2. 正と負のアプローチ (1998/11/17)


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今回は、身もふたも無い話をしてみたいと思う。こういう話はあまりだらだらやっても仕方が無いので、今回は手短かにいきたい。

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あなたは誉められると嬉しいと思うか? 大抵の人は嬉しいに違いない。また、誉めてきた相手にもよるかもしれない。特定の相手に誉められると特に嬉しいかもしれないし、こいつにだけは誉められたくない、と思うこともあるだろう。

だが、誉められること自体が嫌いな人間もいる。こういう人たちは、逆にけなされると嬉しいみたいなところがある。特に身近な人間にけなされると嬉しがるものである。こういう言い方をしたらほんと、身もふたもない。ただ単に、ちょっとからかうのも親愛の情の印だ、というのをちょっといやらしく言っただけみたいだ。

世の中には、サドとマゾの人がいるという事実もある。サドは人をいたぶるのが好きで、その相手が好きであればあるほどいたぶりたくなるものなのだろう。マゾは人にいたぶられるのが好きで、いたぶられる相手が好きであればあるほど興奮するに違いない。まあ一説によれば、マゾというのは単に自己愛で、自分の描いたようにいたぶられるのでなければ逆に嫌がる、と主張する人もいるが、確かにそれもあるが大体は違うと私は思う。

じゃあ、こういう性格というのはどこから生まれるのだろうか。

もちろんすべて分かっているわけではないが、親の、特に母親の影響が強いことが知られている。よくある説明では、
「子供というものは親から好かれていると思いたくてしょうがないので、親に何をされようと、自分への親愛の表現であると判断する」
あるいは、もっと痛々しいものとなると、
「親から虐待を受けた子供と言うものは、まさか自分が親にとってどうでもよい、あるいは毛嫌いさっるような対象であるという事実を認めることができないので、必死で拒絶する。だから、虐待を受ければ受けるほど自分が愛されていると思うようになる。そのようにして育った子供は、たとえば女性ならば、暴力的な男性を選ぶようになり、その酷い目に合わされれば合わされるほど、実は自分は愛されているのだと思う。」

また、このような半先天的な要因ではなくて、後天的なものもある。たとえば、深夜やっていたよくわからないフランスでは、家庭内暴力を振るう夫に対して、徐々に愛するようになる婦人の存在を浮き出している。

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私も同じような体験を持っている。私は小学校五年ぐらいのころに、クラスの女子に対して危ない事をするということで、教師から六発殴られたらしい。危ない事、というのは、あなたのいま想像しているような種類のことではない。私の記憶にあるのでは、下敷きを手裏剣のように投げて遊んでいて、その下敷きがある女子の目の上に当たったことがあって、それで怒られたことがあるということだ。だが、別に私はいじめっこだったわけでも、乱暴者であったわけでもない。むしろ女子とは親しかった。その目の上に当ててしまった人ともよく親しく話をした覚えがある。

話を続けよう。私は教師に六発殴られた。その時の記憶はなぜか欠落している。そこまで印象的な事件が起きたことは明らかな事実である。しかし、これがトラウマというものなのか、さっぱり覚えていないのである。で、その事件があったあとのことだろうが、なぜか私はその教師が好きになった。誰かの顔を描くという授業でも、なぜかその先生の絵を描いた。私が二ヶ月前まで掛けていた目がねも、その教師の影響で、大きなとんぼ目がねだった。どうでもいいが MS-IME98 はクソである。

だからといって私は、別に殴られるのが好きなわけではないので、さきほどまでの話とは意味合い的に違ってきてしまうかもしれない。ともかく、人間が誰かを好きになったり、なにかされるのが好きだということには、その人が自分にいいことをしてくれるという事とは関係ないことが分かる。むしろ、良いことだろうが悪いことだろうが、その絶対値が問題なのだと思わされる。

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ちょっと社会派の話題に変えてみよう。

乱暴な言い方をすると、世の中には、育ちの良い人間と、育ちの悪い人間がいる。これはあまり通俗的に受け取らないで欲しい。私はこれからあなたのことを「育ちの悪い人間だ」ということがあっても、それは社会学的な表現だと思って聞いて欲しい。

見知らぬ誰かに誉められたとする。あなたが。そのとき、とにかく嬉しいと思ったあなたは多分「育ちのいい人間」だと思う。反対に、なにか自分が見下げられているような感じがしたりとかで、腹がたったあなたは多分「育ちの悪い人間」だと思う。乱暴だが、この分け方は多分正しいと思う。

「育ちのいい人間」同士というのは、多分相手のことを尊重しあい、会った当初から徐々に仲を深めていくだろう。最初はちょっとした親愛の表現から始まり、徐々に言葉がいらなくなっていくに違いない。
「育ちの悪い人間」同士というのは、多分最初は互いに衝突するだろう。衝突があって初めて、彼らはスタート地点に立つ。そして、徐々に相手を信頼するようになり、相変わらず乱暴な言い方や態度を取るのだが、その実深い友情が育つものである。

私はちなみに「育ちのいい人間」である。だから、「育ちの悪い人間」をあまり友達にもっていない。なぜなら、相手が自分の悪口を言ってきて私の気を引こうとしても、私は最初は怒っていたが、次第に無視するようになったからである。私は悪口を言われて悲しかったが、相手は無視されてもっと悲しかったかもしれない。実際のところはどうか知らないが、私の経験上はそんなところだったと思っている。一度だけ、高校の時に、「育ちの悪い人間」に対してやりかえしたことがあったが、その人とは実にあっけないほど仲良くなり、こっちが逆にとまどってしまったぐらいである。

別にどちらの人間がいいとは言わない。マクロ的に見れば、民族の文化的な背景もある。侵略された経験のある民族は、非常にこすっからい性格をしている。数少ない日本人のように、あまり侵略された経験のない民族は、非常に人もよく、そしてだまされやすい。つい最近も、ワールドカップでスタジアムのごみ拾いをしている日本人のことが記事になったが、そのようなことはすべて民族的なことから来ていると考えられている。日本が管理教育で良い子ちゃんを作っているからだとかいうこともあるのかもしれないが。

欧米人が、友達同士でも真剣に議論して、友情が壊れない、という話も聞く。このことは他の誰かが掘り下げてくれるだろうから、ここではあまり書かない。

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私が興味をもっているのは、というかつい最近改めて興味持ったのは、誉められても嬉しくなくて逆にけなされて親愛を感じる奇妙な人たち、の存在である。私は彼らと親しくなりたかったので、特に最近はそのことをよく考えるようになった。そして、そんな中の一人が、飲みの時にこう言った。
「私は末っ子だったんだけど、親からも姉からも可愛がられなかったよ。普通可愛がられるものなんだけどね。親からも「おまえはいらない」って言われてたし。」
別に重い話し方ではなかった。よく貧血を起こす体の弱い人だったらしい。親は冗談で言ったのだと思いたい。多分そうだろう。まあ仮にその言葉が冗談だったとしよう。そうしたら、その人は特にそういう冗談が好きな人だと思う。なぜなら、冗談だと取らなければ、自分にとって致命的になるからだ。

よく、下層階級(このいい方も問題があるのかもしれないが)の人で、無意味にたくさんの冗談を飛ばす人がいる。あるいは、かなりシリアスな冗談を平気で飛ばす人がいる。そういう人というのは、誰かから、本当にシリアスなことを沢山言われてきたので、シリアスなことを冗談にするのが好きになってしまったのだろう。自虐的な冗談は面白いし、社会的に認知されている。特に私は島田伸介とかヒロミあたりの冗談は好きである。彼らは、そういう過去を乗り越えて、豊かな精神を得ているからだと思う。逆に、過去を乗り越えられないで、引きずっている人のそういう冗談は痛々しい。

そういう人がいたら、あなたはどうすればいいだろうか? 暖かく包んであげる? それは逆効果である。むしろ、沢山そういう冗談を言って、彼らを乗り越えさせてあげる方がいい。あるいは、そんな努力は最初っから放棄するべきである。その人には、いずれ似た者同士の縁で、彼を癒し、また癒し合う、最適な友が見つかるだろう。

結局だらだら書いてしまった。このテーマはもう少しだけ広がるので、後日書きたい。


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gomi@din.or.jp