16. 犬型人間と猫型人間 (1998/12/24)


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世の中には犬型人間と猫型人間がいる。ほとんどの人間は犬型人間だと私は思う。

猫型人間は、自由気ままに生き、群れずにいる。もちろん、猫のコミュニティもあるので孤独ではないが、基本的には猫の世界にヒエラルキーはなく、個々が独立している。猫は自分の子供ともテリトリーを共有しない。

犬型人間は、群れて、ボスがいて、上下関係が成り立っている。

人間社会は完全に犬型である。もちろん、個人の自由も存在するが、人間の子供は産まれてからまず母親に育ててもらうことが必要だし、外界から身を守るために家族という集団を作る。教育のために学校という社会があり、そこでは教師というボスも存在する。組織的な教育のために、教師の中にも主任や教頭や校長がいる。学校を束ねる地方の教育委員会があり、それを束ねる文部省がある。もちろんその上には国家がある。

人間は社会に所属しており、社会の一員としての上下関係が存在するのは当然である。もともと人間は生きるために社会を必要としていた。いま国家が存在するのは、もちろん何らかの理由で必要だからだろう。もし国家が存在しなければ、たとえばマフィアのような組織犯罪に対して、人々は結局自警団を組織しなければならなくなるし、自警団は多分あまり役に立たないので、おそらく国家が存在して警察を運営しなければならなくなる。また、北朝鮮のような危ない国もあるので、自衛隊や同盟国の存在が不可欠となる。まあ、このあたりの考え方は今回の話にはあまり関係がないので、私自身あまり突っ込んで話をする気はないし、あなたもここではあまり突っ込んで考えないで頂きたい。また別の回で話すかもしれない。

人間は必要に応じて社会を作ってきたが、むしろ必要のないところでも社会を作ろうとする。たとえば、楽しみのために、生きがいのために、やりたいことをやるために、であったりする。たとえば、最近アジア大会が終わったが、陸上競技で足の速さを競う行為は、大会が開かれてこそ楽しいのであり、それを生きがいとするのである。選手となり競うこともそうなら、選手を育てるコーチもそうである。

人間は個人で好き勝手なことをやるよりも、社会の中で自分をアピールしたがるものである。

組織を運営するにはヒエラルキーが必要である。だが、人は必要のないヒエラルキーも作ろうとする。これは、人間が犬型であると私が主張する重要な事実である。

こういう有名な話がある。犬を飼うときには、犬というものは家族の中で自分の位置というものを考えており、普通は家族の中でもっとも下に自分がいると考えている。ところが、家族が犬を甘やかしたりすると、犬は自分が家族の中で一番上にいると思うようになり、家族に対して暴れるようになるのである。ところで、日本テレビの「雷波少年」という番組で、ロバのロシナンテが、若手お笑いコンビ「ドロンズ」に対して、片方の人にはなつき、片方の人にはかみついたりしていたが、あれもその典型である。ロバのロシナンテは、自分の中にヒエラルキーを描いていたのである。

私は基本的に、自分が命令されるのは嫌いであるし、命令するのもあまり得意な方ではない。私も犬型人間の要素が少なからずあるのだが、猫型人間の要素がかなりある方である。私は人の意志を比較的尊重する方である。いわゆる目下の人間に対しても、自分の考えを押し付けたりする気はそれほどない。

これと対極的な位置にあるのが、いわゆる「体育会系」の人々である。彼らは、先輩後輩というヒエラルキーをかたくなに守り、新人には一気を強要したり、先輩を立てたり、後輩に下っ端の仕事をさせたりする。なぜ彼らのような、いわゆる「ヒエラルキーの好きな人々」が「体育会系の人々」と一致するのかというと、私が思うに、体育会系のスポーツで強くなるにはヒエラルキーが欠かせないからだろうと思う。上下関係の厳しい学校の方が、緩い学校よりも大会成績が良かったりするのである。

だが、私の言いたいことはそれだけにはとどまらない。体育会系の人々は、ヒエラルキーがやむをえないからやっているのではなく、むしろ好きだからやっているのである。そして、それは体育会系の人々だけに止まらない。会社組織もそうだし、近所のコミュニティとかもそうであった。人々は、自分より上の人間を求めて世話してもらいたがり、かつ自分より下の人間を求めて世話をやきたがるものである。

いきなり核心から言うと、人に従うことは甘美だし、人を従えることも同様である。

ちょっと話をしよう。私が高校生だったころ、私は文化系のリベラルな部活に所属していた。そこへ、三人の新入生が来て、部活に見学に来た。我々はこの部活の活動内容などを説明し、先生も入ることを勧めたが、結局彼女らは入らなかった。柔道部に入ったのである。そこは、私と同じクラスでバリバリに犬型の人が部長で、面倒見の良さそうなその男とその部が気に入ったのだろう。私はその事実を知って、なるほどな、と思った。彼女らは、個人個人が独立しているような雰囲気にはなじめないのだ。彼女らのことを悪く言う気はないのだが、彼女らはやはり面倒を見てもらうことが好きなのである。誰かに引っ張ってもらいたいのだ。ただ、彼女らは「面倒を見る側」にはならないだろう。柔道部は基本的に男の部なので、同年代の部長にやはり引っ張っていってもらうのだろう。反証として、私のいた部活に入っている人は、誰も自立的な傾向があったことを言っておく。むろん、自立的傾向が手放しに良いと言いたいのではない。

私の所属していた部には、同時に陸上部にも所属する部長がいた。彼が引退前に、部に陸上部の後輩を連れてきたことがあった。彼は私の所属していた部では、後輩である我々に対してはそんなに干渉してはこなかったのだが、陸上部でその後輩に対しては大分干渉していたらしい。その後輩曰く「かなり絞られた」そうだ。その後輩が女性だったからかもしれないが、私はそれを聞いて、ああ甘美だなと思った。なんというか、単純に考えるとこの感想はおやじくさい考えだと言われそうだが、確かにこの従属関係は、リベラルなサークルでは存在しえないものである。

短いがまとめに入ろう。

人間は犬型の生き物である。建前として自由が認められてはいるが、周囲の人間はそれを許さないし、むしろ人間は自分から従属と支配を好む。それが生きがいでもあり、快楽であるからである。

自由・自律・強さ、などというものは、むしろ邪魔なものである。束縛されたり、束縛したり、頼ったり頼られたりすることに比べれば、本当に詰まらないことである。ただ、私自身はこの詰まらないものと心中することになるだろう。これは性分なのでやまれない。


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gomi@din.or.jp