155. 子供の頃1 (2007/4/29)


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マンガ家の桜玉吉がエッセイ漫画「御緩漫玉日記 第3巻」で子供の頃のリアルでちょっとエロい思い出を語っていてとても面白かった。そんなわけで私も子供の頃の私個人やその周辺について思い出して語ってみたい。

■スカートめくり

私が小学校三年生ぐらいの頃、「まいっちんぐマチコ先生」というちょっとHなマンガ・アニメが流行っていた。新任の若くてお人よしで乗せられやすいマチコ先生が、教え子のスケベなケン太らからHな嫌がらせをされまくる話だった。ちょっとHなところも良かったが、マチコ先生が恥ずかしがったり怒ったりするところがなにより魅力的だったように思う。

その影響か、当時スカートめくりという行為が一般的に行われていた。私はアホな友人と競争で、どれだけスカートめくりが出来るのか挑戦した覚えがある。自分のクラスに留まらず学年全体をまたに掛けてスカートめくりをした。回数も百回を超えた。当時は特に女の子のパンツが見たかったからではなく、嫌がる様子を見たかっただけだったのだと思う。だからスカートめくりといっても、スカートをつまんでちょっとめくるだけで、女の子がスカートを押さえた時点で終わりである。そこから無理にまくってパンツを見ようというところまではいかなかった。

にしても、人の嫌がることをしてコミュニケーションを図るという影響を与えた意味で、「まいっちんぐマチコ先生」のような作品はまさに教育上よくない作品だったんじゃないかと思う。と、やっていた私が言うとなんか違うような気もするが。

ところでそのとき一緒にスカートめくりをした友人はいかにも日本人のしょうゆっぽいアホ顔をしていた。当時私がいた小学校では、何か悪いことをやると、長い廊下を雑巾のからぶきで何往復という罰を先生から言い渡された。どんな悪いことをやったか他にもう覚えていないが、よく雑巾のからぶきをやった覚えがある。スカートめくりの友人もよく一緒にその罰を受けた。私の頃は体罰が無かった

■身体障害者

数百人の子供が集まれば、そのうち何人かは生まれつき障害を持っている。これは人間である限りしょうがないことだ。

難聴で意味不明のカタコトしか喋らなかった美少女がいた。髪の色素が少し抜けて茶色っぽくなっていて、そばかすのようなものがさっぱりしっとりした顔に浮いていてチャーミングだったが、目はどこを向いているのか分からず、絶えず意味不明な「アタタ…タタタ…」のような言葉しか発しなかった。こういう危ない魅力というのもあると思う。

当時はなぜ彼女が意味不明の言葉しか発しないのか分からなかったが、いまになってみれば分かる。難聴なので他人の言葉が聴こえないとなると、聴覚によるフィードバックがないため、言葉を使ったコミュニケーションを身につけることが出来ないのだ。だから自分の喋り方も分からない。ちょうど目の見えない人がどこか違和感のある動きをするのと似ている。

そうするとなぜヘレンケラーが喋れるようになったのかよく分からないが、彼女の場合は二歳で熱病に掛かるまで視聴覚に問題がなかったので、それまでの期間で一応の土台が出来ていたからなのかもしれない。

ピタッとしたキノコ型の髪型をした鼻の穴の大きいエキゾチックな顔立ちの大男がいた。彼も何を言っているのかよく分からなかった。彼は多分「知恵遅れ」だった。このタイプの人はよくクラスの一部の男からいじられる。そしていじられてニコニコしている。私はそれをいじめの一種だと考え、見るたびに嫌な思いをしてきた。でもそんな私だって彼とは関わりたくなかったわけで、もし私のような人間しかクラスにいなかったら彼は孤立していただろう。そう考えるとある程度いじられるのは仕方が無いのだと思うようになった。

■転校1

東京から札幌に転校した。小学校三年生の二学期からだった。札幌は夏休みが短かったので損をした。当時は大きな問題だったがいま考えるとばかばかしい。

転入してからの私は妙にサバサバしていておよそ転校生らしくなかったらしい。ほどなくして同じ班となった四五人の男女と集まって学内の行事の何かをやったときに、個性派俳優・寺島進のような顔をした角刈りの男から「おまえは転校生のくせに生意気だ」と言われた。そのときはさすがに殴り合いにはならなかったが、何が原因だったのかよく覚えていない。それにあまり大したことだと考えていなかった。こうして記憶にはっきり残っていることを考えると実は大きく私の心に刻み込まれたと見るのが正しいのだろう。いま考えると、私が転校生を率先して迎え入れるキャラになったのはこの事件が元かもしれない。

■チビちゃん1と2

札幌には三年間しかいなかったが、物心ついてからまもない時期として記憶が割と残っている。周りの友人についても色んな人のことを覚えている。

当時の人気者は、大という名の背の一番低い少年だった。もう名前からして冗談のようである。性格はタレントで言えばビートたけしに似ていて、奔放で色んなことに積極的で、背のことでバカにされるのが嫌いだが、割と細かいことは気にしなかった。ケンカに強くないタイプの彼がクラスの半分以上の男子と仲がよくまるで親分のように振舞っていた。私も彼のことが好きだった。

途中でマコトという背がどっこいどっこいの少年が転校してきた。彼は成績がよくまじめで積極的でかわいい顔立ちをしていた。たちまち大と仲良くなり、双子のようにいつも一緒にいるようになった。

当時子供が一緒に遊ぶというと自転車で何人も連れ立って外の何箇所かある公園とか校庭に集まって色んな遊びをした。変速機付きの黒い子供用の自転車は私にとってとても懐かしいアイテムの一つだ。遊びについては後述するのでここでは省くとして、外で遊ぶことが多くて家で遊んだことはあまり記憶に残っていない。ただ私はこのマコトという少年の家で六人以上でモノポリーをしたことをなぜか覚えている。また、大の家にも一回だけ行ったことがあって、とても広い家の中でアニキのパソコンゲームをちょっとだけつけて見せてもらった覚えがある。そのゲームは「デゼニランド」だった。彼は豆柴という品種に似た柴犬風の雑種の小さい犬を飼っていて、その犬を弟のように世話していた。

■フリーザ

もう一人印象的なチビちゃんがいて面白いのでここで独立した項として書く。

私が小学校五六年生のころ、ドラゴンボールがちょうどフリーザ編だった。クラスの中で背の小さい一人の少年が突然クラスを仕切りだした。いまこうして書くと真顔でギャグを言っているようにみえるが、これは本当のことである。

彼には部下がいた。特に親しい部下が二人いて、そのうちの一人は多分クラスで一番背が高くて大きい男だった。少年は普段から敬語を使っていて、気に入らないことがあると部下に敬語で指示をしてとっちめさせる。その様子は外から見ていて滑稽でもあり楽しそうでもあったので、私は距離を置いて見ていた。私は当時クラスで独自の立ち位置にいたらしく、彼の直接的な影響力が及ばなかったみたいだった。

ところがあるとき、それなりに親しくしていた友人ユウがこのフリーザもどきの少年への愚痴を私に言ってきた。この友人ユウも面白い人で、次の項で詳しく述べる予定なのでここでは説明しないが、彼もまたクラス内で面白い位置にいた人だった。そんな彼でさえ窮状を訴えるのだからよっぽどのことなのだろう。PTAに言って問題にしてもらおうだとか、あいつ転校すればいいのにみたいな内容のことを、そんなに陰湿な口調ではなく見ようによってはややおどけた声で私に訴えた。いま思うと彼は元々そういう喋り方をする人だったので大真面目だったのかもしれない。

当時の私はこのフリーザもどきの少年について、カリスマ性があるのだろうか、それとも話術がたくみなのだろうか、ともっぱら彼の気質について考えた覚えがある。いま考えてみると、クラスで一番大きかった男と何か特別な関係があったからではないかと思えている。この二人がドラゴンボールを見てごっこ遊び的に始めたものが不思議とみんなノリノリになってしまい、そのうちどこからどこまでが遊びだか区別がつかなくなっていったのか、それとも友人ユウだけが真剣に考えすぎていてあとの人はやっぱり遊びのつもりでやっていたのか。いや思い起こすと確かに何か特殊な力学が働いていたのだけは確かだと思う。

■ドラゴンクエスト風一対一TRPG?

友人ユウは当時流行っていたドラゴンクエストのようなゲームを自分のノートで再現して特定の人に遊ばせていた。ノートに色鉛筆まで使って野原とか山や川のマスを描いてフィールド画面のマップにしたり、街や城やダンジョンまで作っていた。そのマップの上に主人公の姿が描かれた紙切れを載せ、それを指で押さえて自分で動かした。プレイヤーとなる特定の人は口頭で上とか右とか言って操作する。友人ユウとプレイヤーの二人だけでやるゲームなのだが、休み時間ごとに繰り広げられるその遊びにはギャラリーまで出来てみんなでそれを見て楽しんだ。

敵がいて戦闘になるとやはり口でコマンドを指示し友人ユウがそれを受けて処理する。紙と鉛筆と消しゴムで数字が動く。彼は弁の立つ人だったので、ドラゴンクエストのメッセージをパロディにした独特のおどけた声で戦闘内容を言葉にした。効果音まで自分でしゃべっていた。

当時シーチキンUとかビオレUがコマーシャルで宣伝されていたので、彼はよくシーチキンユウとかビオレユウとかからかわれたことがあって、しまいには「おいシーチキン」と呼ばれていたりもした。

■ファミコン

私が小中学生の頃はファミコン全盛で、色んなゲームがたくさん出ていた。私もときどき親に買ってもらってはいたが、高価なものなのでごく一部しか買ってもらえない。だから友達と貸し借りしたり、たくさん持っている人の家に集まってよくゲームをした。

とはいっても当時の親たちの教育は割とよく行き届いていて、ファミコンなんかで遊んでないで外に遊びに行きなさいとよく言われていた。私だけでなくよその子供たちもそんなことをずっと言われていたようだったし、多くの友人たちは家でゲームをするより外で遊ぶことを選んだ。だから友達同士で家に集まってゲームして過ごすなんていう日は実際のところあまり無かった。

それでも私は小学校の頃、特に三人とゲーム目当てで付き合いを保った。一人はパン屋のせがれでやたら小汚い木造の家に三人兄弟で住むサッカー少年で、色々書くことがあるので別の項を立てる。もう一人はやたらゲームを持っていて友人を積極的に何人も家に招いてずっとゲームをして過ごしていた人だった。彼は性格が明るく、ゲームがなくても人気者になれそうではあったが、彼の元に人が集まったのはゲームが理由だっただろう。というのは実は私だけかもしれないが他人のことは知らない。彼の家で何時間もゲームで遊んだ帰りは自分でも目の疲れを感じるほどだったが、面白くてやめられなかった。残りの一人はきのこ頭に不健康そうに太った無口でやや大柄の男で、家の方針で自宅にはほとんど友達を呼ばず、家が金持ちなのか毎回違うマニアックなゲームソフトを持ってふっと他の友人の家に集まりそのゲームを囲んで遊んだ覚えがある。

■パン屋のせがれ

私の札幌での小学校後半の時代でなぜか私のなかで一番親しい友人ということになっていたのはこのパン屋のせがれTだった。彼は少年サッカーチームに入っていて、いがぐり頭に点のような目のそぼくな顔立ちをしていて、いま思うとなぜ私はTのことを一番の親友だと思っていたのかよく分からない。ゲームつながりなのだろうか。それとも親同士が親しかったのか。

Tには兄と妹がいた。兄は彼が言うには身勝手な男で、しょっちゅう喧嘩してはやりこめられていた。友人の兄というのは割と仲良くなりやすいタイプの関係で、兄はあまり私たちにはからんでこなかったが、からんでくるときは決まって自分の弟であるところのTをいじってニヤニヤし、Tがうっとうしそうに抗議の声を母親などに上げたりしていた。一方妹のほうも、Tにとっては小汚くてズルいキャラだったらしく、よく食べ物だか何かをとられたといって文句を言っていた。友人の妹というのもまた悪くない関係で、よく私たちは妹についてTをたしなめたりした。

あるとき突然Tが引越しした。私の家の200mほど近くに、細長い四階建ての建物にパン屋と一緒の自宅が完成した。私は早いうちにその家の中を見せてもらった。一階がほぼ店舗で、二階がDKと子供の部屋、三階が寝室、四階は半分が広いベランダでもう半分が荷物置き場だった。せっかく新居に越してきたというのに、二階は早くも脱いだ服や雑多な空き箱などでちらかっていて足の踏み場に困るほどだった。四階のベランダからさらに上の屋上に登ることもできた。隣に似たような建物が全部で5棟あり、隙間が15cmぐらいしかないのでまたいで移動できた。子供でも挟まらない程度の隙間だったらちょっと怖かったこともあってよく覚えている。


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gomi@din.or.jp