22. 死への欲望 (1999/2/8)


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何の脈絡もなく「死への欲望」とかいうと、何か訳の分からないロックやパンクの歌詞を想像してしまうが、今回話す内容は心理学の話である。

フロイトは晩年近くになって「死への欲望」ということを言い出して、色々な心理学者からいまでも「彼の理論はそこからおかしくなった」と言われているが、私はそうは思わない。フロイトは、当時タブーとさえ言えた性の問題を自分の精神分析学の真ん中に据えた偉大な学者である。だから、死への欲望に関しても、性に関係があるのではないかと思う。はっきり言ってしまえば、彼が何を言おうとしているかというと、

むちゃくちゃにしてー

といった心理をうまく精神分析学で説明したかったのだろう。フロイトは男性だが、主に女性の感じるこのような感情を、人間の精神構造を理解する上で重要な材料だと判断したのではないかと思われる。

死ぬ瞬間は甘美である、だとか、好きな人間に自分を食べられるのは快感、だとかいうことが、ごくごく一部の芸術家によって言われている。実際はどうなのだろうか。

私は、このようなフロイトの考えを否定する心理学者には、かなりの勘違いをしているのではないかと思わざるをえない。彼らは、たとえば
「人間は自己犠牲が出来る生き物である。」
といったことをフロイトが言いたかったのではないかと思っているのではないか。だがこれは次元の異なる話である。人間がなぜ自己犠牲できるのか、には諸説あると思うが、私は以下の考えを持っている。人間は自分の幻想世界の中に生きているために、たとえ現実世界で生命が途絶えようとも、幻想世界で自分が生き続けられることを優先するのだ。だから、武士が切腹するのも、名誉をたもった自分が死語も保たれると考えているからだし、自分の子供の命と引き換えに死のうとする母親は、まあこの場合は生物の根源的な本能もあるかもしれないが、自分の子供が生き続ける想像世界を保とうとしているのだ。自分が死んだら、本来ならば自分にとっての全ての世界が死の瞬間に消滅してしまうのであるが、自分の死んだあとの世界を想像できる人間は、現実の世界よりもむしろその世界を保つことのできる自分を保とうとするからではないかと思う。

フロイトの言っている「死への欲望」とは、こんな文化的なことではない。生き物としての根源的な部分に根差したものだと私は思う。

人間には生きるための欲望があるのに、どうして死への欲望がないと言えようか。人間は、生き続けると共に、必ず死を迎えるのだから。

進化論的に言えば、死への欲望というものを持った生き物は、持たない生き物との生存競争に敗れそうなものである。だが、それはおそらく間違いだろう。永遠の生命を持った種と、有限の生命を持った種がいたとして、どちらが生存競争に勝ち残るだろうか。これはよく言われる話で、結論としては、有限の生命を持った種の方が勝つと言われている。なぜかというと、有限の生命を持った種は、世代を経るに従って種として優秀になっていくのに対して、無限の生命を持った種は個体がずっと生き続けるので進歩がない。この考え方を延長していくと、生き物は適度の「死への欲望」を持っていた方が、種としての進歩の速度が速いことになる。むろん、なにか問題のある個体がその欲望を持ちやすい種の方が進歩が速くなる。

以上のような説明は、あくまで説明付けに過ぎないので、もっと原理的なことを話したいと思う。

そもそも生きるための欲望とはなんなのだろうか。生きるための欲望を持った生き物は、生き続けようとする。生き続ける、というのはどういうことか。その生き物が、生き物としてのアイデンティティを持って体組織を維持しつづけ、活動しつづけることである。つまり、逆にいえば、活動しつづける生き物は、生きるための欲望を持っている、と言うことが出来る。

ここにゼンマイ人形があったとする。人形は生きていない。だが、ゼンマイを回すことで、活動することが出来る。だから、あなたがゼンマイを回した人形は、あなたによって生命を与えられ、活動を始め、つまり生きるための欲望を持ったと考えることも出来る。そしていつか止まる。具体的には、ゼンマイが徐々に緩んでいき、最終的には止まってしまう。これは「死」である。

この人形のゼンマイは、いわば「脳」であり「筋肉」でもある。つまり、ゼンマイがきつく巻かれている状態では、人形は活動しようとして、ギアに動力を送る。この状態は、いわばこの人形が「生きるための欲望」を持っていることを意味する。そして、いつかゼンマイは緩んでいく。つまり、「生きるための欲望」が萎えてきたのである。最終的に人形は、死を選ぶ。人形は何を考えて止まるのか、普通は考えないが、あえて理由づけしてみることも出来る。頭がボケてきて眠るように死んだのか、生きる気力がなくなって死んだのか、死にたいと思って死んだのか。それとも、本当は生き続けたかったが体が言うことをきかなくなったのか。それは分からない。

つまり、人間の意志もこんなものである。人間がはっきりと「これは自分の意志だ」と思ったものだけが意志ではない。このような意志は、最も意味の狭い「意志」である。それに対して、最も広い意味での「意志」は、「結果」と完全に同義になる。つまり、本当はこうしたかったけどああなっちゃった、といった場合、最も狭い意味での意志は「こうしたかった」という部分であり、最も広い意味での意志は「ああなっちゃった」の部分である。普段我々が「意志」という言葉を使うときは、その定義は狭くなっているが、その方が便利だからであるに過ぎない。

人間の場合、遺伝子に死がプログラムされている、と言われている。時がたてば肉体が老いていき、脳細胞が死んでいき、ニューロンが疎になっていく。遺伝子に死がプログラムされていなければ、人間はいつまでも栄養を摂りつづけることにより生き生きとした肉体を保てるかもしれない。だが、私が思うに、脳だけはそうもいかないのではないかと思う。プログラムされたコンピュータはいつまでも同じ作業を続けることが出来るが、人間はそうもいかない。その代わり、生きている限り学習しつづけることが出来る。そのような構造を持った脳は、いつまでも同じ状態は保てないのである。

また、人間は常に空気を吸って、食べ物や飲み物を摂取しつづけなければ生きていけない。もちろん、常に死の危険を回避しつづけなければ生きていけない。生き物が生き続けるために払う努力はかなりのものである。それもすべて意志によって行われていると考えるべきだろう。

では、ここに「死への欲望」が入る余地がどこにあるのだろうか。

どうも原理的に考えすぎたようである。

多分、性行為のためにあるのではないかと思う。性行為をどう客観的に見ても、あれは男が女を攻撃しているようにしか見えない。もし女性に「死への欲望」がなければ、男が性行為をしようと思っても、撃退しようとするか全力で逃げるか、そのどちらかであろう。それをあえて男性に生き物としての自分の身を委ねるためには、生き物としては致命的な「相手に無防備な自分をさらしたいと思う欲望」が用意されなければならないのではないだろうか。生き物として自分の身を守りつつも、種を保存するために無防備な自分をさらさなければならない。このようなアンビバレントな二つの意志をバランスよく持たなければ、種としては滅びるしかないのである。女性の体が男性に比べて弱いのも、そうでなければバランスが取れないからだろう。


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gomi@din.or.jp