164. オタク文化の芸術論 (2008/2/24)


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オタクの作るアニメとかマンガなんかの芸術はどこかおかしいんじゃないかと思いながらその魅力に惹かれて見ているうちに私はだんだんその秘密とか構造のようなものを掴めたような気になってきたので、今回はオタク文化の芸術について私なりに解説してみたいと思う。

■コードギアス 反逆のルルーシュ

この作品はイギリスがアメリカの独立を防ぎブリタニア帝国として日本をも支配化に置いた仮想近未来を舞台にしたとんでもない設定のロボットアニメ(?)で、帝国の皇族の青年が父(皇帝)を母のかたきとして討つことを決意し実行しようとする物語である。まあ物語のストーリーは今回の話からするとどうでもいいので省略する。

この作品の最大の特徴は、ドラマティックな場面を演出するためにプロットその他を犠牲にして全力でお膳立てしているところだと思う。異論はあるだろうが私にはそうとしか思えない。もうストーリーはボロボロ。出来すぎた設定に平然と乗っかる登場人物たち。帝国を裏切って日本残党のレジスタンスを指揮して帝国と戦う皇子。日本を裏切った首相の息子が帝国の新型機のパイロットになって戦うが、普段は学校で互いにそれと知らず親友として付き合っている。敵が味方に味方が敵にとか(記憶喪失の帝国美人士官とレジスタンスの青年幹部など)、展開したと思ったら都合よく収まるエピソード。くだらないとしか言いようがなかった。その代わり、一番盛り上がるシーンは最高の演出で魅せてくれる。私自身はこの手の作品はハッキリ嫌いだと言いたいし、出来損ないもいいところだと思う。

だがそこまで考えてふと思ったのだが、日本の古典芸能にもそういうところがあったんじゃないだろうか。音楽か国語の教科書に載っていた「勧進帳」という作品は、関所を守る富樫だったか忘れたが役人に対して弁慶が立ち回るところが目玉らしく、観客も主にそのシーンを見るのが目当てで鑑賞していたらしい。歌舞伎なんてそういうものじゃないだろうか。いや日本だけじゃなく世界的に見てもそうだろう。シェークスピアの「ロミオとジュリエット」だって、よく引用されているのはあの有名なシーン「ロミオよロミオあなたはどうしてロミオなの」だし、最後の悲劇的なシーンを演出するためだけにそれまでのストーリーがあるようなものだと言ったら言いすぎだろうか。あれも冷静に考えてみると結構バカらしいお膳立てがある。

まあそれがオタク文化に掛かると極端になるというだけの話で、やっていることは芸術の王道とあまり変わらない。いやこの違いが大きな違いであり、オタク文化の特徴なのではないだろうか。普通の感覚で言えば「やりすぎ」で子供っぽく見えてしまう。

古典芸能の話のついでに言っておくと、昔から観客は役者を見に来ていたというので、今の日本のテレビドラマが脚本ではなく最初に役者ありきで作っているのもその流れからしたら歪んでいるわけでもなんでもないと思う。ただ、演技なんてどうでもいいという割り切りが見られる点ではこちらも「やりすぎ」感がある。だがテレビドラマにオタク文化の匂いがしないのは、実物の人間をそのまま使っていることの限界なのではないだろうか。絵ならいくらでも理想を突き詰められるが、実物の人間はたとえ整形したとしても限界がある。

■大きい目

哺乳類というのは幼児のときは親にとって魅力的に見えるようになっている。これは哺乳類の個体が成人するのに親の助けを多く借りなければならないことからきており、生き物としての必然であると言える。人間だって本能的にこの法則に当てはまる。だからロリコンというのは本能的には自然なことだと思う。だが幼児を性の対象にしても生殖できないので人間は近親相姦のタブーとか恋愛文化を作り上げてなんとか正常な生殖が出来るよう自らを縛った、と私の尊敬する岸田秀なら言うだろう。

だからというわけかしらないが、オタク文化の登場人物の目は概して大きい。まあこれには異論もあって、目は感情を伝えるのに便利だからという表現上の理由だとか、目を大きくしたがるのは日本ぐらいのもので海外では違和感をもって見られているとか、オタク文化に含まれないマンガでも目が大きかったり、オタク文化に含まれるアニメやマンガの中に目の大きさが普通の作品が決して少なくはなかったりする。

浜崎あゆみが目を大きくするメイクをしていてそれに追従する女性が多いことからも明らかなように、目が大きいことは現代の日本では美人の条件となっている。じゃあ平安時代はと言われると困る。貴族の文化は本能から遠いところに組み立てられているのではないだろうか。

さて現実の女性が少しでも目を大きく見せようとするところまでは普通としよう。オタク文化はそれをありえないぐらいに大きくしてみせる。繰り返すがこの「やりすぎ」感がオタク文化の特徴であろう。

ところでカラフルな髪のほうは一般にはキャラクターの見分けがつきやすいからだと言われている。黒だけだと絵的に重いし。こういう表現上の理由によりあっさりとリアルさを捨ててしまうところもオタク文化らしさと言えるだろう。

■猫耳と萌え要素

これまでに何度も語られてきたことなのでここで重ねて言いたくは無いのだが避けて通れないので一応言及しておくと、オタク文化は特定の要素を抜き出してそれを強調するのも特徴である。

ネコはかわいい。どこがかわいいか。あの耳か。あの耳を人間の少女につけたらどうだろう。ほらかわいい。これだ。

色んなものから無節操に「萌え要素」として魅力的な部分を抽出して寄せ集めて凝縮してみせるのだ。

滝本竜彦「NHKにようこそ!」かそのマンガ版(大岩ケンヂ)でそんなオタク文化をからかった描写がある。主人公たちがエロいゲームを作ろうとしてヒロインの人物造型をするのだが、ネコとかメイドとかアンドロイドとか病弱とか宇宙人とかそういう要素をやけっぱちで詰め込んで、こんなのあるか!と最後に自分で自分に盛大に突っ込んで終わる。

■境界線はどこだ

オタク文化と非オタク文化の境界線はどこにあるのだろうか。

ロールプレイングゲームだったら、ドラゴンクエストとファイナルファンタジーはちょうどその境界線にあるのではないだろうか。どっちもファンタジーを扱った「ありえない話」なのだが、なぜかドラゴンクエストのほうはなんとか非オタク文化に入っているように思える。いやまあゲームという時点でオタク文化に入れる人のほうが多いかもしれないが。

女が好むもの=非オタク文化という線引きも考えられる。男は結構なんでも愛好してしまう傾向があるが、現実感たっぷりの女の好みに引きずられて仕方なく非オタク文化に迎合しているという見方が出来ないだろうか。

■現実の補助か現実を捨てた理想か

オタク文化の最大の特徴は、現実を捨て去っている点にあると私は思う。というかむしろオタク文化こそが現実の制限を越えて純粋に人間が好むものを求め続けた結果として生まれたと言ったほうが良いだろう。人間が好むものをとことんまで突き詰めた結果、現実すら超えた魅力を楽しむことが出来る。

ではなぜ非オタク文化は現実から離れないのか。それは、文化の機能として現実での男女の出会いやその後の物語を補助しているからだろう。多くの学者が、恋愛の文化たとえばロマンティックラブみたいなものを生殖のための演出であると考えている。だからこそ、現実に存在しない目の大きさや体のバランスやありえないシチュエーションを忌避しているのだろう。そんなものはまったく現実の補助にならない。

この非オタク文化の強力な点は、再生産されることである。現実を補助し生殖とその後の家庭生活を成り立たせているため、次の世代に引き継がれることになる。逆にオタク文化はそれを媒介に出来ないため、まったく関係ない人と人とを通じて感染して引き継がれていくしかない。少なくとも現在のところ、いい年をした人間が家庭や子供を作らなければ社会的に地位が低く影響力が弱いため、この媒介はネガティブなイメージを持たされる傾向にあると思う。人間というのは自分が選んだ道が正しいのだと自分で自分に信じ込ませる傾向が強い。だからオタク文化の人間も非オタク文化の人間も自分たちの正しさを掛けて戦っているが、いまのところ非オタク文化の勢力のほうが強い。そしてそれは文化ひいては人類の存続にとって有効に働いている。要はマニアだらけになったら人類は滅亡してしまうということだ。

■現実で可能かどうか

最近はよく若手芸人が、自分のやった恋愛の演出なんかを語ったりしている。ちょっとキザだけどロマンティックでいいじゃん、みたいな反応もあれば、おまえそれやりすぎだろうと叩かれまくるときもある。恥ずかしいけどやってくれたら嬉しいという種類の行為はあるようである。

そりゃそうだ。生殖に最低限必要なのはあくまで直接的な性行為で、子育てに最低限必要なのは親が子を養う気持ち(とお金)だ。恋愛感情や子供を愛おしいと思う心なんてのはなくたっていいものである。あったほうが関係が強固になって良いことは確かであるが、そんなものがなくたって成り立っている例はいくらでもある。

ただ、不細工な人を茶化す文化がここまで根強いのはどうしてなのだろう。世の中、不細工な人間のほうが多いのだから、不細工な人間同士でも素敵な恋愛(笑)が出来るような文化があったほうが絶対に人類にとって都合がいいはずである。ところが世の中を見渡してみると、というか私が括弧入りで笑いの文字を書いたのもその一つなのだが、世の人々は不細工がロマンチックになることに対して非常に厳しい反応しかしない。

しかし一応これにも説明をつけることが出来る。不細工が次の世代に子を残すと遺伝子が劣化するからそれを防ぎたいのだろう。大げさなことを言うと、人類の歴史上、不細工に優しい文明と不細工に厳しい文明とが戦って、不細工に厳しい文明のほうが強かったから生き残ったのだと私は思う。不細工は免疫学的に弱いことが多いのだから仕方ない。障害者差別だって決して理由のないことではないだろう。現代では弱者が救済されやすくなっているが、それが文明同士の競合の果てに生まれた最適解なのか、人類滅亡への道を進んでいるのか、判断が難しいところである。

■野沢伸司脚本や携帯小説や韓流ドラマ

以上が私の理論であるが、説明の難しいものもある。かつて「家なき子」などの極端なシチュエーションを好む野沢伸司が書いた脚本のテレビドラマが非オタク文化として大ヒットした。最近では携帯小説と呼ばれる不治の病やレイプを扱ったシンプルな物語がウケているそうである。これらをどう扱うべきだろうか。

一つの可能性として、これらは実は非オタク文化の皮をかぶったオタク文化なのではないかという説。だがそうなると、なぜこれらの作品をオタク文化の住人が毛嫌いするのか説明できない。これまでのオタク文化とは異なる種類のオタク文化だからだろうか。と段々説明が苦しくなっていく。

もう一つの考え方として、これらの作品もなんらかの形で現実と結びついている可能性もある。「家なき子」はいじめの話として、「星の金貨」(野島じゃないけど)はなんとか起こりうる現実に自分の身を置きうる話として。うーん、厳しいか。ただ少なくとも、一億二千年前がどうたらというまったくありえない話ではないと思う。

これらの作品は多くの人からまんべんなく支持を受けているとは言いがたいので、あんまりきっちりと説明しなくてもいいと思う。いやそう思いたい。ただどうしても不思議なのは、日本の中で指折りのリアリストたる主婦層が、どうして韓流ドラマみたいな絵物語にハマるのだろうか。ああいう物語でも、どこかで自分の人生から分岐してくれる可能性を信じていたいのか。


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gomi@din.or.jp