部活動も同じ部に入った。Oが野外研究部という怪しい部に引かれて門を叩いたので、一緒についていって入った。この部は生物教師Aが顧問を務め、生物部のように生物室でいくつかの生物を飼育し、時々ハイキングに出かけ、たまに水質調査をし、合宿はキャンプと登山に出かけるという奇妙な部だった。生物教師Aはひねくれたアイデンティティを持っていて、生物教師なのに本職は数学なんだと言い張っていた。私はこの生物教師Aとウマがあわなかった。なにかと疎まれたように思う。私は五教科の中で特に数学に優れ、数学は大体一位だった。本来ならもっと仲良く出来たはずだった。私はコンピュータが大好きだったが、生物教師Aはコンピュータを大嫌いだと公言していた。生物準備室にはちょっと古いPC-9801が置いてあったが、ずっと長いこと電源が入れられなかった。
都立高Kは進学校としては低い位置にあったが、都立高全体では中の上ぐらいだった。そのせいか、この学校に入れたのは場違いだったとふざけて言っていた一団がいて、違和感と共に印象に残っている。でもそんな彼らの様子が楽しそうだったので私は微笑ましく見ていた。中学卒業間近に、あまり親しくはない友人から「おまえって頭良かったんだな」と言われた。そういう彼はそんなに頭悪そうには見えなかったのだが、学力という点ではだいぶ劣っていたようで、とても意外な感じがした。
一年の頃、文化祭では小劇場で劇をやった覚えがあるのだが、詳しいことは思い出せない。私は表には出ず、裏方だったと思う。照明の機械が見ていて面白く、その機械を操りたかった覚えがあるくらいだ。
変人気取りの普通の人間は、変わってるねと言われると心から嬉しそうな顔をするが、本当の変人というのは自分が変わっていると言われることを極度に恐れるものだ。当時の私も、普通の振る舞いが自分には出来ないと悩んでいた。今から思えば何を悩んでいたのかと思う。むしろ誇るべきことではなかったか。まああまり変なのも困るのだけれども。
クラス換えについては卒業後に担任教師から裏事情を聞いた。クラスの頭悪い系不良キャラの代表格だったTという男がいたのだが、クラス換えのときに意図的に体育教師が担任をするクラスに編入されたらしい。なぜ急に私の担任教師がこのことを言ったのかよく分からないが、自分の受け持つクラスの優等生たちが定年退職の祝いの花束を持ってやってきたときに、口をすべらせたのかそれとも私たちのためにしてあげたんだと言いたかったのかよく分からないが、ともかくこうして貴重な真実のかけらを知ることが出来た。
Tとは非常に思い出深いエピソードがある。ある日の放課後、すぐには帰らず適当に自分の教室で友人と時間を過ごしていたときに、急にあとからTがやってきて、何か面白いことを思いついたらしく、自分たちを除いて全員教室から出て行ってくれと言い出した。私はなぜかその言葉にカチンときて、友人と一緒にそのまま教室に居座り続けた。するとTが私のもとにやってきて、出て行ってくれと言ったのになぜ出て行かないのか、と怒った。私は平然と、出て行きたくないから出て行かないんだ、と答えた。それに腹を立てたTは、私の顔をはたいて私のメガネを床に落とした。それでも私は退かなかったため、Tは驚き戸惑い、私の元から立ち去った。
その後、Tとは何の衝突もなかったが、たまに彼と会うと彼のほうから私に親しげに話しかけてきてくるようになった。私は妙にくすぐったい気がしたが、普通に受け答えしてやりすごすだけで特別親しくはならなかった。まるでマンガのような展開だが、彼は私のことを認めたのか、私の予期せぬ奇行に直面し自らを省みる機会を得て何かが変わったのかもしれなかった。もともと根っからの不良なんてこの学校にいなかったし、Tも中学ではそれなりの成績をとっていたことを考えると、驚くべきことではないのかもしれない。
この件についての私の持つ真実を開陳すると、単に私はTの言葉に腹を立てただけで、正義感だとか使命感に駆られたわけでは一切なかった。今の私だったら、問題を避けるために教室を出て行ったと思う。
私のいたB組はなにかしら評判のクラスだった。その理由はいまもはっきりとは分からないが、一応キャラがいたからだろう。文化祭実行委員長と副委員長や生徒会長なんかがいた。学力では、業者テストの文系一位で剣道部副部長で社会問題研究部という怪しい部を立ち上げた女性、文系二位で剣道部部長で野外研究部の仲間でもあるH。柔道部部長もいた。この学校で一番上位の私大の推薦入学枠を、のちにその大学の学園祭で一緒にバンドをやったMとクラスの女性二人とが取り合った。私大現役合格ではOが一番だったろう。
ちょっとした挿話だが、最初クラスの女性二人が成績上位で推薦入学枠二つをとることになっていたそうだが、当初大学に進学せずにギターの製作の専門学校に進もうかと考えていたMが急に推薦枠に乱入を掛けたので、二人の女性から非難されたらしかった。その二人は仲良しで、一緒の大学に行きたかったのだそうだ。
さらに別の挿話だが、社会問題研究部は野外研究部をなぜか少し意識していたようで、文化祭の発表のとき互いに模造紙を使って展示物を作ったのだが、マメにも紙の枚数を数えて、部長さんがアンケートにちょっとした敗北宣言を書き残していったらしい。枚数じゃなくて質ならこっちが敗北宣言をしにいくべきだったと思うが、ちょっと微笑ましい。社会問題研究部は前年の文化祭で校長特別賞を取っていたみたいで、それを私たちが意識していたのかもしれない。
話を戻すと、二年次の文化祭のクラスでの出し物の劇はひどかった。脚本をなぜかOが書き、私は裏で地味に音響をやった。私もなんか役をやればと言われたが断った。この当時の私は一応役を勧められる程度のキャラを持っていたのだろう。Oの脚本は、英語の教科書に載っていたファンタスティックスという劇をアレンジするというものだった。主役はKというあまりはっきりしないキャラだがルックスに特徴のある男と、同じくKという水泳部のかわいい女の子がやった。この劇を見た水泳部顧問の英語教師が、B組の劇は難解だね、と言ったのを覚えている。結構ベタだけど微妙だったんだろうな。
プロレス好きのグループが悪漢役をやり、登場シーンでこれを掛けてくれと渡されたテープにはプロレスの何かのテーマが入っていた。なかなか微笑ましい場面だったが、演じている彼らはノっていたにも関わらずどこか淡々としていたように思う。
まずもうどこかに書いたことだが、教師が授業で問いを出し、答える生徒を指名するときに私を指名して、そのとき私が「さあ」と言った疑惑がある。教室にまんべんなく笑いが起こったので、ひょっとしたら本当に私はそう言ったのかもしれない。だが私の理性は少なくとも三択の問題に対して「さん」と答えたのだと言っている。ほんと、先生に向かって授業中「さあ」なんて言えたらヒーローだと思う。いまふと思ったが、教室が凍ることなく笑いが起きたというのが妙な感じがする。
国語の授業では、私のクラスの担当は熱血型のおばあさん教師だった。この人は黒板をノートに板書させて提出させるという授業をしていた。私はこの人の授業がかったるくて仕方なく、それ以前に私はノートをほとんど取らない人間だったので、みんながノートを教師に提出しているときに、仕方なくろくに書かれていないノートを提出していた。あるとき、さすがに教師は腹が立ったのか不思議に思ったのか知らないが、出された私のノートだけをその場で見て、クラス全員の前で「何も書いてないわよ」と笑いながら言った。クラスはこのときも笑いに包まれた。私は照れつつノートを先生の手から取り戻した。さすがにまた同じことをやるとどうなるか分かったものではないので、かったるいと思いつつその後は機械的に黒板をノートに板書して提出するようにした。
英語の授業のとき、前回の宿題を生徒に答えさせるという方式をとっていた先生がいたのだが、良心的な先生だったのかあらかじめ答える生徒を指名しておいていた。あるとき私も指名の中に入っていたのだが、こういうことをそんなに気にしなかった私は、宿題をやってこなかった。当然当てられてもやってきていませんとしか答えられず、そういう生徒は授業中一定時間立たされることになり、私も立たされた。普通出来の悪い生徒が立たされるものなのだが、私が立たされたとき、クラスの片隅から「学校の授業はなめてるんだろ」という会話が聞こえてきた。聞こえよがしの会話ではなく単なる観察だと思うのだが、にしても買いかぶりだと思った。
私は本当に学校の授業に依存しており、それ以外は参考書代わりに取っていた宅配型の添削講座だけしか私の勉強の材料はなかった。
三年次の夏休み、半ば糸が切れて、一日に三時間ぐらいしか勉強せずにほかのことをしていた日々があった。私はそのことをちょっと自嘲気味に周りに言ったが、何かの言い訳にはしたくなかったのでほどほどにしておいた。あるとき、担任でもない野外研究部の顧問の教師が、私と階段の途中かどこかで会ったときに、私の成績が落ちたことに何故か触れた。そのシーンがうっすらと記憶に残っているということは確かに私にとって何かの出来事だったのかもしれないが、正直私は自分の成績については大して考えていなかった。
三年になってからだと思うが、Oのほうから定期テストの成績で購買のパンを掛けようと言い出し、それは卒業するまで続いた。結論を言うと私は連戦連敗だった。業者のテストでは私の方が大体上だったが、定期テストではまったく彼に勝てなかった。テストの点でパンを掛けるなんて、面白いことをやっていたものだと思う。
仲のいい女の子はいなかった。いや、入学当初私を引っ張った女性のほかに、何かがきっかけて私に話しかけてきてくれる人がいたが、すぐに疎遠になってしまった。自分のほうからは、特定の人を狙って自分から話しかけたりすることはなかった。私はよくクラス全体に話しかけていた。
修学旅行のとき、女側のいけてないグループ(失礼)の人たちと班を組んで一緒に行動した。私は彼女らにまったく性的な魅力を感じなかったが、そのときは普通に会話をし相談をした。正直ほかの人たちと組みたかったが、そういう態度はまったく見せないでおこうと思っていた。
ついでに言うと、一年次の飯盒炊飯+ハイキングのときもやはり男女混合の班だったが、このときは一番組みたい班と当たった。しかしこのときも、あまり露骨に喜ばないようにしようとしたし、不自然な態度は取らないよう心がけた。とは言いながら、一緒に買い物に行くときに私は露骨にはしゃいでしまった。特にリーダー格の女の子は外見も性格も魅力的だった。彼女もノリノリで一緒に買うものを物色し、瞬間最大的には私の高校生活の中で一番楽しい時間だったかもしれなかった。残念なことに彼女は一年の終わりに熊本に転校してしまった。
一つ大多数の人にとってどうでもいい話をあえてここでさせてもらうが、後日首都近郊の電車に乗っているときに彼女に非常によく似た女の子を見た。私はその人を覗き込み、本人なのかどうか一生懸命考えたが、こんな状況で熊本に行ったはずの彼女に会えるはずがないと思い、他人の空似なのだとの結論にした。なにか不思議と今でも本当は彼女本人だったんじゃないかと思うことがある。私がごまかすために腕時計を見ると彼女も自分の腕時計を見て、同じように視線を動かしたりと、変な感覚が思い起こされる。それは多分私が彼女をじろじろ見たせいだと思う。
飯盒炊爨のあと、彼女らと仲良くなれるチャンスはあったかというと、あるにはあったかもしれなかったが、あるくだらない出来事があって私は自分からあきらめることにした。材料の買い物の金を私が全額立て替えていたのだが、その徴収を彼女らから行うときに、最初割と遠まわしに言ったこともあり、彼女らはなかなかそれと気づいてくれなかった。話が入り組んだのでまた出直そうと思って私は話を切り上げていったん彼女らのもとを立ち去ったのだが、その後ほどなくして彼女らのほうから私にお金を持ってきた。何かコミュニケーション上の行き違いがあったのだと思う。
また、リーダー格の女の子はハイキングの途中で怪我をして病院に運ばれ、料理を作るときにその場にいなかったので、サブリーダー格の女の子が普段とは似つかわしくない気丈な態度でおにぎりを作って持っていくと言い、分担金の減額も提案していたように覚えている。そのときの彼女の様子がどこか私を非難しているように思え、近づきづらくなったのだと思う。いま思えば、私たちは一緒に彼女を見舞いに行ったほうが良かったのかもしれない。そのときの私は、私たちよりも彼女を見舞うに似つかわしい人たちが彼女を見舞えばいいと思っていた。
以前は書かなかったが、彼女が怪我をしたのは、駆け足で下山した自分たちを無理に追っていたからじゃないかという妄想的な考えを抱いたりもした。
修学旅行中、当時私が好きだったKさんという水泳部の女の子と、いま卒業アルバムを見ても見栄えのする数少ないIさんという女の子が、私服に着替えてなにやら話していて、そこへ私とその友人たちが通り過ぎようとした。私は気恥ずかしくなって彼女らからわざと視線をはずした。通り過ぎた直後、Iさんの口から小声で信じられない言葉を聞いたような気がした。文字通り私は耳を疑った。「こっち見てくれなかったね」そんな言葉だった。視界の隅で捕らえたKさんは、もろに私好みの黒いスパッツを履いていて、とても魅力的だった。私は自分の頭がイカれたのではないかと思った。ひょっとして今の言葉は自分に向けられたものだったのかと。
その後、どこかで生徒会長Rと会い、話し込んでいる間に食事の時間になって大広間に向かった。気づくと私とRだけが制服のままで前の方で隣り合って座っていた。一学年が集まっていた大きな部屋で、かなり目立って居心地が悪かったのを覚えている。そういえばRもどこか変わっていた。はっきり言えばオタクだし、あまり人を気にしないところがあった。
Kさんは本当にかわいかった。水泳で鍛えたスレンダーでよく焼けた小柄な体にショートボブっぽいさっぱりした髪型で、おまけに頭の良さそうなメガネまでしていた。私は授業中とか何かあるたびに彼女に視線を送っていた。むろん彼女に気づかれない程度に。私は彼女と仲良くなりたかったが、自分に自信がないためにまったく近寄れなかった。それどころかあえて遠ざけていた。
いまから考えると、Kさんは私のことが好きだったとしか思えないような所作を何度となく行っている。昔友人に書いた手紙をあさっていたら、Kさんが席替え時に私の席の場所を聞いてきたと自慢げに書いてあるのを見つけた。はだけたブラウス姿でわざと私の前を通るように歩いたとしか思えないようなことがあった。私とOとNが世間話をしているときに、その二つ隣ぐらいにあった自席にずっと座っていて、ずっと後ろの席にいた彼女の友達からの「こっちきなよ」という言葉に「いい」と答えて動かなかったり。もしこれが本当なら、私じゃなく、私から自信を奪った人たちをうらんで欲しい。
ちなみに部で唯一同学年の女の子Pさんは、とても背が小さい人だった。いま考えると目鼻立ちがくっきりしていて、それなりにかわいい人だったと思う。部の顧問の生物教師Aが答案を返却するときに、彼女の答案に部への勧誘の文句を書いて引っ張ってきたと言うだけのことはあり、少なくともAにとっては好みのタイプだったのだろう。しかもこの勧誘の事実をAは私たちに自ら明言していたのだから驚く。しかし私はまったくひかれなかった。冷静な人で、普通に笑ったりしていたが、そんなに感情を大きく出さないからだろうと思う。私の好みは心から笑ったり怒ったりしてそれが表に出るタイプなのだと思う。だが同学年唯一の女性部員ということで彼女のことは絶えず意識してはいた。
本当にどうでもいい話だが、テントで仲間同士でふざけているうちに、なぜか男Hに無理やり袋入りのジャムを食べさせる展開になり、テント内で彼を押し倒して押さえつけてジャムを口に押し込もうとした覚えがある。Hは運動部に所属していたものの、やせていたので私と体重差があるせいか、あっさりと押さえ込めた。それを見たOが「完全に押し倒してたよね」と言った。その後解放したが、ちょっとくやしかったのかHは私に紙くずを投げて仕返しをしたつもりになっていた。
まあそれはいいとして、私のチームには、その授業のときだけ仲良くする明るい性格の男Sと、背がクラスで一番小さいがそんなにかわいげのない顔をした女子と、ちびまる子ちゃんに出てくるミギワさんのようなブスの典型的な容姿をした女子がいた。ああ、いまになって、そのとき心の中だけで思っていたことをこうして文章にするのを許して頂きたい。私は外見のことだけを言っているのであって、性格的にはいたって普通、つまり明るくもないし暗くもないが、私と男Sのハイテンションなトークに、ニコリとしつつも淡々と答えるぐらいの人たちだった。
そう、この授業のときは自分でもあきれるほどハイテンションだったのを覚えている。それには相方の男Sが調子を合わせてくれたというのが大きい。Oではこうもいかない。なぜ私がハイテンションだったかというと、いかにも自分たちは楽しいんだよということを、周りにアピールしたかったのだと思う。でもって、Kさんなどのかわいい女の子が私たちに話しかけてくれるのを期待してたのだ。馬鹿みたいだが、これが青春だと思う。そして今から考えるとそれはある程度成功していたのであるが、若さゆえに気づかなかった。
ちなみに私は、容姿の良し悪しで人を差別することは絶対にやってはいけないということを信条としている。だが、そう考えている時点で容姿を気にしているということで、容姿の悪い人を相手にするときは、嫌々相手をしている感とまではいかないが、特別な意識を持っていることが確かである。それに私は、容姿で差別するのは格好悪いことだと思っており、容姿の悪い人の相手もすることが、容姿の良い人に接近するときの必須条件だと思っている。
さてこの男Sというのが、いつぞや書いた「誕生日にクラスの女の子からケーキをもらって勘違いして告白してフラれた男」なのである。ただし人づてに聞いた話なので真偽のほどは定かではない。私は本来なら心から同情するところだが、ケーキをもらう時点で私の妬みの対象となっているので突き放すことにする。
Hはその後一浪して公立大に進学し、そこで左翼の何かに誘われて入って、ちょっとしたいさかいに巻き込まれて大変だったとその後語っていた。興味はあったがいかにもそれらしい話だと思ってそれ以上聞かなかった。Cとは卒業後も付き合いを続け、よく週一で対戦ゲームをやった。
Cの知り合いで、Gという小柄ないじられキャラがいた。その彼が三年次に、文化祭で私たちとは違うクラスで凝ったミュージカルを中心となってやっていた。ちょっと荒削りだったが、みんな一生懸命練習しましたという感じがして、見ていてちょっとまぶしかった。でもさすがに自分たちがやるのもどうかと思った。
Yさんは私になにかしら好意を持っていた節があって、私と席が隣になったときに色々と話しかけてきてくれたほか、なんと通信簿の見せ合いまでした。卒業式の日かその前日ぐらいに、教室の一番前左端だった私の席の前方でしばらくじっとしていたので、思わず私から話しかけた。文化祭が終わって後夜祭と呼ばれる発表会とフォークダンスをやっていて、私がYさんと踊る番になったとき、偶然かどうか知らないがZが急にメガホンでダンスをとめて何かのアナウンスをした。その後も私はなにかとZに嫌われ続ける。
思い返してみるとYさんにはまだ不可解なことがあった。文化祭でやる劇の打ち合わせを有志だけで行っていたときのことである。恐らく10人もいなかったのだが、その中に私と親友のO、そしてYさんと水泳部のKさんがいたのは覚えている。その席上、なぜかYさんがKさんを椅子に座って抱きかかえ、Kさんの頬を引っ張ったりして遊んでいた。Kさんのことを「かわいいでしょ」みたいなことを私たちに見せ付けていた。
いまから考えるとZは私が注目されていることが気に入らないようであった。休み時間中、クラスのみんながそれぞれ思い思いの人と会話をしていた雑音の中で、Zが私をとりたてて大きくはないボリュームで呼ぶ声が聞こえたかのように思えた。それは繰り返し私の耳に届き、返事をしようかと思ったそのとき、それまでうるさかったクラスが急に静まり返った。Zは私を呼ぶのをやめ、誰ともなく「ほらな」と言ったように覚えている。
ここからは完全に私の想像になるが、Zが私に腹を立てていた理由は、私がクラスでそれなりの人気を持っていたにも関わらず、クラスをまったく盛り上げようとしなかったからではないかと思う。二年生の頃の文化祭で私は完全に裏に引いた。
三年次は、クラスでスパゲッティの店をやろうということになったが、クラスでの話し合いの場で妙にZが私に突っかかり、私は途中で席を立ってクラスには参加しないことを表明した。もう自分でも何をやっているのか分からない。さらに思い出すと、私は何かのときに、自分はスパゲッティが好きだと言った覚えがあり、まさかとは思うがそれが出し物のきっかけになったのであるまいかとも考えてしまった。昼食時、教室でそれぞれのグループで弁当を食べるとき、私のグループとYのグループとがよく近くの席に集まった。かといって互いに接触があるわけではない。ほかにあいている場所があるのに、彼女らが近くに来た気がする。
夏休みも終わりに差し掛かったある夜、突然一年のころのクラスメイトから電話が掛かってきた。電話口の向こうから女の子たちの声がした。クラスで集まるから来てくれという。一年の時のクラスのことかと問えば違うと言う。そのクラスメイトは、誰かに頼まれて私に電話を掛けてきたという。B組を再団結する会、と言っていた。時刻は22時をまわっていた。今から来いと言う。誰か他にいるのか、親友のOはいるのかと私は彼に訊いた。するとOには連絡をとっていないと返ってきた。結局私は、そんなに親しくなかったその電話口のクラスメイトに対して、何故か正直に「怖いから」と答えて断った。
公民館を借りてクラスの集会をやったこともあった。私は単に打ち合わせやるということを聞いてちょっと顔を出してみただけで、おまけになぜか照れくさいので一時間遅刻してから行った。行ってみるとこれといってめぼしい人は来ておらず、比較的おとなしい女子が数人となぜか男ではHが一人まぎれこんでいた。これといって大した話はなく解散したか、私は単に図書館の分室に寄るついでに顔を出しただけとか言ってすぐに退出したのか、詳しいことは忘れた。
私は文化祭のスパゲッティ屋には結局ほとんど関わらなかったが、何かのときにふと気になって教室を訪ねると、ちょうど店を作るために机や椅子を整理しているところだった。そのときその場にいたSというかわいい女の子に、机かなにかを持っていくのを手伝ってくれと頼まれ、運んでいるとその場にZが来て私に文句を言った。「参加しないんじゃなかったのか」と。「客としてならいいだろう」とかなんとか言ってその場を離れたのを覚えているが、こうして改めて思い起こして書いてみると、まるで夢でも見ていたとしか思えない。
文化祭が終わった後、恐らく店の売り上げのお金でムシパンやシュークリームを買って食事会が開かれた。Iたち不参加組はその場にいなかったが、同じ不参加組の私はその場にたまたま居合わせた。Yさんが私にも食べ物を持ってきてくれたが、それを見たZが反応して不満を言った。一緒にいたHまで遠慮しかけたが、Zは「おまえは食べていいんだよ」と参加したHに言った。
Zは私に対してさまざまなちょっかいを掛けてきたが、それを私はいちいち取り合わなかった。あまりに私が彼を無視するので、思い余って彼のグループの一人が、「おい、Zの相手をしてやれよ」とぶっきらぼうであったがまるで頼みごとをするかのように言ってきた。私にはもう一つの自分を想像することも一応できた。それは、Zのちょっかいに対して笑みを浮かべ、彼に恭順を示すことだ。そうするとZを中心にしたクラスの秩序が生まれる。しかし私はそれをしたくなかった。そんなに強い意志ではなかったと思う。だから、彼に従うという屈辱の代わりに、彼がまとめあげたと噂されていた男女間のネットワークに入れたかもしれなかった。それは当時の私にすれば天秤に掛ける価値は十分にあったと思う。しかし私は、矜持とかプライドとかそんなものとはまったく関係なく、ただ考慮しなかった。
私だってクラスのみんなと仲良くやりたかった。少なくとも今の私は当時の私をそのように思っている。しかしそれは非常に照れくさいこと、いや自分の存在を脅かすほど恥ずかしいことだった。それが青春というものなのだろう。私の本質は今もそれほど変わっていないのかもしれない。今はちょっといいなと思った職場の女性に自分から近づいたりすることもあるが、私の本質はそんな能動的なアクションではなく、たまたま仕事で一緒になったとかそういう偶然のつながりを強く強く求めているのだと思う。当時の私も、飯盒炊爨、修学旅行、文化祭と男女強制イベントに大きく期待していた。
そういえば球技大会でのことだ。男女別々のトーナメントだかリーグ戦だかで学年ごとにクラス対抗で戦うというものだった。男たちのやっている試合に女たちがYを中心に応援にきてくれたことがあった。それはちょっとした当たり前のことなのかもしれなかったが、ろくに活躍していない私にとってもすごく嬉しかったのを覚えている。そこで私は女子の試合も見に行こうと、私に一番近い集まりから声を掛けたが、ロクな反応が返ってこなかった。そこで私は仕方なく、気が進まなさそうではあったが一緒に行ってくれそうだったCに声を掛けて二人で見に行った。そこには私たちのほかにクラスの男たちの姿はなかった。私は五分ほど近くのベンチで観戦したが、二人だけではとても応援できず、いたたまれなくなってその場を去った。
私は当時、いまからは考えられないほど変人だった。授業中、何かで静まり返った教室で、突如私は近くの席にいた親友のOとそれから暗にクラス全員に対して、好き勝手なことを延々喋り続けたことがあった。先生がいるにも関わらずである。だいぶ話したあとで、居心地の悪くなったであろうOに止められたのを覚えている。
卒業式の日、私は男二人からラブコールらしきものを受けた。私は国立大に進学したのだが、そのときはまだ合格発表が行われておらず、私大に誰が受かったとかが張り出されていただけだった。私はこのとき、家から近い場所にキャンパスの一部があった大学に受かっていた。Uという男は、うちの高校で一番偏差値の高い推薦枠のある大学に通常の受験で受かっていて進学を決めたようであったが、私がその大学よりちょっと下の学校に受かっていたのを知り、そっちにしておけば良かったとはっきり私に言った。もう一人、テニス部のIは、卒業後も麻雀とか何かやるときがあったら呼んでね、としきりに言っていた。Iとはぼちぼちの間柄だったが、ここまで好かれているとは思わなかった。私はあいまいな返事しかできず、その後彼らとは会っていない。
Uは私に、クラスで好きな女子は誰か、という質問をしつこくしてきた男だ。私が答えないと、次々とそれらしい名前を挙げて、仕方なく私は「いや」と否定の言葉を返していた。Uは最後に「やっぱりゴミくんもKさんか」と言ったので、私は図星を突かれたのだがそのまま「いや」と答えた。私はあまり嘘をつかない人間なのだが、このときばかりは嘘を言わずにはいられなかった。しかしそれでは不自然になるので、彼にこんなことを言った。Qさんは誰彼なく男子に話しかけてくるからいい、と。
その場では何も起きなかったが、その後Qさんと偶然放課後に二人きりになるというシチュエーションが生まれ、不思議なやり取りをした覚えがある。最初は彼女が何か紙を一部だけカラーコピーしたいというのでそのやりとりをしていたが、そのうち彼女がなんの脈絡もなく「違うんだ」みたいな言葉を言ったのを聞いた。まったく文脈に沿わない言葉で、妙な違和感が残った。いつだか分からないが、掃除当番でもないのに何故かQさんからちりとりを持たされ、彼女が掃くゴミを受け取る役をやらされた。そのときなぜか同じ当番にKさんもいて、三人で黙々と掃除をした。特に会話はなかった。それからのちに野外研究部のハイキング系のイベントで、川沿いの道を歩いているときに同学年で唯一の部員PさんがなぜかQさんのことをかわいいよねと言ったのがこれまた文脈に沿っていなくて変な感じがした。
私がKさんを好きだったことはバレバレだったのかもしれない。特にこれといった証拠はないが、卒業写真集の中のクラスのスナップ写真が加工されてちりばめられたページに、同じ皿の上にいくつかの顔写真が盛られていて、その中に私とKさんの顔写真も無作為っぽくも含まれていた。当時の私はひょっとしたら痛いオーラを出していて、そのオーラを感じ取って周りの人に影響を与えていたのかもしれない。
校舎の屋上でマンガを誰かから借りて読んだことがあった。それを私は座って読んだのだが、本を貸してくれた男も隣に座り、二人して黙々とマンガを読んだ。そのうち妙に彼の腕が近づいてきて私の腕に触れた。特に夏場でうっとうしかったので自然に離したが、そのあとまた腕を触れさせてきた。他意はなかったのかもしれないが、ちょっと不自然な感じがしたのでヘンに記憶に残っている。
私の机の横のフックに見知らぬ弁当箱が掛けられていたことがあった。ちょっとあけてみようかとOに相談してみたが、やめたほうがいいと言われたのでそのまま放っておいた。弁当箱はその日ずっとそこに掛けられ、翌日なくなっていた。
彼女はリハーサルの日に途中で体調を崩して保健室に行ったが、それ以外はずっと私の隣にいた。私は会話の機会を伺い、前から周ってくるプリントを受け取るときとかに何か声を掛けてやれと待っていた。クラス単位で周ってきてKさんに手渡されたプリントを私に渡してくれるものと思って待ち構えていたが、信じられないことに彼女は手早く後ろに回そうとした。仕方なく私は急いで声を掛けてプリントをもらった。彼女は本当に申し訳なさそうに謝った。
卒業式当日の朝、彼女は自分から私にこんなことを言ってきた。「おなかが鳴っちゃうかもしれないけどごめんね」かわいかった。彼女は私に謝ってばかりだ。その後わたしはずっと耳を澄ませて彼女の腹の虫を聞き取ろうとしたが、はっきりそれと分かる音は聞こえなかった。卒業式で送られる側の私たちだが、妙に実感が沸かなかった覚えがある。入場のときに在校生が拍手をするのだが、つい自分たちも拍手してしまいそうになる、とまあそんなことを私のほうから冗談として彼女に言った。
卒業式も終わりに近づいたとき、私はもう彼女との会話はこれで終わりだろうと思って、最後にちょっとしたほのめかしぐらいはしておこう、こんなことを言った。「ああ緊張した」卒業式の終わりと同時に言ったので、文脈上は卒業式という式典に緊張したという意味に取れる言葉だが、こんなことに緊張したのではない、私はあなたの隣だったから緊張したのだということを言っておこうと思ったのだ。もちろん裏の意味をはっきり伝えるつもりはなく、むしろ伝わらないことを願って私はそれを口にした。フフと彼女は笑った。
卒業式が終わり自分のクラスへと帰った私たちは、思い思いに別れゆくクラスメイトとの雑談にふけった。仲が良い人とは今後も会うだろうが、そうでない人とはもうずっと会えないかもしれない。そんな感傷的な時間だった。私は最後に窓際で雑談しているKさんを普段よりやや露骨に見ておいた。後悔はなかった。どうせ何も起きないし起こすつもりもなかったからだ。私はこういう別れの時の空気がイヤで、自分でもあっさりしすぎていると思うほどすぐに教室をあとにした。それから、あの頃のクラスメイトのほとんどとは一度も会っていない。
しかし、今になって思うのは後悔の念である。思うままに振舞えなかった自責と、私のような不器用な奇人をうまく受け入れてくれなかったクラスメイトへの理不尽かもしれない怒りがある。
さんざんクラスで目立ったことをしていたのに、クラスのために何もしなかった私。Zさえ邪魔しなければ。少なくともスパゲッティ屋だけは、クラスの人たちと仲良くやれたかもしれなかったのに。球技大会のとき、恥ずかしがらずにクラスの男全体に女チームへの応援を呼びかけることが出来たら。文化祭の劇のとき、何か役をやっていれば。自分はもっと何か出来ていたのではないか。そんな風に苛まれるのだ。
でも最終的に私は、しょうがなかったのだと片付けることにしている。学生生活なんてそんなもんなのだ。テレビやマンガの中のような青春の匂いがいっぱいの学生生活なんて、当事者たちが満喫できるはずがないのだ。学園ドラマは実は現役が楽しむためのものではなく、懐古主義のおっさんおばさんが楽しむべきものなのだ。
卒業してから二年後ぐらいに、担任教師が定年退職することにかこつけて、同窓会ではないがクラスの人に集まれるかどうか呼びかけたことがある。電話連絡網を使って予定の三日前ぐらいに突然まわしたのが悪かったのか、担任教師が嫌われていたのか、集まりは非常に悪く結局私の周辺の三四人しか集まらなかったのはいつか書いた通りである。そのとき私は個別にYさんに連絡網を回してもらうという名目上の目的のために電話してみた。私の手は震えていた。声も少し震えていたと思う。Yさんには理性的な好意しか持っていなかったにも関わらずだ。私はYさんから世間話のようにクラスメイトのその後についての話を聞き出した。どうやらZたちが同窓会を開いていたことも聞いた。私やその周りの人間たちには声が掛からなかったようだった。そしてYさんは私が電話口で最初に名乗ったときに私の名前がよく聞こえなかったようで、途中で私と気づいたようだった。これらは大した事実ではないのかもしれないが、話し終えて電話を切ってから私は、Yさんたちがいま楽しい毎日を送っていることを願った。高校でのことは早々に忘れ去るべきだとクラスメイトたちに思った。
こんな私に、自分を憐れむことを許してもらえるだろうか。
最近ずっとネットゲームにハマっていて、現実世界の縮図である仮想世界でのコミュニケーションをしているうちに、面白いことに自分という人間の本質が分かってきた。私はまず自分をアピールして自分の周りを盛り上げ、他人が自分たちに話しかけてきてくれるのを待つのだということだ。必ずしも自分が人気者である必要はなく、誰か他の人気者と仲良くして盛り上げるのでも良い。そうした上で、誰かから声を掛けてもらうのを待つという受け身の姿勢で待ってしまうのだ。いまから思えば、これは積極的で優れた人間を呼び集めるには有効な手段ではあるが、それ以外の人は来ないのだ。一度自分が場を盛り上げてしまうと、周りからは積極的な人間だと思われ、声を掛ける側の人間だと思われてしまうのだろう。もちろん私だって自分から声を掛けるときはあるが、あまり断られないだろうと予想した状況でしか声を掛けないのだと思う。
なぜ私がこうした人格になってしまったのかというと、幼い頃に友達と遊ぶ時に断られた経験から来るのだと思う。そんなに数多く断られた記憶はないし、むしろ積極的に誰かを誘って遊んでいた覚えがあるのだが、それでもそんな私に拒絶の経験は深く根を下ろしていたのではないかと思う。習い事があるからダメとか、そんな仕方のない理由でもとてもガッカリした思い出がある。かと思うと、一方では喧嘩上等なところがあって、周囲からの敵意をものともしない誇り高さいやある種の鈍感さも持っていた。
そして別稿でも述べたことだが、中学の終わりごろにちょっと気になっていた女性に親しげに声を掛けて拒絶されたことが思った以上に深い根にあるのかもしれない。これについても、この一件以外では私はむしろ異性から概して好意的な反応をもらっていたし、この一件についても後日談によりチャラ以上になっているので本来なら何も気にすることではないのかもしれないはずだ。しかしやはりこういうことは本人が理性的に考える以上の影響を持っているのかもしれない。
もう一つの可能性として、逆に「自分が誰かの誘いを断るのがイヤ」だからこそ、その裏返しとして自分が誰かを誘うのもイヤになってしまったのかもしれない。世の中には魅力的な人とそうでない人がいて、魅力的な人を誘ったり誘われたりするのは嬉しいが、魅力のない人に誘われたり誘ったりするのは楽しくない。しかし差別もしたくない。こうして八方塞になってしまった結果、誰も誘わない、魅力的な人が自分を誘ってくれる幸運だけを待っている、という風になってしまったのかもしれない。
もっと遡って自分の精神分析をしたいところではあるが、残念ながら高校以前のことはほとんど記憶と記録に残っていないのでよく分からない。