154. 日本語の表現の問題 (2007/4/22)


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こうしてプライベートでも仕事(設計書など)でも延々と日本語で文章を書いていると、日本語の表現の問題について頻繁に考えてしまう。今回は私がこれまで感じてきたものの中からいくつか思いつく限り取り上げて論じてみたい。

■序論

言語というものには文法があると言われるが、実際には言語学者が法則性を考えているうちに生み出されたものが文法なのであって、現実に会話や読み書きに使われている言語自体が最初から文法にのっとって作り出されたものではない。もちろんエスペラント語などの人工言語はこれに含まれない。

語学の達人に言わせると語学学習とはひたすら暗記だそうである。単語だけでなく構文も全て暗記だ。沢山の構文を覚えていくうちに、自然とパターンマッチングで言語の法則性を掴んでいき、自在に使えるようになる。

一方でロジカルシンキング型の人は言語を文法から学ぼうとする。私なんかはどちらかというとその口なので気持ちは分かるのだが、こういうやりかただとたとえ一通り文法を習得しても、ちょっと違和感のある喋り方をする外国人のようになってしまう。文法だけでは説明がつかない細かい例外があるからだ。日本の語学教育が文法に偏っていると言われるのは、使える英語が身につかないからだとされるとおり、少なくとも語学を実際に使うことに関しては文法にベッタリしていてはいけない。

ただここで言いたいのは、外国人のほうが思わぬところで日本語について鋭いツッコミをすることがあるということだ。パターンマッチング型の人は自分が普段使っている言語についてほとんど疑問を持たない。というのは、彼らにとって言語とはそういうものだからだ。外国人の場合は日本語を自国語と比べてみるわけで、そのときどうしても日本語の非論理的なところに関心が行ってしまう。

これから私が挙げることはつまりはそういう点なのである。

ちなみに面白いことにパターンマッチング型の人というのは、文法的に正しい日本語を見ても時々首を傾げるのである。日常的な表現とは違うものが出てくると、すぐには理解できないのだ。これは逆にも言えて、ロジカルシンキング型の人というのは文法的に正しい日本語を書いただけなのに難解で分かりにくい文章を書いてしまうことがある。私もその傾向が強いことを自覚している。

■節

日本語は語順が比較的自由な言語である。助詞があるからどの単語や節が主語で目的語で述語なのか分かる。ちなみにロシア語にもそういうところがあって、というかこのへんのなんたら語族(ウラル・アルタイ語族?フン族?)には大なり小なりそういう要素があると何かで読んだ。

▽節

さて日本語の標準的な語順は「主語+目的語+述語」だ。

以下の例文を見て欲しい。

例文1-1: 彼にあの場で聞けなかったことをいくつか聞いてみた。

いきなり主語のない文なのはいいとして、ちょっと考えた私は以下のように語順を入れ替えた。

例文1-2: あの場で聞けなかったことを彼にいくつか聞いてみた。

「彼に」の位置だけ違うのがわかるだろうか。なぜこのようにしたのかというと、大きい節を前にもってきたかったからである。「あの場で聞けなかったこと」という節はちょっと長いので、文の真ん中に持ってくると文が分かりにくくなる。それに「彼に」という短い目的語を一時的に留保しなければならない。

チョムスキーというコンピュータ科学でよく知られる言語学者(最近は9・11でも有名)が考え出した言語理論によるアルゴリズム(計算方法)で考えると、「彼に」まで読んだあといったんそれを放っておいて「あの場で聞けなかったこと」という節を解釈しなければならない。「あの場で聞けなかったこと」という節は一見単純だが、実は「私が彼からあの場で聞けなかった」+「こと」という一つの文章が一部省略されて節になっている。つまりそれだけこの節の解釈には頭を使うということだ。この節の解釈に頭を使っているあいだ、「彼に」という言葉をどこかにきっちりとっておかなければならない。だからこの文章は読み取りにやや手間取る。とまあそういう理屈になる。

ちなみにこの程度の節ならコンピュータならいくらでも解釈できる。節がいくら入れ子になっていようと、文脈自由文法などの規則にさえ従っていれば問題ない。ただし規則が緩いと何通りにも解釈できてしまう。

ところで英語の It's 〜 that の構文などはちょうど前後が逆のパターンで、節を文末に寄せてしまうことで解釈を容易にしている。日本語でこれをやると以下のようになってしまう。

例文1-3: 彼にいくつか聞いてみた。あの場で聞けなかったことを。

文章にすると文が二つに分かれてしまう。真ん中の句点を読点にすればいいのか。口語で言うと句読点をあんまり気にせず普通に倒置法になる。

▽省略されている文節

さて例1-1にはまだ問題がある。「彼にあの場で聞けなかったこと」が丸々節だと解釈される可能性があるからである。そうなってしまうと、私は彼の代わりに他の誰かに聞いたかもしれなくなってくる。本当は、あの場とこの場の両方に「彼に」を置くと誤解の余地がない。以下のようにである。

例文1-4: 彼にあの場で聞けなかったことを彼にいくつか聞いてみた。

くどい。ついでに言うと、節にも本文にも全部主語と述語と目的語を置いてやればまったく誤解の余地がなくなる。たとえばこのように。

例文1-5: 私が彼にあの場で聞けなかったことを私は彼にいくつか聞いてみた。

語順だって気にしなくてもいい。以下、せめて少しでもわかりやすいように助詞を少し変えてみた。

例文1-6: 私は彼に私が彼からあの場で聞けなかったことをいくつか聞いてみた。

そういうことを考えていくと、というか本当はこんな風に筋道を立てて考えるわけではないのだが、なんとなく例文1-2が一番適切なように思えてきて書き直すわけだ。

これが英語だったらどうだろう。

例文1E: I asked him several things which I had not been able to ask him.

これが正しい英文なのかどうかはあまり深く突っ込まないことにして、ちゃんと本文と節の両方に主語と述語と目的語が必要なのは確かである。つまり先の問題は日本語のような言語だからこそ起こる問題と言える。

日本語だって例文1-5や1-6のようにちゃんと書こうと思えば書けるが、こんな日本語を使う人はほとんどいない。語学は構文の暗記なのだから、こんな日本語は日本語ではないと言ってしまってもいいと思う。パターンマッチングで無意識に日本語を使っているネイティブスピーカーたる我々にはなおさらだ。

▽節と解釈する仕組み

ただ、よく見ると例文1-6には節を節と解釈させる何かがある。以下は、例文1-6の節だけ抜き出したものと、完全に二つの文にしたものなので、比べてみて欲しい。

例文1-6P: 私が彼からあの場で聞けなかったこと
例文1-7: 私は彼にあの場で聞けなかったことがあった。(私はそれを彼にいくつか聞いてみた。)

助詞や述語には軽重があって、軽い言葉を選ぶと節に、重い言葉を選ぶと本文に解釈されがちである。「彼から」と書くと単なる修飾子の一つに思えるが、「彼に」と書くと文中最重要な目的語のようにとらえてしまいがちになる。

ついでに言うと英語だと what-I-had-not-been-able-to-ask-him みたいにハイフンでつないでやれば節をなんでも名詞扱いできる便利な構文(?)があるのだが、こんなのは文章でしか使わないしバカっぽい。

■読点と漢字カタカナひらがなの使い分け

▽ロジックかリズムか

日本語の読点をどういう法則で文につければ良いのか私の中で整理がついていない。読点のつけ方は人によって個性があって面白い。私の見たところ大きく二つのパターンに分けることが出来ると思う。ロジック(論理)で分けるかリズム(韻)で分けるかである。

ロジックで分けるのにもいくつかパターンがある。たとえば先の例をそのまま使うと、以下のように読点を使えば節の解釈が楽になる。

例文1-1A: 彼に、あの場で聞けなかったことを、いくつか聞いてみた。

だがこの読点は文章のリズムを損なってしまう。まず、文をちょっと進んだだけで接続詞でもないのにいきなり読点がある。それに二番目の読点は口語だとほとんど間を置かずに喋ることもある。つまりロジックの切れ目が必ずしもリズムの区切りにはならない。

▽読点は一階層のみ

私の読点の使い方はロジック寄りだ。ただし基本的に主語から述語までの一文は区切らないことにしている。複数の文をつなげるときだけ読点と接続詞で文と文をつなぐ。なぜそうするようになったのかというと、読点という区切り記号は一階層でしか使えないので、文と文をつなぐのに使ってしまったら品詞と品詞とか節と節の区切りにも読点を使うと分かりにくくなってしまうからだ。

例文2-1: Aは、Bなので、CなDは、Eを、Fする。(ごっちゃに区切った例)
例文2-2: AはBなので、CなDはEをFする。(文と文だけ区切った例)

そもそも文と文を読点でつなぐのがよくないのかもしれない。一文一文を句点で終わらせたほうが読みやすいという考え方の方が一般的だとは思う。一つの文をダラダラと長くせずに小さく区切ったほうがいいのは分かる。しかし私にとってはダラダラと続けるほうがリズム良く読み書きできるのだ。

例文2-3: Aは、Bだ。だから、CなDは、Eを、Fする。(文を分けて文節を区切った例)

最近いまさらながらに村上春樹「ノルウェイの森」を読んでいてふと思いついたのだが、例文2-2のような文と文のあいだに打つ読点は英語のカンマと同じなのだ。村上春樹は英語の文学の翻訳家でもあるので自然と欧文風の読点の打ち方をするようになったのではないだろうか。

▽文節と文節の区切り

となると次は、いかに読点を使わずに一文一文を読みやすくするのかという問題になる。

例文2-2A: CなDはEをFする。

上の例ではアルファベットを使用しているからまだわかりやすいが、これらを全部ひらがなの単語で当てはめると文章がわかりづらくなってしまう。

例文2-2B: よこしまなひらめきはおのれをだめにする。

ここで重要なのは、助詞がひらがなだということだ。ひらがなの言葉を連続で書くと、どこが切れ目なのか分かりにくくなる。紙に文章を書く場合だと、なんとなく隙間をちょっとあければ良かった。ワープロやコンピュータでも半角スペースをあいだに挟むという手もある。でもそんな余計なスペースは無いほうがいい。

そこでどうするかというと、ひらがな以外の文字を使うのだ。日本語には幸いなことにカタカナもあれば漢字もある。助詞以外の品詞を漢字かカタカナにしてしまえば問題はすべて解決するかにみえる。しかしどうしてもひらがなにしなければならない場合がある。「しかし」「どうしても」「ひらがなに」「しなければならない」全部ひらがなだ。このくらい使用頻度の高い言葉なら多少つなげても問題ない。

一方で、助詞を挟まず他の品詞と品詞がくっついてしまうことがある。「その後」なんていう言葉を使うと次に下手な漢字を使うと「後」とくっつきかねない。「その後私たちは」と書くと一瞬「後私」という単語があるのかと思ってしまうかもしれない。この場合の方法は二つあって、一つは「その後」を「そのあと」に置き換えることで(「そのあと私たちは」)、もう一つは「後」のあとの言葉をひらがなやカタカナにすることである(その後わたしたちは)。

でもこんなに安易に言葉を変えてしまっていいのかとも思う。「その後」と「そのあと」は色んな意味で違う言葉だ。「私」と「わたし」だって語感が違う。「私」ならワタクシとも読める。あ、もし本当にワタクシと読ませたいなら、「私」を漢字で書いたりはしないだろう。それもまた日本語の一つの問題か。

▽漢字をひらがなに

ここ最近の私は、たとえ文章の区切りのためであろうと、やたら漢字を使うのは良くないと思うようになった。たとえば「於いて」「云う」はどうだろう。多分漢字で書いた方が読みやすいだろう。「おいて」は「置いて」と間違う可能性がある。しかし「於いて」だとどうしても文章が硬くなってしまう。「おいて」自体を使うなという考え方もある。「云う」と「言う」は意味的に同じみたいだが印象が違う。

意味の使い分けのために例えば「分かる」や「解る」を使う必要はあるだろうか。私なら「わかる」で十分だと思う。だが一方で「聞く」「聴く」「訊く」を使い分けるのは、そのニュアンスを重視しているからだ。と言いつつ「硬く」と「堅く」の使い分けには無頓着だったりと、まあこのあたりは個性なのかもしれない。

「躊躇」や「逡巡」を「ためらい」にするかどうかという問題もある。「躊躇い」と書いて「ためらい」と読ませたりする表現もある。センスの問題というか、せいぜいええかっこしなさいと言うしかない。

▽大和言葉>漢語>横文字

比較対象となる二つのものがあるとして、片方が漢字で片方がひらがなカタカナだと気持ち悪い。実は「ロジックとリズム」は最初「論理とリズム」だったが直した。「論理と韻」にしなかったのは、「韻」だと韻を踏むという意味にとられかねないと思ったからだ。

だがいろんな表現が出来る言葉があれば出来ればまず日本古来の大和言葉を使いたい。その次が漢語で、最後が横文字だ。「うやまう」「尊敬する」「リスペクトする」どれがいいか決まっているだろう。だが大和言葉はあまりなじみがない言葉があるし私もそんなにボキャブラリーが豊富なわけではないので、そんなにこだわらなくて良いと思っている。

漢語だって外来語だ。特に江戸時代は漢語や漢学が今の欧米語のようにありがたがられた。日本語に漢字があるからといって漢語を特別視してもしょうがない。漢語は口に出してしゃべると何を言っているのか分からないことが多い。文脈の中で捉えることが出来なければ、字に書いて初めて意味が伝わる。

ところで欧米人はラテン語をありがたがる。特にアメリカ人が。ゲーム会社のスクウェア・エニックスはそれをよく分かっているようで、最新作のサブタイトルをラテン語にしている。同社のファイナルファンタジー8には歌詞が全部ラテン語の曲が使われていて、それをアメリカのフィギュアスケートチームがオリンピックでBGMに使用した。

■かぎ括弧入りの会話文

私はめったに会話文を書かない。そりゃそうだ。小説家じゃないんだし。でも昔ちょっと書いてみたり友人と議論してみたことがある。少しだけ余興として語っておきたい。

まず、かぎ括弧とはなんなのかという根本的な問題がある。ここからここまでが台詞だよというだけのことなのだと思う。じゃあ台詞なのだから文になるはずだ。だから私はかぎ括弧の中の文の最後に句点を置いて書いていた。

例文3-1: 「私は知っている。」

ところが友人に指摘されて気づいたのだが、かぎ括弧の中の文には句点がないことが多い。なぜか。こんな感じに、

例文3-2: 「これはペンです」と太郎は言った。

かぎ括弧の直後に『…と言った』みたいな文が続くことを前提としているのではないか。それも含めて一文と考えれば説明がつく。しかし実際には、かぎ括弧と中の文はそれだけで文として成り立っているようにしか思えない。

台詞というものは時に途中で口ごもったりする。そんなときはよく三点リーダと呼ばれる点々が使われる。

例文3-3: 「わたしは今日…」

ところが最近谷川流という作家が読点を末尾に置いていた。英語を意識しているのだろうか。

例文3-4: 「六角レンチが見つからないのに、」

ちなみに私は読点を置くならそのあとに三点リーダを続けていた。

例文3-5: 「日本語とは難しい言語だとよく言われるが、…」

こんなことで悩まなくてはならないのも、末尾を工夫しない限り自動的に句点が置かれているものと扱われてしまうからだろう。

■嫌いだけど使ってしまう表現

▽わざとカタカナ

ところで、普通に漢字やひらがなで書くところをわざわざ発音通りのカタカナで書く手法がある。よく使われるのが「カラダ」「ゲンキ」など。難しく捕らえがちな単語、たとえば「文学」をわざわざ「ブンガク」と書いたりする。よく一般紙のライターが使う。読みやすくて親しみやすい。でもなんかムカつく。

▽体言止め文体

名詞で終わる文を体言止めと言うのは義務教育で習った。詩的な効果を狙うときに使うらしい。私が挙げたいのはそっちではなく、日記とか報告なんかで使われる文体の一つとしての体言止めのことを言っている。

例文4-1: 十時起床。知人から電話。今日は忙しくなりそうだ。

なぜか段落の最後だけ普通の文章になる。多分これは複文の書き方の一つなのだろう。

▽逆接止め

例文4-2: そんなに嫌いではないのだが。

段落の途中に書くと文のつながりが悪くなるので極力使わないよう気をつけているのだが、ついつい使ってしまう。ムキになってなおすつもりはないのだが。おっとこれだ。

▽as for

「…だが」は逆接のはずなのに逆接になっていない文章。私は最近になってようやく自分で書いていて気になるようになった。日本語として間違ってはいないと思うが、何が正しくて何が間違っているのかどうでもよくなっている。

例文4-3: 昨日のことだが、君の言うとおりにしてくれていい。

■その他

▽述語のほのめかし

以下の二つの文を比べて欲しい。

例文5-1A: 私はその大きさの餃子を十人前平らげることが出来ると思う。
例文5-1B: 私の見たところその大きさの餃子を十人前平らげることが出来ると思う。

最初の文は「私は」とあるところを、二番目の文はわざわざ「私の見たところ」と自分の見解であることを最初に説明している。とはいっても、ここまで説明しなくても末尾の「…と思う」まで読めば分かる。しかし、文末に来るまでは「私」が本当にその場で餃子を十人前食べるのだと思ってしまいかねない。ちなみに、二番目の文だと私じゃない誰かのことを言っているようにも取れる。

▽接続詞の使い分け

接続詞は順接と逆接さえあれば最低限ことたりる。でもあまり使い分けないとバカに見える。同じ接続詞が続くと違和感がある。接続詞に限らず動詞についても言えるがそれはここでは置いておこう。

私は口頭で会話していると「それで」を多く使ってしまう。これは便利な言葉だ。大体なんでもつながる。でも何を言いたいのか分からなくなることがある。「まあ」もそうだ。接続詞というよりは間投詞に近い。

「というわけで」も便利なのだが、口癖のように無意識に使っていると、一体何が「というわけ」なのか分からない状況で使ってしまう。

*

今回のテーマは一回で全部書き切るかと思ったらまだまだ出てきそうなので、無理に思い出そうとせずに今回はここらでいったん切ることにする。

ところで私は文章がうまくなる秘訣について時々考えるのだが、うまい文章を沢山読んで自分の中に取り込むという方法のほかに、下手な文章を読んでどこが悪いのか考えるというのもあると思う。自分が書く文章はたとえ下手でも気づきにくいものだが、他人の書いた文章の下手さはとてもよく分かる。下手さというかそれは単に自分の波長と合わないだけなのかもしれないが、だからこそなにかしらの違和感を感じることが出来る。だが、読書経験が浅かった昔と比べて、今は多少の悪文でも普通に読めてしまったりするので、それもまた文章力の向上には良くないのかもしれない。


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