153. 対幻想 人間関係の作られ方 (2007/4/15)


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今回は人と人との関係の間にある幻想を具体的に挙げながら抽象していき考察する。吉本隆明の共同幻想論の用語を借りているが、中身は全然関係ない私の思索である。

人間関係の中で一番最初のものはなんといっても母と子の関係に決まっている。だがそんなもったいぶって基本的なことから考えていっても面白くないし、何か目新しいことが見つかるわけでもないので、そういうのは全部すっ飛ばして私たちの一番興味がありそうなことから考えることにしよう。

■最初

出会いは最初が肝心と言われる。第一印象が良いとそのままずっと好感触を持ってもらえるだとか、最初にガツンと言っておけばこっちが主導権を握れるとか、競争がある場合に抜け駆け出来るとか、逆に初対面のときに下手に出てしまったばかりにずっとナメられたりとか、成功するか失敗するかでかなり差が出てくることが経験的に分かっている。

実のところ私自身はこういうことに一切気を使わないタチで、多分これまで何回も失敗してきているのだが、失敗を生かす気にもならないほど覇気がないというか、いやそうじゃなくて無理に取り繕わなくても物事は自然のままが一番だというある意味余裕シャクシャクな考え方を持っているので、ここからの考察は私の若い頃や人から聞いた話を元に行うことにする。

■バイトの新人と先任

まずは私の弟から聞いた話を元にいくつか別の話も補強して、コンビニにバイトの新人がやってきたときに先任(前から居た人)とどのようなやりとりが繰り広げられてどういう関係に落ち着くのかということから考えていこう。あんまり条件が複雑になると混乱するので、バイトの人員は新人と先任の二人、同性で年齢は全く同じとしよう。

同じ仕事を分担する。仕事を等分するのは色んな意味で難しい。学校の掃除当番なんかを想像してみればすぐ分かる。真面目な人が多くの仕事をし、不真面目な人はほとんどやらない。それはバイトでも言える。先任は新人に仕事を教えなければならない。教えることにかこつけて、新人になんでも仕事を押し付けようとする。新人は新人で先任に対して何か対抗手段をとらなければならない。

ここで二人の間にどのような対幻想が成り立っているのか考えてみよう。ここでの二人の違いは、客観的にハッキリしているのは、片方が現場に最初からいた人間で、もう片方が新たに入ってきた人間だということだ。この点に関しては幻想の入り込む余地はない。幻想と言えるのは以下のことだろう。

1. 先任はこの現場で長く仕事をしている。

新人から見れば先任はいつからここでバイトをしているのか分からない。だから、先任が実は三日前にこの仕事を始めたのだとしてもそれに気づくのが難しい。もしそうだとしたら、先任と新人とのあいだには大した差はないことになる。先任の立場からすれば、新人に対して先輩風をふかすことで自分の立場の優位性を確保したいに違いない。そこで頭のいい先任なら、自分はずっと前からここで仕事をしているのだという幻想を成立させようとするはずだ。

2. 先任は仕事がよく出来る。

新人から見れば先任は先の幻想もあって仕事がよく出来るように見えがちである。ここでもし本当は先任があまり仕事が出来ないとしよう。だとしたら先任はこの幻想を利用して、自分が仕事をしているところを出来るだけ新人に見せないようにし、威厳だけ保ったまま新人になんでも仕事をさせるほうが良い。

3. 新人はこの現場のことをよく知らない。

一方新人のほうにも幻想を組み立てる余地がある。ここの職場は初めてかもしれないが、以前似たような場所で働いたことがあるのでこの仕事は慣れているんだと相手に思わせることが出来ればどうだろう。新人と先任との差を縮めることが出来るかもしれない。ところが先任も負けてはいられない。ここの職場にはここなりのやりかたがあるなどと特殊性を主張したり、ここは今までのような甘いところではないと強弁したり、新人をウソつき呼ばわりしたり出来る。ここに幻想の駆け引きが生まれる。

4. 先任は店長から気に入られている。

新人からすれば先任と店長がどの程度の仲なのか分からない。店長に気に入られると得をするだろうから店長とは仲良くなりたい。もし店長が先任を信頼していたら、下手に先任と事を構えたら店長に何か言われてしまう。ちょっと回りくどいように思うかもしれないが、新人から見ればただなんとなく先任と店長とは仲が良さそうな気がしてしまう。だから先任はこの幻想を利用しようとするし、新人はこの幻想と立ち向かいながら駆け引きを仕掛けて見破ろうとする。

5. 先任のほうが新人より年上である。

前提条件に新人と先任の年は同じだと挙げておいたが、そんなものは当事者に分かるはずもない。大人っぽい態度を取るほうが年上に見えるのはどこの社会でも同じだ。そして社会の多くは年上の優位を認めているという共同幻想を利用して対幻想を張るのだ。

もうちょっと挙げようと思えば挙げられるような気もするが、こんなのばかり挙げていてもしょうがないのでこのあたりで切り上げよう。

もしここで対幻想が成り立たなかったらどうなるか。互いの駆け引きが行き過ぎて決裂してしまった場合だ。そうしたら、互いになるべく無関係に仕事をするようになるか、新人がすぐ辞めてしまうかしてしまうだろう。あるいは第三者つまり店長なんかの介入を招いて、店長の影響の下になにかしらの幻想が作られるかもしれない。そんな事態は新人にとっても先任にとっても望むべからざるものだろう。片方がもう片方をあまりやりこめすぎてしまっても幻想が成立しにくくなる。

幻想の面白いところは、現実とかけ離れるところである。たとえば無職のプーな社会の最底辺のフリーターが、たまたまコンビニで働きたいと思ってやってきた現役東大生に人生の師と仰がれるようなことも起こりうる。一方東大生はそのような幻想を作ることでプーをおだててなんでも仕事をさせてしまうかもしれない。私はそのような現象がこっけいだとかあるべき姿ではないと言いたいのではない。むしろこういう幻想があるからこそ人間関係は豊かなものになるのだということだ。

ついでに言うと学歴というものは幻想とくに対幻想においてプラスにもマイナスにも働くので使い方が難しそうである。

■ともだち

あなたはどういった人をいままでともだちとしてきただろうか。

微妙な質問なので逆にしてみよう。どういう人とはともだちになりたくないと思っただろうか。まあイヤなやつとはともだちになりたくないのは確かだろう。どこがイヤなところなのか。これは人により様々である。

たとえばいつも頭の良さそうなことばかり言っている人がいたとしよう。その人に対してあなたはどう思うだろうか。「自分なんて恐れ多くて近づけない」とか、逆に「自分をよく見せようとしているやつなんて小さい人間だ」と思ったら、その人とはともだちになりにくいだろう。「この人は物知りだなぁ」と思ったら師弟関係が生まるかもしれない。「ひょっとして趣味があうかも」とか「私より頭がいいかどうか確かめてやろう」と思ったら対等な関係が生まれるだろう。自分の方が頭がいいと思って相手を屈服させようとしたら上下関係が生まれる可能性が出てくる。「ウダウダ言わずにこっちこい」と自分のペースに巻き込んでしまう手もある。

一般によく言われることを言うと、ともだちになるまでには何らかのコミュニケーションが図られ、互いに気持ちを通じ合わせて初めて親しくなるのだと言われる。このようなコミュニケーションのモデルは古典力学のようなもので、一体誰と誰がどのように分かり合えるというのだろう。全く独立した一個体である人間が、どこをどうやって別の個体である他人と通信し、互いにオッケーの信号を出すというのか。言葉?「ともだちになろう」「うん」これで済むとでも言うのだろうか。私は今までに何人もともだちを作ってきたが、彼らが私のことをどう思っているかなんてはっきりしたことは何も分からない。

世の中には非対称の関係のほうが多い。いわゆる片想いだとか、利用し利用される関係、教え教えられる関係、いじめいじめられる関係などだ。ライバル関係ですら片方が勝手にそう思っているだけのことが多い。

それでも関係が成り立っているのは、そこに対幻想があるからだ。

一方、極論してしまえば世の中には何も関係なんてないのかもしれない。だが、関係するとかしないとかの概念は私たちが私たちの都合で作り出したものなのだから、意味のない概念なんてあっても仕方がない。こと人間関係について言えば、対幻想が成り立っている状態を関係と呼ぶとでもすればよい。

■関係を作る方法

ではどうやって相手との関係を作るか。

▽かけひき

ここまで理論的に考えてきたことがバカバカしく思えるほど当たり前の結論だが、要は「かけひき」なのだと言える。いかに自分を良く見せ、相手に下手に出させるか。そうすることで自分にとって相手との良い関係が結べる。

かけひきといってももちろんそう簡単ではない。まず実体があれば有利に進むのは間違いないのだから、金持ちに見せかける前に実際に金持ちになったほうが確実には違いない。金持ちであろうとなかろうと、金持ちであることが相手に伝わらなければならない。ハッタリならハッタリでいい。

一方で、金持ちだということが伝わってしまうと、金にだけ興味のある人間が集まってきてしまい、本当に関係を結びたい人が遠ざかってしまうことにもなりかねない。

▽物語

やっとここで幻想ならではの要素が出てきた。世の中には色々な物語があふれている。特に恋愛に関する物語は多い。それらの物語と似たような状況を作り出すことで、うまいこと対幻想が作られることがある。ただしそのためにはその物語を双方が共有している必要がある。まあ片方だけしか物語を知らなくてもなんか別のものと結びついてよくわからないうちにうまくいってしまったりもする。

じゃあどうやって物語を共有するか。物語をたくさん取り込めばいい。自分に近い物語であればあるほど良い。あるいは自分と物語を結びつける想像力を養えばいい。そのうち現実に適用することが出来る物語が出てくるかもしれない。

しかしこれには副作用があって、あまりに都合の良すぎる物語、たとえばアニメみたいに主人公の周りに主人公を慕う女の子や男の子がいっぱいあつまってくるようなハーレムものの物語ばかり取り込んでいると、自分はいいかもしれないが相手に影響を与えるような対幻想にはならないだろう。

ではどういうものが相手に影響を与える対幻想となるのだろうか。相手の持つ対幻想と形がぴったり合えば合うほど良いことは間違いない。

ここで視点を逆にしてみたらどうだろうか。あなたには他人の対幻想を受け入れる余地があるだろうか。たとえば、貧乏な人、性格の悪い人、不器用な人を受け入れられるような物語をあなたが持っていれば、そういう人に対幻想を持つことが出来る。逆に男は金持ちで背が高くなければとか、女はかわいくてやさしくなければとか思っているばかりだと、なかなか相手との関係を持つことが出来ないに違いない。

▽物品

人というものは他人から何かをしてもらうと、どうしても義理を感じてしまうものらしい。これは本能的なものというより文化的なものらしく、見返りを期待せずに相手に何かしてあげるという習慣は世界中の文化にあるらしい。これは対幻想というよりは共同幻想だろう。

これを利用すると、とにかく相手にものをあげつづけるとか、食事をおごるとかすればよいのだ。世の中には恩知らずも多いだろうが、どんな恩知らずでも概してなにかしら返礼をせずにはいられないはずだ。ただし本当にほんの少ししか返してくれない場合もある。

▽既成事実

既成事実と言うとなんだか強引な肉体関係を想像してしまうが、そういう単純なものではなく事実を対幻想に利用するごく一般的な方法を考えて欲しい。事実は強力な幻想だとも言える。

たとえば、いつも一緒にいること。一緒にいるという事実が、「どうして一緒にいるの?」という問いに対して、「ともだちだから」「好きだから」などの理由づけを生む。逆に「ただなんとなく」は成立しにくい。たとえそれが事実だとしても。

二度あることは三度ある、ということわざがある。一度だけだったら偶然かもしれないが、二度起きてしまうとそれは三度目以降も継続的に起こりやすくなる。ある人と二回一緒に遊んだら、三回目以降も遊びやすくなるので、ともだちだという対幻想が生まれる。

一度もないことを相手に持ちかけるとそれをする理由が必要になるが、二度三度以上あることを相手に持ちかけると逆にそれをしない理由を相手に求めることが出来る。

最初から大きい事実を積み上げるのが無理なら、小さいことからコツコツとやっていくといいかもしれない。

▽力関係

相手にむりやり言うことを聞かせてしまえば関係を作れる。単純明快だ。

しかしここが対幻想の難しいところで、幻想であるがゆえに極端な話だと生命の危機をちらつかせても相手が屈服しないことがある。

後輩は先輩の言うことを聞くものだ、とか、上司の言うことを部下は聞かなければならない、などの強弱のある力関係が成立していると関係が作りやすい。同性の後輩と仲良くなりたければ後輩を無理やり飲みに誘えばいい。なかなか断れない仕組みになっている。

一歩引いて考えると、どうしても人間関係を作るのが苦手な人は、常に自分の立場が強い状況に身を置いていればいいのだ。会社で責任ある立場にいれば、職場にいるかわいい娘だって自分に一目置いてくれるだろうから、時々話しかける程度ならそれなりに良い関係がもてるはずだ。逆に自分の立場を弱くすることで、遠慮なく周りに対して助けを求めることが出来るというのもアリだ。学校で勉強が出来ない人は、ここを教えてくれ、と相手に言うことができる。

力関係が働いている状態で人間関係を持ってもそんなものはしょうがない、と言う人がいるかもしれない。私も若い頃はそう思っていた。でもそんなものは大したことではないと思うようになった。そりゃそうだ。周りを見渡してみてもなかなか対等な関係なんてない。それに、何か理由があるからこそ関係が出来るのであって、理由のない対等な関係なんてものは偶然にしか生まれないものだ。そんな偶然にどれだけの価値があるというのだろう。

そんな偶然だけが愛なのだとかつての私は思っていた。

■私

最後にちょっとだけ私自身のことを書く。

こんな文章を書く私は非常に鬱屈した人間のように思われるかもしれないが、現実世界の私はどちらかといえば人のいいキャラを演じている。というか本当は人がいいのだ。信じてもらえないかもしれないけど。だから、ふとしたことで相手が油断して本音をこぼしてくれることがある。別にそれを狙っているわけではないけど、人と張り合うのは疲れるし、ちょっと下手に出ておくと思わぬ発見があったりする。反面、対等に見てくれないことで本音が聞けないこともある。相手によって使い分けるのが一番良さそうである。私は相手が詰まらない人間であればあるほど下手に出て、尊敬できる相手ほど対等に付き合えるよう努力する、のがいいと思っているが面倒だし情動には逆らえないのでぶっちゃけ適当だ。ちなみに最近の口癖は「へー」だ。

ふとしたことで気に入らないことがあって強気に出ると、普段下手に出ている人間が突如生意気になったように受け取られて思わぬ事態になることもある。私も人間なので仕方がないと思っているが、こんな風にキャラを作りさえしなければ起きない問題なので、私に非があるのだろう。あ、いや別にキャラを作っているわけじゃないのだが。人間関係で自然でないことをやりだすと必ずどこかでしっぺがえしを食らうような気がするのは、私の幻想操作能力が低いからというのもあるだろうが、やはりどこかで無理が生じてしまうからだろう。


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gomi@din.or.jp