は遅れている、野蛮だ、墓の土地が足りない、との理由で火葬に切り替わっていったが、実は欧米では土葬が多い。というのは、犯罪捜査なんかであとで墓を掘り返して遺体を調べることが出来るから、ということらしい。で、祖母は火葬で焼いたあとに埋葬することになっていた。しかし、笑えることに村には火葬場が無い。仕方がないので隣の村まで焼きに行った。なんと隣村の火葬場まで、山道をくねること一時間ぐらい掛かる。

田舎の葬式は大仰である。旅行なんかに行くと、たまに葬式の行列を見かけることがある。列の人々がそれぞれ何か儀式用の物を持って歩いているのを見たことがないだろうか。旗を持った人々が先導し、位牌や団子やなんたら飯やらを持った人々が続く。私はといえば、机、と称するものを持って歩いた。私は葬式に出席した親族では最年少なので、一番大したことのないものを持っていたんだと思う。机とは、まな板のような単なる板である。

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葬式が終わったら私はすぐにここを発たねばならなかった。しかも、電車を使っていては新幹線をのぞみにしても八時間掛かり、帰宅が深夜になってしまうので、帰りは飛行機で帰ることにした。和歌山県にも空港がある。南紀白浜空港である。いとこにそこまで送ってもらった。

その車中で、そのいとこの慎一さんと色々話をした。
「みんなおっさんになってるなあ」
いとこ 13人の中で二番目に年下の私も社会人になっている。いい兄ちゃんだったあるいとこはもう 30歳になるという。もうほとんどの人が社会人である。そうでないのは、今年就職活動をする私の弟と、現在司法試験受験中の人だけである。

通夜のあとの飲み会で、なんとなくいとこ数人が集まって仕事の話をしたのだ。

慎一さんは、色々なテスト環境を作ることの出来る装置の営業マンをやっているとのことだった。その装置は、常温よりも低い温度とか高い温度、低い湿度や高い湿度を作り出すことの出来るもので、このような装置を欲しがる企業は多岐にわたる。世の中のほとんどの製品は、動作保証温度だとか、品質保証環境、保存のための条件なんかを保証しなければならず、工業製品から食品まで広い分野で耐久試験が行われている。だから、テスト環境を作ることの出来る装置を売り込むのは、案外飛び込み営業が多いらしい。慎一さんは帰省中にも客先から電話が掛かってきて、それなりに忙しそうだった。彼がかつて甲子園にエースとして出場したのは何年前のことなのだろう。

他にも、特殊なゴムを作るメーカーの営業をやっている人だとか、通信会社でネットワークの構築や保守をやっている人だとか、会社を休職して資格を取得しようと勉強している人とか、司法試験の勉強をしながら病院の警備員のバイトをしている人とか、面白い話が色々聞けた。多分彼らからしても、七年以上ぶりに私に会ったいま、高校生になりたての私がもう社会人になっているのには、恐らく時の流れを感じていただろうと思う。

いとこのほとんどが顔を合わせるのは今が最後の時なのではないか、という話も出た。七年以上彼らと会わなかった私が言うのもなんであるが、少し寂しいことだと思う。私には母親関係のいとこがさらに三人いるのだが、彼らとも長らく会っていない。まあその彼らは私とはさらに年が離れていて、なにしろ私は彼らからお年玉を貰ったこともあるぐらい年が離れている。

私の両親や彼らの両親が亡くなったら、いとこの絆が切れてしまわないだろうか、なんてことを親は心配している。最近私の母親とその姉が、私たちいとこを改めて顔合わせしたほうが良いのではないか、と言っている。この世間、いつ誰かに頼らなくてはならなくなるか分からない、からなのだそうだ。特に私には兄弟が弟一人しかいなくて、私が困った事態になっても、弟はあまり頼りになりそうもない。多分逆に頼りにされてしまう可能性もある。こういうときはやはり三人ぐらい兄弟がいたほうが良かったなと思う。

まあでも現実問題として、兄弟従兄弟に頼るぐらいに困ることなんてあるのだろうか。学生の時の友人や職場での同僚なんかに頼れないことも確かにあるのかもしれない。はっきりいってこれはリスクヘッジの問題として捕らえなおした方が良いのだろうか。まあ、兄弟には及ばないもののそれに近い強力な関係を持つことも可能である。それは、結婚することである。広瀬香美の歌で、結婚のことを「幸せ一杯、親戚二倍」なんていう面白い歌詞があるとおり、結婚すれば相手の親兄弟にすがることも出来よう。もちろん逆に相手の兄弟から金を貸してくれと迫られることもあるかもしれないが…。

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とまあこういうことを考えると、これからの日本の親族という社会はどうなっていくのかが気になるところである。親族という社会だけでなく、さまざまな社会の行く末も気になる。既に、よく言われる核家族のこととか、育児ママたちの公園社会、子供たちの学校社会、先生と家族の社会、サラリーマンの会社の社会、などなど色々ある。

行きの新幹線の車窓を眺めると、沿線には色々な家が建っている。私は沢山の家を見た。それはそうだ。それだけの人が住んでいるのだから。また、沢山の工場を見た。大きい工場から小さい工場まである。どんな工場も、作った製品が流通ルートにのり、我々の手元に届く。よく考えたら信じられないことである。どんな都会にも、どんな郊外にも、人々が暮らし、仕事をし、物が作られ消費されていく。そういう当たり前のことも、実際に新幹線から窓を眺めることで、机上の想像とは違ったリアルな再認識を迫られるのである。

私は帰りは新幹線ではなく飛行機に乗ったのだが、私はこの空を飛ぶ不思議な乗り物を飛ばすことを退屈な日常の仕事としている人々を見た。もう空を飛ぶことは当たり前なのだ。私たちがデスクワークをし、営業に出掛け、退屈な講義を聞き、急いでレポートや仕事やノルマを仕上げるように、飛行機や施設を整備し、飛行機を操縦し、飛行機に添乗してサービスをする人々がいる。もちろん特別な人々ではなく、望むなら我々にも可能である。さすがに操縦士になるのはかなり難しいだろうが。

ひさびさの旅行は私にとって、現実世界を改めて認識させてくれた有意義なものだった。通勤電車で本を読んでいた私の世界観の偏りに気づかせてくれた。まあでも多分現実世界だけに生きている人には申し訳ないが、本を読まない人間の現実の方が狭いのは疑いないのだが。


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