162. 政治とは〜音楽・映画・ゲームから考える (2007/8/27)


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政治というと自民党のとかアメリカがとかいう話になりがちだが、もっと身近なところに転がっている。私たちは「政治」という言葉の本当の意味を知らされていないので、うまいこと利用されているのではないか。というわけで、政治とか政争について身近なことから考えよう。

■どっちが音楽を掛けるか

小さい頃、私は弟と同じ部屋だった。色々不便があった。もちろんいいこともあった。喧嘩もしたが仲は悪くはなかった。

二人とも音楽が好きだった。音楽を掛けるとなると、さすがに同じ部屋なので片方が聞いているともう片方にも聞こえてしまう。それぞれオーディオ装置を持っていたのでヘッドフォンを使えば二人とも自分だけ好きな音楽を聴けるのだが、耳に悪いのであまり長い時間ヘッドフォンを掛けていたくないし、相手に自分がいいと思うものを聴かせたいということもあって、よくどちらが音楽を掛けるか争いになった。

気がつくとルールが出来上がっていた。大体こんな感じだ。

このルールは明文化まではされておらず、なんとなく互いの言い分をすり合わせているうちにこうなった。

そのうち私は勝手に「音権」という言葉を作り出していた。上のルールに照らして自分が部屋で音楽を掛ける番であると主張できる場合に、自分はこの「音権」を持っているのだと口にするようになった。

考えてみれば妙な話ではある。こんな微妙なやりとりに、わざわざ言葉まで作って自分の言い分を通そうとした私は、ちょっと偏執的かなと思わなくもない。なぜなら、こんなどうでもいいことにわざわざ明確なルールまで作ってまで自分の考えを押し通すことなんてなかったのではないか。

この、あまりに卑近な例は、政治というものの本質をよく抜き出していると思う。

つまりこういうことだ。

■映画の上映と販売とレンタル

いま販売用とレンタル用とでDVDが区別されているのはどうしてなのだろうか。

この問題は多分難しいので、私が適当なことを書くと多分間違っているとは思うが、ここでは政治のなんたるかを説明するのが目的なので些細な問題として無視することにする。

DVDがモノであるという前提で話をすると、所有権を持っている人がそれを誰かに貸して金を取るのはその人の勝手なのだと思うが、実際にはそんなことが出来ないようになっている。これはDVDが映画の著作物であるとされているからだ。なぜこんな法律があるのだろうか。

まずそもそも最初に映画があった。映画は一本のフィルムをもとにコピーして映画館で上映するためのフィルムを用意する。それを使って映画館は人を呼んで映画を見せて金を取る。当然映画館が払うフィルムの料金は沢山の人が見ることを前提に決められている。映画がヒットしたら制作会社がより儲かるようになっているだろうから契約の内容もそうなっているのだろう。映画館は面白い映画を上映して入場料で儲けたいので、面白い映画に多く金を払うようになる。

ここで重要なのは、製作会社と映画館と観客の間で利害の綱引きが行われている点だ。

この三者の関係はガッチリ組まれているため揺らがない。誰かが誰かを出し抜こうと思っても無理なようになっている。

ここで製作会社がいわゆるセルビデオを販売しようとしたとする。つまり映画館チャネルで儲けるだけでなく、小売店チャネルで自分たちの作った映画を売ろうというのだ。それでも映画館が小売店に代わるだけで三者の関係はしっかりしているし、映画館チャネルと小売店チャネルはほぼ共存できると考えて良いだろう。というか映画館が映画の供給チャネルを独占していたときは映画館が得をしていたと考えることが出来る。

ここへさらにレンタルショップが加わるとどうなるか。観客というより消費者となった私たちには、映画を鑑賞するためのチャネルがさらに増えることになる。しかしこのままでは、セルビデオの価値の基準が大幅にズレてしまう。個人が自分だけ観るための価値よりも、業者が不特定多数に貸し出して生み出す利益の価値のほうがずっと大きい。

じゃあ大きい方に合わせれば良い。普通はそうだろう。しかしそうすると、個人が手軽に映画を楽しむことが出来なくなってしまう。個人が困るのは確かだが、それよりも市場のパイを大きくすることが出来ない製作会社が困る。

だからここで著作権法で「映画の著作物」という概念が作られ、権利の綱引きが行われたのだと私は考えている。ちょっと調べればすぐ分かることなのかもしれないが、繰り返し言うとおり正確な歴史は今回必ずしも必要ではないので調べない。

ここで重要なのは、レンタルショップという存在が生まれることに対して、利害関係者の綱引きによって新たにルールが作られたということだ。もちろんここで、レンタルショップの存在は許さない、という出口もあっただろう。しかし結局利害関係者が最大限得をする形で解決が図られた。製作会社はレンタルショップのチャネルを利用してさらに儲けることが出来たからだ。消費者は、時間が経った映画を安値で家庭の小さな画面で見ることにし、面白い新作を見るために映画館へ足を運ぶ道を得た。

利害の調整という最重要な点と比べると、著作権法の論理的な整合性なんてものは大して重要ではない。というか、利害の調整という裏づけがあってこそ、著作権法の存在意義があるのだ。

■ゲームソフトは?

しかし一度概念が生まれると、論理的な整合性を根拠に自分の権利を主張する者が出てくる。

ゲームソフトの中古販売が製作会社の利益を損なっていると主張されだした時期があった。彼らはそれを、以下のような論理で主張していた。

この主張を初めて見たときは私はまだ学生だったが違和感が拭えなかった。確かにゲームソフトの中には一度プレイしてクリアしたら十分に価値を引き出したとみなして良い作品もあったが、多くのゲームは継続的に遊ぶことで初めてすべての価値を得られるものであり、途中で誰かに売ることも十分正当なのではないかと思った。それに当時のゲームは基盤であり、物理的な実体を伴っていた。

しかし彼らのこの戦略は非常に理にかなっていると思った。なぜなら、ゲームソフトという新しいものについて新たに利害の調整を行うよりは、既に決着済みの映画とゲームソフトが同質のものだとする方向に持っていくほうがずっと楽だからだ。

ゲームソフトについてはレンタルショップより中古販売が問題の中心となった。ゲームソフトの中古販売は、新品のソフトを売る店が行っていることが多かったため、製作会社は中古販売をやめさせるため新品ソフトの卸しを行わないぞと迫ることで利害の調整を図った。この過程で、新品ソフトで十分な利益を稼げずに中古販売に頼っていたゲームショップが多く潰れたが、最終的にやはり中古販売の売上の一部を製作会社にまわすことで妥協が図られた。製作会社にとっても、販売のチャネルが減ってしまうと売上自体が減ってしまうため、どこかで妥協する必要があったのだろう。

ところでこの戦いの中で、消費者はほぼ置き去りにされていた。消費者は自分が買ったソフトの所有権の問題を突きつけられていたにも関わらず、製作会社はわざと消費者に矛先を向けず、中古販売は買い取ってまた売る店の問題であるとした。これはこれで一つの作戦だったのだろう。

仮に製作会社が消費者と利害調整を行ったとしたらどうなるだろうか。まず考えられるのは、所有権を取り上げることである。それはつまり消費者が自分の買ったソフトを中古販売店に売れなくなることを意味する。そんなことを消費者が簡単に認めるだろうか。ソフトが店に売れないとなると、新品ソフトの売上が鈍ることにつながってしまう。それに消費者が製作会社に対して悪い感情を持つことになるだろう。

利害関係者の利益の総量を考えると、現在の形がもっとも都合がいいと思われる。

■レンタルとダビングとシリコンオーディオ

もう若い人は知らないことかもしれないが、その昔レンタルショップからCDを借りてきてテープにコピーするのが問題になったことがあった。どう決着がついたのか私はよく覚えていないが、いまでは誰もが普通にやっている行為だ。結局レンタルショップとメディア(テープやMDやCD-R)の売上の一部を著作権者団体に支払うことで決着がついたのだと思う。

まず音楽を作る人たちがいる。この人たちは自分の音楽をメディアに入れて小売店に卸す。それを消費者が買うことで店が儲かる。音楽を作る人たちも儲かる。

そのうち、音楽の入ったメディアを売るのではなく貸す人たちが出てくる。消費者はメディアを一定期間だけ借りてその間だけ聴いて楽しみ、時間がきたら返却する。

ところがメディアはコピーすることが出来る。コピーする機能を持った機器を売るメーカーがいる。そしてその機器を買って使用する個人がいる。コピーの機能自体は問題ないが、著作権で保護されているはずのメディアをコピーする人が出てくる。このままでは製作会社が損をしてしまい、機器を売るメーカーやレンタルショップや個人がその分だけ得をしてしまう。製作会社が損をすると音楽の質が悪くなり、音楽の流通に関わる業界から楽しむ個人まで全体が損をしてしまう。

そもそもこの問題は音楽が再販制度によって護られていることが根元にあると私は思う。少なくとも音楽は小売店では店による割引が一切不可能になっている。再販制度の意義は中小の小売店でもやっていけるようにすることでどんな場所で手に入れられるよう販売網と入手性を維持することだろう。しかしそのために、大して価値のないものがそれなりの値段で流通することを阻害している。音楽はどんなものが売れるのかあらかじめ分からないことが多い。要は製造と流通と消費に関わるすべての利害関係者にとって得になるようなシステムがあればいいのだが、それには必ずしも再販制度は適切であるとは言いがたくなってきた、と私は思っている。

さて音楽用CD-Rなどという謎の録音用メディアから著作権者団体に売上の一部を渡す仕組みでとりあえず利害の調整が図られたかに見えたが、今度はiPodなどのシリコンオーディオプレイヤーが流行した。このプレイヤーはメディアを必要とせず内蔵のフラッシュメモリに音楽を記録している。CDからシリコンオーディオプレイヤーに直接音楽をコピーできる。さてどうするか。

しょうがないのでプレイヤー自体に費用を上乗せする方法を案にした人たちがいて、各方面からの抵抗を受けている。そりゃそうだ。自分が既に持っているCDから曲をシリコンオーディオプレイヤーにコピーして聞いている人からすれば、著作権料を二重に支払うことになってしまうからだ。どのように利害の調整が図られるのか、今後の展開を見守るしかない。

ところで著作権者団体の中でも利害対立がある。日本最大のほぼ独占的な著作権者団体であるJASRACは、曲の売上比というものを考えずに平等に著作権料を分配しているらしい。売上比を知ることが困難であるとの理由があるそうだが、それはいつの時代のことなのだろうか。当然この主張の裏には利害の対立があるだろう。

■政治とは

今回は音楽や映画やゲームなどのソフトウェアの話ばかりになったが、国や国際的な政治の世界も似たようなものである。

広辞苑にはこうある。

  1. まつりごと
  2. 人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営み。権力・政策・支配・自治にかかわる現象。主として国家の統治作用を指すが、それ以外の社会集団および集団間にもこの概念は適用できる。
私ならこう説明する。

人間集団の中で起こる闘争で消費するトータルコストを下げるために以下の手続きを踏むこと。

  1. 互いの力関係を整理してその結果をもとに(ルールを作って)利害を処理することで闘争の手間を省く。
  2. 力関係の整理をする際に自己に有利になるよう駆け引きを行う。
重要なのは以下の点である。

a. ルール(秩序)はあくまで利害調整の道具に過ぎない。
b. 力関係を実態より有利に見せることで、弱い者が強い者を支配できる。
c. 力関係が変わればルール(秩序)も変わって当然だが、その場合はルールを巡る駆け引きが行われる。
d. 利害調整に失敗すると実力行使(戦争)が起こる。

つまり当たり前だが戦争は政治の失敗であり、戦争という膨大な浪費を避けるために政治がある。ただ、戦争という手段も政治の中の一つの駆け引きであるとも言える。たとえばかつての日本は、ロシアやアメリカに対して序盤である程度の戦果を上げることで、自分の実力以上に相手から政治的な譲歩を引き出そうとした。世界的な戦略家のクラウゼヴィッツは「戦争は政治の延長である」と言ったそうで、これはまさにそのことを言っているのではないかと思う。ただしそもそも最初は戦争しか存在しなかったところへ政治が発明されたわけだから、どちらが卵であるかをハッキリさせておいたほうが良い。


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