4. アニメ (1998/11/19)


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別に何も今日むりやり新たに項目を追加してもしょうがないのだが、昨日とあるアニメを見ていて思ったことがあるので、今日はそれだけ書くことにする。

「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメがヒットしたという事件は、アニメが好きでもない人にも周知の事実だと思う。で、そのアニメの監督が庵野秀明という人であるというのも知られているかもしれないし、製作会社が GAINAX という会社だということも知られているかもしれない。この会社は最近脱税事件を起こしたので、記憶にも新しい。

で、新世紀エヴァンゲリオンが 1995年の作品だったことを考えれば、テレビシリーズでこの会社がこの 1998年に新しいアニメを作った(作っている)のは一応三年ぶりということになる。そして待たれたその作品が、少女漫画を原作としている点は、監督の庵野秀明が少女漫画も好きだという点を考えれば不思議ではない。

私は、自ら少女漫画好きを名乗るぐらいであるが、残念ながらこの作品「彼氏彼女の事情」はアニメの方にその原作の存在を教えてもらうという不本意なことになってしまった。ちなみに、私はこの漫画の作者の処女単行本は持っていたので、それはそれでイーブンとしておこう(おいおい)。ところで、私がこのことを同僚のMに言ったら、彼はなんとこの処女単行本のタイトルを当てたばかりか、この作者の単行本は全部持っているという。以来私はサブカルチャーに関して彼をライバル視するようになったが、それはまた別の話にしよう。

で、私はアニメの第一話を見て、このアニメは素晴らしいと思った。続きを早く見たくなり、早速職場の近くにある本屋でまず二冊、そして現行の残り四冊をすべて買い、読破した。話の筋はここでは説明しない...というのも不親切なので、一応友人に送ったメールからその説明を引用してここに置いておくことにする。

それで、アニメは以降欠かさず見ている。もちろん、もう既に漫画で読んでしまった部分を見るのではあるが。だがやはり面白い。しかし、昨日はどうも駄目だった。アニメの方がどうやら刺激が強いと言うか、演出過剰というか、素直に話を楽しめなかった。アニメ製作会社 GAINAX は独特の演出を行うのだが、その演出を純粋に非難するわけではない。今回の GAINAX の仕事は、私の好きなギャグ調少女漫画の演出を忠実に再現していたと思う。しかし、それを見ていて、どうも何か違うなと思った。このような演出は漫画だけの特権なのではないかと思う。

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ここまで来ていきなりこう言うのもなんであるが、私はアニメが嫌いである。ついでにいえば、テレビドラマも嫌いである。

アニメには原作が付き物である。原作は大抵漫画である。原作の無いアニメはクソであることが多い。また、アニメは原作の二次的な産物である。私は、アニメが原作に味を加えたという例をいまだかつて見たことがない。

私は、アニメやドラマを毎週楽しみにしている人間とは、正直言って表層的な付き合いしか出来ないと思う。ちょっと言葉を交わしては愛想笑いをするぐらいだろう。

アニメやドラマには、物語そのものよりも優先されるべきものがあるように思える。

たとえば、ドラマなら分かりやすい。トレンドな俳優や女優を目当てに視聴者はチャンネルを合わせる。物語はあくまで添え物で、役者が中心に据えられている。私は最近(?)、「ショムニ」というヒットしたドラマを見た。このドラマは面白かった。漫画が原作だそうである。だが、最近のドラマでは、いろんな場所で「配役だけで視聴率を取った」といわれるものが多いし、たとえば「ロング・バケーション」という作品は主演二人で持っていたように思えるし、特に山口智子は素のままで演じていて、確かに私も彼女の素(?)の性格は好きだけど、物語が彼女に合わせて作られていったようなところが大きいと思う。

アニメもドラマに似ている。アニメもキャラで持っている部分が大きいと思う。それも、刺激的なキャラクターがすべてである。刺激的なキャラクターに刺激的なシチュエーション。たとえば、あからさまに低年齢向けのアニメを見るといい。強い主人公が悪を倒す物語が延々と続いていく。それを見る子供は、強い主人公を自己に投影したり、あこがれたりして楽しむ。アニメ好きはそれを笑えない。大抵のアニメには、強かったり、魅力があったり、強い信念を持っていたり(人生適当に生きるほうがいい、というのも強い信念に他ならない)、あるいは、かよわかったり、なさけなかったり、ひたすら酷い目にあったり、そういったキャラの性格をとことんまでデフォルメし、そのキャラクター性だけで物語を成り立たせている。

アニメやドラマというものは、人間の幼稚な部分に訴えかけるものが強いのだろう。別に幼稚なのが俗悪だと言いたいのではない。刺激が強いものであることは確かである。しかも、単純で強力な刺激である。だから私は、これからもっと単純で強力ですごく幼稚なアニメやドラマが生まれる可能性はあると思うし、いま現在でもそういうものは存在すると思う。そして、単純で強い刺激にすぐに影響される人間は大勢いると思う。結論としては、やはりこういうものは危険なのではないかと思う。現に、日本のアニメが世界で異常な高視聴率をあげている例も見られる。アニメ関係者は、自分たちの作り上げた「文化」を誇らしく思っていることだろう。しかし、これは文化ではなく、一種のポルノであると思っていただきたい。

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じゃあ漫画はどうなんだ、という突っ込みをあなたはするかもしれない。

漫画も多分そうである。少なくとも、メインストリームにある漫画はそうだと思う。だが、少なくとも漫画には作家性があり、そういう意味では小説と同列に置くべきものである。多くの人間が製作に携われば、一人一人の人間が感じる微妙な感情は薄まり、誰もが感じる単純で強い刺激のみが増幅されてしまうものである。まあ、詳しいことはいずれ「漫画」という題名でまた書きたいと思う。

それにしても、最初の「彼氏彼女の事情」に戻るが、漫画に許されてアニメに許されない演出、とはなんなのか、それを語って締めたいと思う。

小説(随筆なども)や漫画は、一人の作家が書いているので、彼らの妄想のようなものがにじみ出るものである。私はそれが好きである。妄想は、それぞれの人によって多様で、不思議な魅力を持っている。ある人の妄想的な話を聞くと、すごく奇抜でとんでもないなと思いつつも、どこかで味わったかと思うほどの懐かしさのようなものも感じる。他人の夢の話を聞くとよく分かるのではないか。こういうものは、いわゆる「再現映像」として表現することは不可能なのではないかと思う。だから、アニメや実写では難しいのだと思う。もちろん、実写でそれに挑戦した人も多いと思う。映画なんかで表現しようとした人も多いだろう。だが、成功したものは、再現しようと思った人が全権で監督なりなんなりで一人で作り上げた映像なのではないかと思う。そうでなければ、どこか作られたような、嘘っぽい映像になるに違いない。

アニメには劇場的なムードが漂う。小説や漫画には夢の中のようなムードが漂う。この違いは大きいと思う。だから、もし同じような演出が両者で行われたとすると、その意味は劇的に異なってきてしまう。私はそのように結論する。結果、アニメの「彼氏彼女の事情」を見ると、妙な空騒ぎの劇団の劇を見ているような気分も漂ってきてしまうのだろう。次回の予告の部分を見て特にそう思う。それから、ただでさえアニメはキャラを強調しがちになるので、その点も悪いのではないかと思う。あといま気づいたが、漫画を読んでいると「一人称」が自分の内部に深く浸透するのだが、アニメだとどうしても、本来一人称であるはずの人物が対面にいるような気がする。いわゆる「モノローグ(独白)」がきっちりとは成立しないからなのだろう。

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庵野監督は少女漫画好きな部分には期待できるが、村上龍の原作を映画化したりする点からして、やはりアニメから出てきた人なのだなと思う。そしてなおさら、GAINAX にも期待できないだろう。アニメという世界は閉鎖的みたいなので、恐らくいまのアニメは変わることはないと思う。やはり優先されるのは、単純で強い刺激、キャラクター、それだけである。  

ついでに言えば、私が最近見たアニメ映画「MEMORIES」は、本当にさっぱりした作品だった。はっきりいって、詰まらなかった。第二話と第三話しか見ていないのだが、特に第二話(最臭兵器)は最低、メカオタクと権威主義者のためにある作品だと言っていい。最後のオチは、映像だからこそ使えるオチだったが、これより何倍も面白いオチなら SF にいくらでも転がっている。第三話(砲台の街)は、詰まらなかったことは確かであるが、これは映像特にアニメ映像でしか表現しがたい点に関しては、意義のある作品であると言えないこともない。だが、そもそも表現方法が悪かったと言ってしまえばそれまでである。同じようなテーマを、いままでに多くの人間が沢山書いてきて、読者に伝えるために長い時間読者を本に向かわせようとしたほどの大きなテーマなのに、それを観客に 30分かそこらで理解させようとするような作品を作ること自体、なにか人を馬鹿にしている気がする。


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gomi@din.or.jp