166. 蓄積のないものを芸術とは呼ばない(芸術論その2) (2008/6/9)


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しばらくご無沙汰だった同僚からメールが来た。

「WOWOWでやってたボリスのライブ、録画してない?」

■音楽のジャンルは平等か

この調子の良さは以前長々と書いた営業支援システムのときの黒タイさんである。

私はボリスというのがなんなのかよくわかっていなかったが、その後のメールのやりとりでだんだんわかってきた。STINGという有名なロックミュージシャンがいるバンドで、ビートルズやローリングストーンズなどが現役でなくなったいま、全世界的にもっともメジャーで観客動員数が多いグループらしい。音楽を趣味と日々公言している私が今まで知らなかったことが恥ずかしいぐらいに有名な存在だった。

その後、黒タイさんは他にどんな音楽を聞くのかという話に持っていくと、黒タイさんはさらさらと横文字のバンドをいくつか並べ立ててからこう言った。

「自分で言うのもなんだけど、音楽の趣味はいいと思うよ。」

なんかムカついた。

私はプログレッシブ・ロックと呼ばれるジャンルが好きなのだけど、このジャンルが好きな人には変わり者が多い。ひねくれた趣味の持ち主なんだと自虐的になりたくもなる。

音楽の世界はまずクラシックである。専門教育が体系的にしっかり行われているのはクラシックだけだろう。だから必然的に、それ以外の音楽をやる人には「クラシックのおちこぼれ」的なところがどうしてもある。他の音楽をやるにしてもクラシックの素養は必ず必要になってくる。素養がない人はいわば「民族音楽」をやっているようなものとして扱われてしまう。ちょっと極論かもしれないが基本的には間違っていないと思う。

クラシックからあぶれた人はロックやポップにいく。だがロックやポップからもあぶれる人たちがいる。そういう人たちがハードロックとかプログレッシブ・ロックとかパンクにいく。ポップからあぶれた人たちが売れないアイドルのバックバンドをやったりする。あーこのへんになるとテキトーかも。才能とか腕とかとは単純には言えないだろう。メジャーで売れる人たちが必ずしも優れた人たちではない。

音楽に限らずあらゆる芸術には本流と傍流がある。本流はいつまでも本流とは限らなくて、傍流から強い影響を受けることがあったり、傍流が本流になりかわったりすることもあるけど、本流は文化的に結構しぶといというか力を持っていることが多いんじゃないかと思う。日本画みたいに西洋に押されたりしても日本では独自の地位があったり、相撲みたいになんだかんだで国技として人気を保っていたりする。あ、芸術じゃないなこれは。文学だって純文学が衰えて中間小説とかライトノベルが売り上げの多くを占めるようになっても、相変わらず有名な賞は純文学っぽいところが評価されるし立場も上だ。

話を戻すが、黒タイさんをちょっと突っついてみようと、彼の好きなボリスやスティングを貶める意図で、

「クラシックが最強じゃんよ。ポピュラーなんて落ちこぼれの音楽さ」

なんて口調で言ったわけではないんだけど(一応先輩だし)、ちょっと攻撃的になってみた。すると黒タイさんは本気になって、

「音楽のジャンルなんてどれも平等だ」

と言ってきた。ふーむ。そうきたか。

たしかにどの音楽が優れているとか劣っているとか言うことはできない。同じものなら比較できるが、違うもの同士を比較することはできない。たとえば民族音楽が五音階で西洋音楽が七音階だからといって数の多い方を優れていると判断するのはおかしい。民族音楽は魂を揺さぶるだとか、地元民に根付いているとか、片や西洋音楽はキリスト教世界に広く深く根付いているだとか、バッハやモーツァルトなどの天才がものすごくたくさんの長くて複雑な曲を残しているだとか言い出す。困った。

そういうことを言い出すと、たとえば私がテキトーに作り出した前衛的な音楽は、一つのジャンルとしてクラシックや民謡なんかと対等だと言えるだろうか?当然言えるはずがない。

■素人の芸術

素人の芸術は、その場では「これいいね」とか「芸術だよね」とか言われるが、あとに何も残らない。そのときそのときでは確かにその芸術にある種の良さを見出すことはできたと思う。しかしそれはなかなかその場から広がらない。一方で、素人が見て「なんじゃこりゃ」と思うようなものが世界的に高い価値を持っていたりする。理解しがたい。

あるとき週刊誌を読んでいたらこんな記事があった。芸能人が隠し芸的に芸術的センスを披露するイベントがあって、それぞれ絵なんか描いたりして展示会をやっていたそうだが、見るべきところはあってもやはりどれも世界には通用しないという。そりゃ当たり前だ。いかに一芸に秀でた芸能人とはいえその道で長くやっている人にかなうわけがない。といってもそれは単なる感情論じゃないだろうか。私たちは芸能人に嫉妬しているだけじゃないか。日々ちやほやされているのにその上こんな隠れた力を持っているんだと見せ付けられて不愉快になっているだけじゃないのか。ちがう。じゃあ根拠はなんだ。

その答えは専門家が持っていた。芸能人の作品を評価してもらうために記者が専門家にインタビューをしていたのだが、専門家はこんなことを言っていた。

「芸術は共通言語に則っていないと評価されない」

ふーむ。まだよくは分からなかったが私はなんとなく得心した。芸術はどんな言語でやってもいいはずなのだけど、評価されるには一つの言語の上で行わなければならない。言語という言葉を使うと日本語とか英語を思い浮かべるだろうからもっといい言葉を使いたいが、ほかにいい言葉がない。要はルールみたいなものだろうか。たとえばみんなで俳句の出来を競っているときに散文を出したら評価されない。文学の出来を競っているときに字の力強さとかをアピールしても意味がない。

いやでも芸術にルールなんてあるのか。みんなが素晴らしいと感じることができればそれは優れた芸術じゃないのか。なぜそうじゃないのか。

どんなものにも何か一つは優れた点があると思う。万物どこかに素晴らしいところを見つけていては芸術なんて成り立たないんじゃないだろうか。芸術というからには、ありふれたものからかけ離れたなんらかの価値を持たなければならない。だからたった一点や二点良い点があるものやことをいちいち芸術と認定しては意味がない。たとえば自然の美だって、何か特殊な条件が重なって初めて芸術とすべきではないか。芸術とは人の手が加わって初めて芸術と言うらしい。人が何かに対して積極的な価値を見出さなくては芸術とは呼ばない。

そのためには方向性を絞る必要があるのだと私は思う。人々がてんでばらばらに価値を見出そうとすると、それぞれの道を進む人の数が少なくなって底が浅いものになってしまう。それに違う道を進む人同士で価値を分かり合うことが難しい。だったら一本に道を絞ってそこを集中的に掘ったほうが良いものができないだろうか。

たとえば、「素晴らしい色」を求めて多くの人がてんでばらばらに追求するより、これとこれが「素晴らしい色」ということにしてしまった上で、その上にどんな風に色を使って絵を描くかを考えていったほうがいいに決まっている。さらに絵の技法やスタイルを固定した上でもっと繊細な何かを求めていったほうが人々の心を揺さぶる芸術にならないだろうか。

■蓄積こそ芸術

結局優れた芸術とはなにか。「蓄積」があることだ。←ここが今回一番重要なポイント

たとえばドラムロール。小太鼓を小刻みに叩いてダカダカダカダカ鳴らすやつ。あれを最初に考え出した人は偉いと思う。緊迫感とかスピード感を表現できる。きっとあれが最初に考え出されてから色々な人が影響を受けて多くの作品に使われたと思う。ドラムロールが最初に生まれた頃はそれだけで斬新だったと思うが、のちの世の人は当たり前のようにその効果を取り入れて使うようになる。昔の人が一生懸命創意工夫の末に生み出したものを無意識にノリで取り入れて使うことができる。それだけで過去の蓄積を難なく取り入れることができる。

世の中にはこういう簡単に取り入れることのできる素晴らしい蓄積がたくさんあふれている。ことに昔からある芸術には蓄積が多い。逆に制約も多くてそれが閉塞を生むこともあるが今は考えないことにする。

蓄積はさらにその上に蓄積を呼ぶ。ダンス音楽の上にユーロビートやテクノなど。なんか面倒でいい例を思い浮かべるのもダルいから各自で適当に想像してほしい。

ここまで自分で考えてみてやっとわかったことがあった。私が昔、自分独自の音楽だと言って奇異な曲を作って一人で満足していたのはまったくの独りよがりだったのだ。衝撃だった。いやなんとなくわかってはいたのだけど。

ただ、蓄積にも流行り廃りがある。いまさら対位法なんかポピュラー音楽に使っても聴衆には届かないんじゃないだろうか。まあでもなんとなくよさげだなと今の人も思うかもしれないな。それはそもそも対位法だって理論がどうこうという以前に当時の人たちの感覚に訴えるものがあったからこそ定着したであろうからだ。

いまの人たちにはクラシックよりもポピュラー音楽のほうがずっと人気がある。それはなぜか。理由は色々あってすべて挙げることはできないが、クラシックという本流の持つ蓄積よりも魅力的な何かがあることは確かだろう。それは音楽と関係のないところに比重がありそうだと私は思う。踊りやふりつけとか男性的女性的魅力とか。それになんだかんだでポピュラー音楽が生まれてからかなりの年月が経っているし、今までに作られた沢山の曲が既に多くのものを積み上げているようにも思う。シンセサイザーなんてのもクラシックにはなかったし。クラシックはクラシックで本流としてシンセサイザーを取り入れてはいるけど、全体の中のごく一部の人しか使っておらず聴衆も少ないので蓄積されにくいのだろう。


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gomi@din.or.jp