157. あるいじめから考察する秩序の作られ方 (2007/5/13)


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今回は私が中学生の頃に目撃したあるいじめについて、当時のいじめられた人の振る舞いから、秩序の作られ方について考察したことを書く。

■中学校

受験のない普通の中学校というものは、義務教育の最後だけあって同世代の最も多種多様な人間が集まる社会だと考えていいと思う。私は高校以降は客観的に見て平均以上の学力レベルの人間しか集まらない社会で過ごしているため、いわゆる不良とか頭の悪い人たちの存在自体を普段は忘れてしまっており、ときどき例えば免許更新のときとか病院みたいな場所に来ると、ああ日本の無作為な母集団とはこんなものなんだなといつも不思議な気分になる。

そんな普通の公立中学校には、将来官僚や政治家や大学教授になるような人もいれば、ヤクザや風俗や闇産業に関わる人々までいるわけで、当然どうしようもない不良もいた。私もそんな彼らに何度も嫌な目に合わされたことがあり、幸いなことに私は集団ではいじめられなかったが、やたら付きまとってきて服従させようとしたり叩いてきたりする個人がいた。私もプライドがあるから時には反撃して相手の腹を蹴ったりしたこともあったが、力で叶わない人間に勝つのは中学では難しく、トータルではかなり負け越していた。

というのがまず中学校という背景の説明だ。

■事件

まず事実から言うと、ある日の学校の廊下でいじめっこAが同じクラスのSという男のパンツをズボンごと下ろした。つまりSは人通りの多い廊下で局部を晒された。

Sの身に起きたことを自分に置き換えるとシャレにならないと私は思う。だからSはAに対して怒ると私は思った。ところが事実は違った。Sは笑ってこう言った。

「あいつはどうしようもないやつだな」

あれ?と私は思った。そして彼のことをとても哀れに思った。

だが、私のこの感覚は正しいのだろうか?

Sが局部を周囲に晒したとき、周りの人間は爆笑だった。つまりウケていた。S自身も笑った。これは「おいしい」のだろうか。AはSを「いじって」ウケを取ったのだろうか。みんな笑っているのだから、私が笑わないことのほうがおかしいのだろうか。もし私がSの立場だったら多分怒るか、そうでなかったら憮然とすると思う。そんな私は空気が読めない人間なのだろうか。

ではここで状況を変えてみて、Sのパンツを下ろしたのがいじめっこのAではなくSの親しい友達の誰かだったらどうだろう。周りは爆笑しただろうか。Sも笑っただろうか。そんなことはないと私は思う。Sは相手がAだったからこそ一緒になって笑ったのであって、もし自分と同じか格下の(と彼が考える)相手だったらSは怒っていたと私は思う。

というところまでを仮定したら、この事件はAの暴力的な笑いの秩序にSが屈服していることを証明している。あくまで仮定の上の話ではあるが。

■いじる

Aの暴力的な笑いの秩序とはなんだろう。それは、Aが誰かにひどい嫌がらせをして相手を笑い飛ばすことで、A自身が周囲に笑いを提供するという秩序である。こうすることでAは嫌がらせ自体を楽しみつつ自分が人気者になるので二度うれしいのだ。なぜこれを暴力的な秩序と私が呼ぶのかというと、Aのこの行為は力を持つ者でなければ不可能なことだからだ。

なぜこのような秩序が成り立ってしまうか。周囲の人間が笑うからだ。なぜ笑うかというと、嫌がらせを受けた人に同情しさえしなければそれなりに面白いのに加え、もし笑わなければこの面白さを分からせるために矛先が自分たちに向いてしまうからだと思う。

こうしてAによる暴力的な笑いの秩序が成立してしまうと、もはやSは自分も笑うしかなくなってしまう。この秩序を認め、本来なら憎悪すべきAを逆にエンターテイナーとして認めざるをえなくなる。これは普通の人なら耐え難い屈辱だと思う。

ところがこれも事実とは違うのだ。あるとき「Aってホントむかつくよな」とSに言った人がいた。当然Aのいない場所でである。するとSは笑ってこう返した。

「Aもあれさえなければいいヤツなのにね」

またもや私は首を傾げた。そしてさらに彼のことをとてもとても哀れに思った。

だが、私のこの感覚は正しいのだろうか?

■共同幻想

Sの中でどのように思いが渦巻いていたのかは私には分からない。ただ、いくらか予想をすることは出来る。

もしここで「Aってホントむかつくよな」が事実だったとしよう。つまり周囲の人間もAのことを心底嫌いながら、うわべだけ調子をあわせて笑っていたのだとする。そうであればSはものすごくかわいそうな人になってしまう。そんな現実はとても受け入れられない。だからSはAをかばわなければならない。Aの暴力的な笑いの秩序をSは周りの人間にも認めさせなければならない。Sは自分がひどいことをされているにも関わらず、Aのことをエンターテイナーで人気者なのだと思うしかないのだ。

ここで一歩引いてS以外の人に焦点を当ててみる。S以外にもAから嫌がらせを受けていた人間はいた。彼らもまたSと同様の動きをするだろう。Sと一緒になってAの秩序を守ろうとする。

さらにA以外の人にも焦点を当ててみよう。Aのような力が強くて迷惑な存在は世の中にいくらでもいる。力の弱い人間はそんなときどう行動すればいいのかを経験的に分かっている。だからもし自分がAからは嫌がらせを受けていないにしても、別の人間から嫌がらせを受ける場合があることを考える。そんなとき、Aに対してだけ「Aってホントむかつくよな」と言ったとしたら、今度はBという別の人間から嫌がらせを受けたとき、自分に対して言い訳が出来なくなる。

だから、力の強い人間の嫌がらせはウケ狙いだ、という一種の共同幻想が生まれる。

こう考えると、力の弱い人間はとても哀れな存在なのだなと思う。

だが、私のこの感覚は正しいのだろうか?

■社会適応

親が子供を教育するのに、力を使わずに済む方法なんてあるのだろうか。

世の中にはいわゆる体罰を否定する人と肯定する人がいてまだ決着がついていないように見える。この問題についての私の答えは、体罰やむなしである。いくら気長に子供に物事を説明して言い聞かせても、無理なものは無理だろう。百歩譲って仮に体罰をしなくても、延々と口で否定されたら屈せざるを得ないと思う。

親と子供という最も基本的な人間関係でなくても、あらゆる社会にはそれぞれのルールがあり、そのルールを守らなければ秩序が維持できない。たとえばAだって授業をちゃんと一定以上受けなければ中学を卒業できないのである。ある男と女が恋人関係を維持するにはそれぞれが守らなければならない一線があり、それが破られると関係が壊れてしまう。そして言うまでもないことだが平等な人間関係というものは意外と少ない。

一方だからといってドメスティックバイオレンス(家庭内暴力)のある人間関係が成り立つのは困る。一方的に搾取される関係というのも問題だ。ところが何がどう問題なのかを考え出すと分からなくなる。たとえば昔の日本のある時期では、家父長が強くて女は張り倒されても当然だとされてきた。子供同士のいじめなんて逆にいじめられるほうが悪いとされてきた。体罰もごく当たり前に行われてきた。その時々の社会によって見方が異なってしまう。一体どういう理由で見方が変わってしまうのだろうか。

芸人がいじられておいしいとされる見方もごく最近から言われ始めたことである。

私は前々から、叱られたり注意されることに感謝するという文化に違和感を感じてならなかった。この文化は今も強く残ってはいるが、かつてほどの影響力は無くなっていると思う。

■誰の責任か

以前「97.リセット猫と不良」で書いたように、親から相手にされない子供は、親の注意を引くために悪いことをするようになる。子供が良いことをしても必ずしも親は子供を構わないが、子供が悪いことをすると親はすっ飛んでいく。それでも親が子供を無視すると、子供はどんどん悪いことをして親の気を引こうとする。この場合、子供が悪いのだろうか、親が悪いのだろうか。

私が言いたいのはこうだ。Aだって何も悪意から嫌がらせをしているわけではないだろう。不良に育ってしまった人間というのは、悪いことをすることで他人とコミュニケーションを取るように育ってしまうのだ。あるいは、他に人を引きつけられるほど魅力的なものがないからこそ、無理やり嫌がらせでコミュニケーションを取るしかないのだとも言える。まあそれを悪意と呼ぶのかもしれないが。

だから、魅力のない人間が周囲の関心を集める一方で、嫌がらせのたぐいを一切禁止してしまうと、魅力のない人間はほとんどコミュニケーションを取ることが出来ずに寂しい時を過ごすことになる。じゃあ努力すればいいじゃないかと私たちは言う。それはその通りだと私も思う。人を喜ばせる技術を磨けばみんな喜ぶ。でも誰もがそんなポジティブな考えを持つことが出来るわけではない。特に小さい子供は悪さをしてしまうものである。子供が悪さをするのは親のせいでもあるのに。

そして親だって完璧ではない。だから多少の悪さはしょうがないと思う。そのバランスで私たちの人間関係は成り立っている。私だって育ちのいい人間ではあるが他人をちょっとからかって喜んだりする。そうしてコミュニケーションを楽しむこともある。それは「2.正と負のアプローチ」でも書いた。

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というような内容の文章を私はこのページが出来る2年ほど前に大学の掲示板に書き込んでみた。今から考えるとその文章はこのページの起源、言わば「ネットワークど・オリジン」かもしれない。既に何かのついでにちょこちょこ似たようなことを書いたような気がしていたのだが、改めてざっと見てみるとどこにも書いていなかったので今回掘り起こして書いてみた。当時の文章をそのまま載せても良かったのだが、文章が未熟に思えたり不適当な固有名詞が含まれていたり馬鹿丁寧なですます調だったりしたので改めて書き起こした。


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gomi@din.or.jp