3. テレビ (1998/11/18)


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よせばいいのに、毎日何か書いているので、ネタをむりやりひねりだそうとする傾向が出てきそうである。今回は、前回までのようにダラダラとは書かず、適当に言いたい事だけを喋って、ネタを全部喋りきろうとせずに、適当にまとまりがついたらその時点で区切って終わらせてしまいたいと思う。

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世の中の、特に大衆文化というものは、一つのすごく影響力のあるものに支配されやすいものである。いまは、丁度テレビが衰退してきている時期にあたるのではないかと思う。大衆文化を支えるものはもちろんテレビだけではないが、たとえば音楽一つとってみても、テレビとは切っても切れないものになっている。見知らぬ者同士が話すときに、テレビの話ならば誰もが知っているので都合がいい。とはいっても、昔ほどにみんなが見ている番組というものは無くなってきてはいるが。あと、野球の話もみんな知っているが、それだってテレビでナイターが無ければ始まらない。スポーツ新聞を見ても良いのだが。

ところで、ロンドンブーツ一号二号がやっている「ガサ入れ」というコーナーが何故かすごく人気があるようだ。普段あまりテレビを見ないと思われているようなタレントが、テレビ番組で何を見るかといわれてこのコーナーを挙げる場面をよく見かけた覚えがある。見かけたのもテレビの中だけど。このまえなんか、SPEED のタカコだかまでがこのコーナーの名前を出して、私は非常に驚いた。というか、みんな驚いたと思う。そのときのタカコのコーナーに対する感想の言葉はほほえましい。「いまの世の中はこうなっているんだ」みたいなことを言ったと思う。

多分世の中の多くの人は、テレビから情報を仕入れているのではないかと思う。特に若い人たちは。

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いきなりだが、テレビは人間の個性を奪う。私はそう思う。
↑文章の一部の色を変えるのは、テレビのテロップの手法に似ている

世の中には個性溢れる人がいる。素晴らしいと思う。だが、テレビの中では、そしてテレビを見て育っている人間達のコミュニティーの中では、個性溢れる人は以下のどちらかの評価を受けることになる。「天然ボケ」または「寒い」。もともと人間は、自分が普通の人間であるかどうかなんてわからないはずなのに、テレビを見て何かを普通だと感じ取り、どの普通という基準を元に、あらゆることを判断してしまっている。

そして、なにかすごくくだらない違いのことを「個性」と呼び、賞賛する。特に SPEED や SMAP のメンバーなんかがその対象となる。彼ら彼女らは確かに個性はある。だが、あの程度では「個性に溢れている」とは言わないし、言って欲しくない。

それはいいとして、なぜテレビが人間の個性を奪うか。その説明をしていきたいと思う。

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人間と言うものは、集団の中にあって初めて本質が決定される。まずそのことに納得していただきたい。たとえば、もしあなたが明るい人であったとしても、周りに誰もいない場所で意味も無く騒ぎ出すだろうか? それから、言葉も通じない外国人に対して、何か言葉で笑わせるようなことを言うだろうか? 逆に、親しい友人に対して自分の暗黒面をさらけ出すだろうか?

それから、生まれたときに既に性格が決まっているということはありえない。遺伝子で性格が決まることは多分ない。いや、あるかもしれないが。あったとしても、すごく些細なことか、その遺伝子がまず肉体に作用を及ぼし、その結果性格に影響することは大いにあるだろうが。あと、血液型が性格に影響するかどうかについては、実はある程度科学的に認められているっぽい。

面白い話を聞いた。大きな組織の中で、すごく優秀な人間だけを集めてプロジェクトを組ませた。トップは、さぞかしこのプロジェクトが成果をあげるだろうと期待したが、たいしたことはなかった。また、組織の荷物のような人材だけを集めてプロジェクトを組ませてみた場合、その中から自然にリーダーが生まれ、それはそれでうまくプロジェクトが機能したそうである。

もちろん、船頭うんぬんの話のように、船頭だらけの船はうまく進まない、つまり船頭は船頭だけの世界でもあくまで全員船頭であるという話も判らなくは無いが。だがそれは、歳をとって人間が固まってしまうことによるものだと思う。若い人は、周りを見渡してみて船頭が多ければ、敢えて船頭のまま自分を方向付けることはないだろう。

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このあたりで、ちょっと具体的で内輪の話をしたいと思う。

私には弟がいるが、この弟を見るたびに、一時は色々と考えたものである。兄弟で同じ部屋だったのであるが、私は比較的綺麗好きであり、弟はその辺はおおざっぱである。私は、なぜ弟が自分から部屋を綺麗にしないのか、ずいぶん考えたものだし、色々と弟に対して注意をしてきた。しかし、弟が部屋を片付けないのは当たり前なのである。なぜなら、部屋が汚くなる前に、私が綺麗にしてしまうからである。だから、彼は、部屋が汚くて不快だと思う感情を持っていない。つまり、同じ部屋に二人がいると、片方は綺麗好きになり、片方は不精になる。特に、身内ではなおさらである。

あと、集団で幹事を引き受ける人間も大体が固定である。最初に幹事をやった人間は、次の会合の心配もするから次も幹事をやることになる。幹事以外の人間は、今回も自分が幹事をしなかったので、次も誰かがやってくれると考える。もちろん、一番最初にその集団が集まったときに、それぞれ前の集団で幹事をやっていた人間が二人以上いたとする。彼らは、今回の集団でも自分が幹事をやらなければいけないかと一応身構える。誰も幹事をやりそうになかったと見たら、自分が名乗り出るしかないと考える。誰かが幹事を引き受けると言ったら、今回の集団では自分が幹事をやる必要はなかったようだと思い、いままで幹事をやっていたことを押さえる。

深層心理学のテキストでは、家族の中の「できそこない」の成り立ちについて理論付けるものが出てくる。誰の理論かは忘れたが、これは非常に興味深いので解説しておくことにしよう。その家族には、できそこないの息子がいたとする。そうすると、大抵ほかの家族は「まともな人」になる。もちろん彼らは元々は「まともな人」ではない。だが、自分の悪い面をその「できそこないの息子」に投影して、自分自身の悪い面については棚に上げて、その「できそこないの息子」の悪い面を注意する。そして、自分自身の悪い面を自分から消してしまう。そうすることで、彼らは「まともな人」になる。そして、その「できそこないの息子」の悪い面は、元々は自分のものでもあったわけだから、その「できそこないの息子」が実際に「悪いこと」をしようと、最初は注意するが結局は許してしまう。ではなぜそもそも「できそこないの息子」が生まれるか。それは、家族の中でその役割に最も適した人間が自然に選ばれてしまうのである。そして、一度そうなったら、何かが起きない限りずっとそのままである。人間には誰しも暗黒面があり、その暗黒面を誰かに投影してしまうものである。たとえば、あなたが真面目に働いていて、それで楽して生きている人間が嫌いだとしても、それはあなたの「本当は楽して生きたい!他人を踏み台にしても!!」という悪い心を、その人に投影しているのであり、その人が嫌いなのと同時に自分の悪い心も嫌悪しているのである。そうして、あたかも自分の悪い部分を自己(エゴ)から切り離し、自己を安定させようと努力しているのである。

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そろそろ話をまとめよう。

人間というものは、特に若い人間というものは、集まれば、その集団に足りない何かを補おうとするのである。暗ければ明るい人が生まれ、リーダーがいなければリーダーが生まれる。みんな真面目ならばふざける人間が生まれるし、みんなふざけていれば真面目な人間が生まれる。

ところがどうだろう。あらゆる集団には、テレビが浸透している。テレビの中に面白い人がいれば、別に自分が面白くある必要はない。新しく面白いことを考えるのではなく、ある時にテレビで誰かが言った面白いことを参照すればいいだけである。もちろん、集団には面白い人もいる。しかし、そんな人は多分テレビを見ていないか、見ていても我々とは違いぼんやり見ているか、どちらかである。ちょっと理知的に面白い人というのもいるが、彼らは、自分の所属している集団も、テレビの中の集団と同じようにしたいと考えている人間である。だから、自分の中から湧き上がる自然な面白さではない。それだったらテレビの中の人間の方が面白いに決まっている。もちろん、ブラウン管の中の人間よりも、自分の集団の中にいる人間の方が身近で、自分に反応してくれるので、面白いのかもしれないが。

そんなわけで、私は、昔は面白い人間が山ほどいたはずだと考えている。しかし、いまではごく一部である。もちろん、テレビがあるからこそ、誰が面白い人間かどうか分かるし、面白いかどうかが基準として成り立ったのであるが。昔は、誰が面白い人だとかいうのではなく、誰と話しても心地よかったのだと思う。面白い面白くないという概念そのものが存在しなかった。

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もっと一般的な話もしてみよう。

いまの若者を調査するのに、渋谷の若い男女100人に聞くのは、あからさまにテレビというメディアが我々をあおっている。私は最近、どういう成り行きか知らないが、自分とは全く違うタイプの人間に対して「いままでに何人と付き合った?」と聞いた。すると二人とも「六人しか...」「四人しか付き合っていない」と言っていた。なぜここで「しか」が出てくるのか。なぜこんなところでそんな言葉が出てくるのだろうか。まあ私が単に世間知らずで、世の人々は最低 10人は付き合うのが普通なのかもしれないが。まあ、どのコミュニティにもすごい人間がいて、たとえば、自分はいままでで 100人は...とか言うのを聞いたりするのかもしれない。だとするとテレビだけを責めるわけにもいかないが。私は、テレビがあおることで、たとえば本来は首都圏の一部の私立校の中だけの世界が、日本全国の中のやはり一部の学校に広がることは素晴らしいことだと思う。だが、そのことで精神的に不安定な人間も大勢生産されることだろう。

テレビは非常に広がりのあるメディアである。だからこそよいのかもしれないが、逆にそれが災いすることも多い。たとえば、非常にプライベートなことが、おおやけの場で会話に登ることを多くしてしまったのもその一つである。たとえば、何か性格面で暗い人がいたとする。そこで、そういう人が見ることを予想して、テレビのスタッフが番組を作ったとする。そこまではよい。だが、テレビ的なことを考えると、どうしても広がってしまい、暗くはない普通の出演者が暗い人に突っ込んだり、普通の人の視点が強く入ってきて、結局全然考えていないような番組が出来あがるだろう。まあそんな企画さえ登らないというのが現実だろうが。だが、活字ならばどうだろうか。作者は一対一であなたに話し掛けてくるはずである。

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最後に。

私の話もどうやら広がりすぎて、非常に散漫になってしまった。結局ダラダラ書いてしまった。このネタだけで多分三回五回分ぐらい話せるはずが、どうやらこれで終わってしまうようだ。しかも、個々の内容をあまり追求できないままである。でもまあ、雑文としてはこんなものかもしれない。少なくとも、三回五回に分けるよりは退屈させなかったと思う。


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gomi@din.or.jp