48. 仕事人間と恋愛人間 (1999/11/12)


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私はつい最近、間近に仕事人間を見た。ここで言う仕事人間とは、仕事が人生の喜びの大半を占める人のことである。これまでは傍から見たりテレビで見るだけだったが、実際に会話らしきものをしたのは初めてである。これは決して馬鹿にしているわけではなく、実際に見て改めて現実を知ったと言いたいだけである。

その人は某メーカーの生協の前にいた。そのメーカーではその日、自社の技術を構内に展示するというイベントがあり、来賓も来ていたようである。その客の一人がその人だった。なんでもその人はそのメーカーの元社員で、既に定年を迎えて現在 68歳。彼は生協の前で狭山茶を売っていた。自分で作ったのか、それとも流通させているだけなのかは良く分からない。

私は、このごろは煎茶がおいしくなる時期だなあ、なんて思いながら、100g 500円のお茶を買ったのだった。すると思いもかけなくその人が話し掛けてきた。曰く「どちらの方ですか?」私は、どうせ言っても分からないだろうな、と思いつつ自分の会社名を言った。案の定わからなかったらしい。そのあとで、聞いてもいないのにその人は自分の職歴を簡略に述べ始めた。人のよさそうなおじさんだったので、別段嫌味とも思えなかった。私が思ったのは、その人はよほど自分の人生の中の職歴に誇りを持っているんだなあ、そして定年になってよほど自信を無くしたり寂しかったりしたのだろうなあ、と要らぬ勘繰りをした。

私の会社は若く、定年を迎えるような人もまだいないので、このようなおじさんを先輩に持ったことはない。逆に、いまの職場は高齢者が多いので、何かしら違和感を持つ。が、考えてみればこれが自然で、労働人口は 15歳から60歳ぐらいまでいるのだから、これらの年齢層の労働者がまんべんなく属しているような会社が正しい会社なのではないかと改めて思う。

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ここからがダークな話になっていく。

結局日本という国はダメだなと思う。それは、労働者を極度に働かせることで、ゆがんだ人間を作ったという事実があるからである。もちろんそのおかげで我々若い世代は豊かな暮らしが出来るのだが、よく考えてみるとそれはおかしい。

最近戦前に関する本を読んだ。普通の人は、高度成長期以前の日本は貧乏だったと思っているかもしれない。とんでもない。戦前でも、クーラーや洗濯機があった。無かったのはテレビぐらいだそうである。特にクーラーなんかは、高島屋の日本橋店では全館クーラーが入っていることを売りに開店したそうである。

高度成長期は、敗戦後の日本を建て直すのに必要だったのかもしれない。が、そんなに急激に発展する必要があったのだろうか。まあ結果論なのであまり言ってもしょうがない。ただ言えるのは、なんにせよ今の日本があるのもこれまでの積み重ねだという事実である。

日本のメーカーは特に働かされたらしい。大手メーカーの部長職にある人間の大半は、自分が 50代なのに 20代の奥さんを貰っていたといううわさもある。そのぐらい若い頃は働かされたらしいし、管理職になってますます忙しくなったりする。私の父親も、私が子供の頃によく働いていたらしい。そのせいで子供とのコミュニケーションがあまりうまくいっていないんじゃないか、と母親が言うくらいである。

まあそこまではいい。そこまではまだ正常な人間だからである。よく言われるのは、定年後に何を楽しみに生きたらいいのか分からなくなる人が多いらしい。冒頭で私が直接会話したおじさんは、おそらく仕事の話がしたかったのだと思う。私は会話が終わって立ち去ったあとに、少し考えてみた。私は、自分の仕事のことをその人に話し、そしてその人が昔関わった仕事についていろいろと聞けば良かったのではないか。そうしたら、私は面白い話が聞けるかもしれないというメリットがあり、その人にとってみれば仕事の話が出来るというメリットがあり、実に身のある会話になったのかもしれない。若い私は、その人に年齢を聞くことと、そのメーカーについての当り障りのない話を少ししか出来なかった。

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そこでふと思うのだが、世の中には恋愛人間という人種が大量に発生している。テレビの無責任な影響力によって、恋愛至上主義が若者にはびこり、恋愛することが人生でもっとも充実した時間だと思っている人間が多い。自分の努力のほとんどを恋愛につぎ込み、ファッション、ダイエット、情報誌購読、友達との会話、みんな恋愛をするためだけに注いでいる人々である。彼らは、自分が恋愛の定年を迎えたあとのことを考えているのだろうか。それとも、恋愛に定年は存在しないのだろうか?

20年前ぐらいのトップモデルを集めて、おばさん世代へのファッションショウが行われたらしい。それを見たある記者は、見苦しかった、でも慣れればこれが普通になるのかも、などという感想を残した。いまの若い世代は 40代になってもファッショナブルでいたいと思うのだろうか。はっきりいって非常に楽しみである。

で結局、老けたあとで彼らは、若い人を捕まえて「自分は昔これだけの恋愛遍歴があった」などと言って疎まれるのではないだろうか。一番頭が柔軟で、何でも出来るような年齢のころ、彼らがやったのは合コンやスキーや旅行、全精力をファッションなどにつぎ込んできたことになるわけだから、その後の人生はどうなるのだろう。そういう世代同士仲良く 30代、40代、50代までも遊びつづけるのだろうか。

もちろん私は、たとえば若い頃にスポーツを一生懸命やってきた人とか、勉強を一生懸命やってきた人、自分の視野を広げるために色々なことをやった人だからといって、その人が歳をとったあとに充実した人生が送れるとは思わないのだが。少し前に、若者たちの間で自分探しがはやっている、なんていう話が出ていたが、結局存在しない自分を抱えたまま空虚な日常に入っていくのではないだろうか。

ではおまえはどうなんだ、と言われると私もツラい。私はちなみに大学時代はほとんど遊んでいないので、もっと遊んでおけば良かった、と思う時もある。遊んだ方が有意義な人生を送れたのではないか、と思うこともある。それは、社会人になってから少し遊んでみて、これは確かに面白いな、と思ったからである。まあ、同時に「なんて金が掛かるんだ」とも思ったものだが。

遊びに金が掛かるのはある程度しょうがないにせよ、あまり金の掛からない遊び方を若者がしたがらないのは、メディアによる洗脳が原因であることは疑いない。なぜなら、若者たちに遊び方を紹介するのは、あくまで金儲け媒体だからである。トランプを仲間内でやるのも面白いと思うのだが、トランプの色々なルールを紹介するような雑誌はまず存在しない。少なくともメジャーカルチャーには存在しないように思える。なんだかこの点だけでも話が広がりそうなので、ここではやめておく。

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総評。いまの世の中にはたくさん面白いことがあるんだね。仕事然り、恋愛然り。よかったよかった。多くの人がそれに満足して生きているわけだし。ただ、悲しい結末にはなって欲しくないので、みんな考えて欲しいなと思う。


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