163. 金の流れ (2007/9/30)


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今回は私が日ごろ不思議に思っている金の流れについて書く。

■狭い道場

私の最寄駅から家に帰るまでの道の途上にやたら小さい道場がある。そこでは極真空手というテレビでやっている総合格闘技に近い空手の亜流(?)みたいなものを教えているみたいだ。極真空手というと多少いかがわしさはあるものの世間的な認知度はそこそこある流派だ。道場はもとはパブかなにかがあったところで、改装してガラス張り鏡張りの壁に板張りの16〜20畳ほどの狭い場所だ。そこにギュウギュウになって若い大人たちが子供たちに空手を教えている。いくら子供とはいえこの狭さでは危ないんじゃないだろうかと思うのだが、時々稽古風景を見ると結構繁盛しているようで、保護者たちが通路に自転車を並べて中の様子を伺っているのも何度か見た。

なぜこんなことになってしまったのだろう。

この道場を開いた人はあまりお金を持っていなかったのだろうか。といっても現代日本で格闘技をやっている人の中でお金を持っている人はほんの一握りだろう。メジャーで金が動きまくるボクシングでも数えるほどしかいないのだから、極真空手なんていうと総合格闘技でテレビに出ている人が二三人ぐらいじゃないだろうか。PRIDEという総合格闘技を立ち上げた人の記事が結構前の週刊文春にあって、人気者の外国人選手でも二千万とかしかもらっていなかったりして、移動手段のシートをファーストクラスに変えたりするのが報酬アップの一環として行われると選手が大喜びするとか、派手な舞台に似合わない微笑ましい内容が載っていた。若くて人気があるときしか稼げない報酬額にしては安すぎないだろうか。野球選手の年俸と比べてみると良い。まあ総じて高いのは野球ぐらいのもので、サッカーなんかも野球と比べると安いし、ほかのプロスポーツだともっと安いので仕方のないところなのだろうか。もっとも、メジャーで層の厚いスポーツであれば引退後は指導者になって細く長く稼げる。

話がだいぶ横にそれたので戻そう。金がなければ借りればいい。そういうときのために銀行がある。という一般常識はあるものの、まあ銀行ならこんな信用のない格闘技をやっている若造に金を貸したりなんてしないだろうなとすぐさま思う。特に日本の銀行は土地を担保にしか金を貸さない。住宅ローンだって定期的に安定した収入のあるサラリーマン相手のものだと思ったほうがいいし。マンガ家にも貸すらしいけどかなりシビアだったと桜玉吉や伊藤理佐が書いている。

そもそも、道場を興したい日本の格闘家の若者というのは、世界的に見てどのくらい投資の魅力があるのだろうか。ここでなぜ世界的に見るのかというと、言うまでもなく近年の金融の国際化に因る。海外に目を向ければ信用の高い国債や公社債が安定して5パーセント以上の利息を生み出してくれる。海外のファンドならモノによって大きく上下するし元本割れのリスクもあるが10〜25パーセントの収益をもたらしてくれるものが結構ある。それと比較して、道場を興したい日本の格闘家の若者に投資すると、どのくらいのリターンがあるのだろうか。

地域社会への貢献ということをもっと重視できないのだろうか。これは誰のためになることなのか。地域の人々全体の利益になることなのだから、彼らがもっと支援してあげればいいのではないだろうか。たとえば地方の大地主が土地を安く貸してくれるとか、地方自治体が補助金を出してくれるとかが考えられないだろうか。

地域の人の言い分もあるだろう。なぜ極真空手なのか。柔道や剣道だったら伝統があって信頼できるのに。好きな流派でやりたいというなら勝手に自分たちだけでやれと言いたいかもしれない。こういう世代間のミスマッチも投資が国外に行ってしまう原因の一つだろう。

■金融の技術と老後の不安

最近の金融の技術の発展は素晴らしい。なにが素晴らしいって、…なにが素晴らしいの?

金融の技術の発展はもっぱら効率の向上にあったと見てよいと思う。止まっていて動かない資産をいかに利用するかということに力を注ぎ込んできたのだろう。蓄えられた資産を運用する技術として、投資信託や不動産投資信託のようにリスクをある程度抑えながら小口の資金をかき集めて積極的な運用を目指すものや、住宅ローンのように最初に大きな買い物をして長い時間掛けて支払っていくもの、老後の生活のための貯金を必要なだけ積み立てて受け取る年金やリバースモーゲージ、リスクを抑えたい人は抑えて取りたい人は取るデリバティブ。

でも正直いってこれらの金融の発展はほんとうに社会にとって必要だったのか。考えてみれば疑問が浮かぶ。経済を活性化させるために一番手軽だったから発展しただけではないか。根本的な問題が解決しておらずお金が相変わらず特定の場所に滞留しているのを放置しているのではないか。そしてこれだけ金融が発展しているにも関わらず、老後の不安を抱える人々がこんなに多いのはどうしてだろう。それはなぜかというと、金融が発展する代わりに近年失われているものが大きすぎるからである。

そもそもの原因は少子化である。子供という金融商品にはものすごい価値がある。一生懸命手間をかけ金を掛ければ老後の年金がわりになる。リスクも多いが優良商品であるのは確かである。なにせインフレに強い。一番インフレに強いのは「稼ぎ」だろう。これには土地だろうが金だろうがかなわない。教育にも国の補助がある。子供は介護もしてくれる。法律で扶養義務があるから子は基本的に逆らえないし、道徳的にも縛られている。この優れたシステムを放棄できるほど私たちは発展していないのではないだろうか。

それから年金問題。年金問題は金融問題であるといってもいいと思う。年金自体が金融の技術で運用されているというのもあるが、年金を信用できなくなった人がほかの方法で運用するようになるのも大きい。老後が不安だからと、お金を持っているにも関わらず心配でしょうがない人が多いのではないだろうか。これらのお金がちゃんと社会を巡るようにならないと、いくら他の部分で金融が効率化しても無駄は減らない。

少子化なので一人の子供に掛ける教育費が増える。この教育費はもっぱら受験戦争に勝ちぬくための競争に使われる。受験が終わったらほとんど無意味になる。雇用は生むが子供は不幸になる。

いくら金融ががんばっても少子化と老後の不安には勝てない。

■経済効率と少子化

経済の効率化を進めた結果、東京への一極集中がさらに進んでいる。限られた土地をめぐって人々が争い、土地の値段はどんどん上がっていく。同じ土地なのに値段だけ上がるので生活は向上しない。仕事が忙しい人は忙しいのでせめて都心に近い場所に住もうとする。稼いだ金を他のことに使うよりは無理して住宅に金を使う。得をするのは古くから都心の近くに土地を持っている人々だけだ。人々はお金を多く持てば持つほど海外に投資するようになる。国内の経済は縮小する。

そもそも核家族化は大都市でのサラリーマンの増加によるものだ。子供の面倒を見る祖父母がおらず、家が狭いので育てにくく、養育に金が掛かるので子供が少なくなる。経済効率を高めるために競争が激化し、その結果生活格差が広がるので負け組が悲惨になり、負け組にならないよう教育に金を掛けるようになった。

経済効率が上がって得をしたのは誰か。一握りのビジネスマンだけではないだろうか。彼らはうまいこと社会を作り変えることで労働力を得ている。高収入のビジネスマンを存在せしめているのは現在の社会環境である。その社会環境を作るためにいったいどれだけの人々が無理をしているか。それなのに税金が高いと言う。自分の稼ぎは自分の力によるものだと言う。それであれば発展途上国に行って稼いで来いと言いたい。発展途上国なら日本にいるよりも彼らの能力とやらはその国で突出したものになるはずだ。だったらいまより稼げるはずではないか。できるか?無理だろう。なぜなら彼らの高収入を支えているのは日本の中下層だからだ。

スポーツ選手や芸能人が稼いでいるのは人々に余裕があるからだ。それと同じように、社会インフラに支えられて稼いでいる人間が何を言っているか。

私はこれらの人々を寄生虫だと言いたいのではない。社会の高度な発展には欠かせない人々ではある。ただ、その分の負担をしなければならないのだと言いたい。たとえば、企業が従業員の住宅費を補助するのは当然のことだ。なぜなら、企業は田舎の一軒家に住んでいる人間を働かせることが事実上出来ないからである。住宅手当を低く抑えてまで役員報酬を確保するのはおかしい。

■広告代理店

といってもスポーツや芸能関係で稼いでいるのは主に広告代理店が絡んでいる部分だけだ。テレビなどのメディアで取り上げられないスポーツや芸能は不景気で貧しい。メディアが出す金の元は視聴率であり、その視聴率を目当てにしているスポンサーだ。そしてそのスポンサーは商品の価格に上乗せする形で消費者に負担させている。そうしないとモノが売れないからだ。

ややこしくなるのでこの話は別の回にまわすことにする。

■事業と投資と雇用と競争

もしあなたが突然一億円渡されてこのお金を増やしてくれと言われたらどうするだろうか。

一番簡単なのは金融商品を買って運用することだろう。自分は何もしなくていい。まあせめて少しでもたくさん増やせるようどの金融商品が利回りがよくて安全か調べはするだろう。

不動産を買って人に貸して稼ぐというのもある。この場合、ちゃんと貸す相手を吟味したり、毎月家賃を取り立てたり、場合によってはうまいこと追い出したり、適正な家賃を考えたり、物件の価値を保つために工夫したり、売買のタイミングを考えたりと、いろいろなことをしなければならない。不動産投資というのは投資といっても事業に近いと思う。だが元手が掛かるだけにその元手が何より金を増やしてくれる。

自分で事業を興して大金持ちになろうとする人はいったいどれだけいるだろうか。一億借りて十億稼いで二億返せば八億も得をする。まあ世の中そんなにうまくはいかないし、ベンチャー企業に投資するような会社は投資した会社が十億稼いだらその分だけ持っていってしまうのであんまり夢がない。でもまあ投資というのは基本的にはそういうものだろう。その代わり、一億を失ってもそれ以上の責任は問われない。

ただ実際問題、事業を起こしたとして、どれだけ分があるだろうか。

たとえばコンビニを経営するとする。フランチャイズ契約の負担が重くて得をするのは本社ばかり。じゃあ独自の店を開くとどうなるか。宣伝できないし商品の仕入れの効率も悪いし品揃えのセンスもそんなに良くはならないと思う。言ってみれば経営効率が悪い。だからやっていけない。

ほかにも既に大きくて強い会社が市場を独占している分野が多い。

あえていま狙うとしたら娯楽で誰もやってないことをやることじゃないだろうか。アイデアが要るが。

日本は既に便利すぎる社会になっている。不満があるのは大体人件費が絡むところだけなのではないかと思う。一方でインターネット回線をもっと太くしてほしいなんてのはまだまだ発展の余地があるだろう。携帯の通信費とか。本やCDが高いのは大体人件費というかクリエイティビティに対する報酬だし、モノも流通費が大きい。

いま思ったのだが、人件費を掛けずに流通コストを下げる事業はこれからもどんどん発展していくのではないだろうか。トラックみたいに人が運転するとこれ以上は難しいだろうから、たとえばIDタグとあわせて街中にベルトコンベア網を整備する。かつてコンテナが流通革命をもたらしたように、定型サイズの箱をどんな場所にでも運べるようにする。それこそ電子メールのように。まあどうやって動力を確保するのかまでは知らない。ベルトコンベアは無駄が多いかも。

でもそれが完成すると流通業で大量に失業してしまうので、人々はどこかで代わりに働かなければならなくなる。

だったら人件費を下げてしまうのが一番いい。人件費が下がっても物価がそれより下がれば何の問題もない。だが下がらないものもある。土地や教育費のように人と人との競争があるものは下がらないだろう。

つまり結局、土地や教育費を上げるような社会が悪いことになる。地方に分散していれば良いのだが、どうしても東京で事業をしたほうが儲かりやすいのでみんなそこへ集まってしまう。

そもそも、お金を増やす必要なんてあるのだろうか。増やすことを考える発想そのものが間違っているのではないか。そして増やすお金を持っていること自体がおかしいのではないか。生活に必要のないお金があるなら贅沢して楽しめばいいではないか。贅沢できるか出来ないかがお金持ちと貧乏人の違いだ。なぜお金持ちは金を増やしたがるのか。引退したときの楽しみにとっておいているのか。

■集団移住のシミュレーション

ここでちょっと妄想して、日本の山奥に集団で移住して出来るだけ自給自足の生活を送れないかどうか考えてみよう。資本主義社会を脱して土地代や教育費から逃れられるだろうか。

山奥だと土地が安い。だが建物は建てないといけない。建築家や大工がいる。少なくとも移住者の中にそういった能力を持った人が必要になる。それに長期的に考えるとそういう技能を持った人を育てていかなければならない。できるだろうか?

食べ物が必要なので農業を営まなければならない。食べ物は安いのでどこかから買ってくることも出来る。しかしそのためのお金をどうやって稼ぐのか。むしろ山奥に住んでいる集団は農業ぐらいしか生産手段がないので農作物を作って買い叩かれる側になる。

着るものが必要だからなんとかしなければならない。布も安いのでどこかからか買ってくることも可能だろう。だがそのためにはやはりお金がいる。少なくとも衣食住ぐらいは自分たちでなんとかしないと、限られた稼ぎで他のものを買うことが出来なくなってしまう。

娯楽はどうすればいいだろうか。人々は日々の暮らしで精一杯で、娯楽を提供する人がいない。そんな人がいたとして、その人の生活はどうやって成り立つのだろう。テレビの電波のタダ見は出来る。広告なんて意味がないので実質タダ見が出来る。しかしテレビという機械をどうやって維持していくのだろう。最近は家電も安く買えるが、そのお金ですら確保するのが難しいのではないだろうか。

というか電気はどうするのだろう。引いてもらうのだろうか。電気を作るには最低でも機械がいる。火力発電なら石油がいる。ガソリンで動かす発電機にはガソリンがいる。日本に原油を運んできて生成するには重化学工業のほかにシーレーンを守るための外交や軍隊が必要である。

もう私が何を言いたいのか分かっただろう。年収三百万以下の下流や年収百二十万以下の最下層になっても、それでも仕事をしていれば最低限の生活は送れる。私たちは社会に組み込まれないと生きていくのは現実的には難しい。土地代や教育費というのは言わばその社会に参加するための費用でもあるわけだ。

■階級闘争?中間搾取?

金持ちと土地(特に東京)に増税してその分だけセーフティネットの整備と地方への分配をすれば日本は良くなると私は思うのだが、なぜこうした政策が取られないのだろうか。

その理由はちょっと古いが階級闘争にあると思う。

いま社会は十分なお金を持っていないと十分な教育を受けられなくなってきている。つまり教育によって階級を固定化しようというわけだ。お金持ちが自分の子供にも現在の階級を維持させようと思ったら、良い教育を受けさせるのが一番確実だ。

高級住宅地に住むことで同じ階層の人々との人脈を築くことができる。

ブランド品を買うというのも自分の階級を高く見せたいからだと思う。実質的な意味はなくても、人は自分を上にもっていきたいものだ。

もっとも、それだけの理由ではないようにも思う。たとえば現在日本で一番の優良企業といえばトヨタだが、トヨタがなぜあれだけ企業活動を行ってお金を儲けているのかというと、株主のためというのが主な理由ではないだろうか。ではその株主とはいったい誰か。銀行や投資ファンドだ。ではそのお金はどこから来たものか。実は私たちが預けた金が多い。トヨタが儲ける影で下請け会社の社員が苦労していると言われているが、そんな彼らのお金もトヨタが増やしている。ただ、その間に入って銀行や投資ファンドも儲かっている。というか金融が儲かっている。

生産者よりも金融や流通や広告代理店が儲かるのはどうしてなのだろう。

モノを仲介するところが儲かることについては今回特に大きく取り上げるつもりはない。ただ、そうやって儲かったお金が海外で運用され、一方で国内の貧者が増えることに、歯止めは掛からないのだろうか。そのお金が国内のインフラ整備に向かえば社会は便利になって雇用も増えるのに。ただ富者が自分たちのお金の量を競って増やしたいがために、いったいどれだけの人々が困窮しているのだろう。一人の富者が持つ五億も十億も極論すれば変わらないと思うのだが、その五億が百人の手に渡れば社会はずっと過ごしやすい場所になる。

一人が十億持っているからこそ芸術が発展すると言う人もいるかもしれないが、別に五億だっていいんじゃないだろうか。さすがに全員が一千万ずつ持つよりは誰かが代表して五億持っていたほうが社会はよくなるかもしれないが、一人が十億持ってその他大勢がヒーヒー言っているのでは話にならない。

■権力と内部闘争と外部闘争

というかお金にこだわる必要はない。たとえば、老後の貯金が必要ないほど国が年金を増やし、通貨を大量に刷って超インフレを起こすとか大増税をすればよい。しかしそれは出来ない。なぜなら、お金というのは権力を現すものだからだ。ここで注意してほしいのは、お金が権力を作るのではなく、権力がお金という形を取っているに過ぎないという点だ。だから、現在権力を持っている人はそれがお金によってあらわされている以上お金の価値を守ろうとするし、もし何らかの理由でお金の価値が下がったとしても今度は別の手段で権力を維持する。それは多分政治力とか暴力によるものになるだろう。

お金は汚いものかもしれないが、お金があるおかげで私たちはある程度の自由を持っている。サラリーマンの場合、会社と個人との関係はお金と労働との交換になっているが、もしお金が無かったとしたら単純に人が組織に仕えるという形になっているであろう。それこそ古い時代のように。支配し支配される関係が当たり前だ。

そもそも生き物は争うものである。南の島の人々は食べるものが豊富だったのであまり争わなかったが、北方の人々は少ない食べ物をめぐって争った。たとえば、三人の人間がいて十分な食べ物がなければ、三人で分け合うことは出来ず、一人対二人に分かれて戦って二人が一人を打ちのめし、二人のうちのどちらか片方が場を支配する。そうやって力を持った集団が出来て、支配する者とされる者が出来る。こうして強力になった集団が周りを飲み込んでいく。

しかしあまりに内部闘争が激しいと、外部のほかの集団に敗れてしまうこともあるだろう。たとえば北朝鮮を見ると良い。一握りの人々だけが裕福な暮らしをしていて、多くの人々が貧困に喘いでいる。一方で日本が一番豊かだった時代は、国民全員が中流であると言われていた。いまは格差社会がどんどん進んでいて国力も衰えている。とはいっても格差の開いているアメリカや日本はいまだに技術で最先端を走っている。日米と欧州のどちらが勝利するか。中国やロシアやインドはどちらの道をとるのか。

日本は格差社会に向いていないと私は思う。日本は馴れ合いの多い社会だから、格差社会になっても健全な競争には向かわないのではないだろうか。アメリカの場合、原理原則を突き詰める人口国家なので、能力があれば競争に勝てるし、能力のある勝者が集団を引っ張っていく力が強いかもしれない。しかし日本の場合、現在お金をいっぱい持っている人はそんなに高い能力を持っているのだろうか。そして彼らは日本をよりよくしているのだろうか。

■語り残したこと

非常にとりとめのない話になってしまったが、まだ語り残していることが多い。いずれまた別の回を儲けたいと思う。特に外国がらみで語りたいことが多い。日本が円安を維持しようとしているのは輸出企業とアメリカのためであろう。低金利を維持することで日本で円を借りて即売ってその分だけ外貨を買って海外に投資する円キャリートレードが活発になって円安が維持されたり、高金利に誘われて日本の資金がアメリカの住宅ローンに流れてアメリカの庶民の経済をまわしていたりする。私たちはどうすれば豊かになれるのだろうか。

いまこそ本当の意味で国が強くならなければならないと私は思う。


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