124. 芸術論 (2002/6/2)


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会社をやめた同期の友人と掲示板で話をしているうちに、芸術論めいたものが頭の中に形作られてきたので、今回は芸術について書くことにする。

■なにが芸術なのか

そもそも芸術とはどこからどこまでを指すものなのだろうか。芸術のなにが我々に感動を与えるのか。芸術の限界はどこにあるのか。可能性は無限大なのだろうか。

まず第一に、芸術とは現実世界の何かを表現していることを挙げるべきだろう。ある芸術作品が、現実を超えた何かを訴えようとしていたとしても、その作品自体は現実世界の何かをかたどっている。でなければ、意味不明のものを見聞きしても我々は当惑するだけだからだ。

つまり、すべての芸術作品は、少なくとも現実に存在する何かが立脚点となっている。たとえば、ダリだか誰だか忘れたが、超現実的な絵の中で「歪んだ時計」というありそうでないものを描いている。現実に存在するものを歪ませないと、描かれているものが「歪んでいる」ことが分からないからであろう。

では、楽器の音はなんなのだろうか。小鳥の鳴き声のような楽器など、自然界に存在する音を真似た楽器も確かにあるが、一方で全然関係ない音色もあるように思う。そんな楽器でも、我々人間の耳に心地よく響くのは確かである。つまり、人間の聴覚に訴える心地よい音色、それは人間にとって非常に現実的なものである。まあ、楽器の音色だけでは芸術になるのかどうか分からないところだが、少なくとも創作楽器の音色は芸術とされそうである。

一方で、バイオリンをただ弾くだけで芸術になるのかというと無理がありそうである。譜面に合わせて弾いて初めて芸術となる。なぜ、譜面が芸術となるのか。譜面にあわせて弾かれた曲が、人間の耳に心地よく響くからだろうか。

■自然と芸術

芸術とは人間の手が加わっているものを指すようである。とりあえず広辞苑を調べてみると、

1. [後漢書孝安帝紀] 技芸と学術。 2. (art) 一定の材料・技巧・様式などによる美の創作・表現。造形芸術(彫刻・絵画・建築など)・表情芸術(舞踊・演劇など)・音響芸術(音楽)・言語芸術(詩・小説・戯曲など)、また時間芸術と空間芸術などに分けることもある。

ところで、引用しておいてなんなのだが、広辞苑はあまり信用ならない辞書らしい。国語辞書と百科事典を中途半端に融合したもので、戦後政治的な理由でのしあがった岩波書店が大々的に宣伝してメジャーになったようである。編者の新村出は名前を貸しただけ、というひどい話もきく。中身も左翼的な説明が多いとのことなので、一応眉につばをつけて読んでみたほうがよいだろう。以上、谷沢永一と渡部昇一の「広辞苑の嘘」(光文社)を読んで。

学研の国語辞書にはこうある。

あるきまった材料・様式・技巧などによって美を追究し創造し表現する人間の活動。

同じ岩波でも国語辞書にはこうある。

文芸・絵画・彫刻・音楽・演劇など、独得の表現様式によって美を創作・表現する活動。また、その作品。

とにかく言えるのは、人間が作ること自体が芸術であり、また人が手をかけたものだけが芸術なのだということだ。広辞苑には無駄な説明がつらつら並んでいるが、つまりそれだけのことのようだ。三冊いずれも芸術は「美」だと述べている。

つまり、いくら自然の風景が美しくてもそれは芸術ではないのである。自然を絵に描いたり写真に撮ったりして、はじめて芸術となる。

■これらは芸術なのか?

私がかつて、これは本当に芸術なのだろうか、と疑問に思っていたものが二つある。それは、写真と俳句である。

▼写真

まず写真なのだが、写真とは現実そのまんまが写る。もちろんレンズや露光やシャッタースピードなどを変えたりして、撮れるものを加工することはできるのだが、基本的には現実の単なるコピーに過ぎない。こんなものが果たして芸術なのだろうか。

たとえば、ヌード写真がある。ヌード写真とは、ヌードの代替物に過ぎないのではないか。実物を実際に見せる代わりに、写真に撮って多くの人の手元に安価に届けるのである。同じように、風景写真は、現地に行くよりも手軽に、天候にも左右されずに理想のアングルで取った代替物なのではないか。

しかし、写真は確かに、撮る人によってまったく違うものが出来上がる。たとえばヌード写真なら、被写体が非常に魅力的に見えることもあれば、明らかに写りが悪いものもある。アラーキーこと荒木経惟の作品は明らかにエッチな感じがする。一方で、女性誌のヌード写真は全然エッチではなかったりする(それこそ見ていて腹が立つくらいに)。また、接写では色々な機材が使われるので、明らかにヌード写真は「作られたもの」であると言える。

風景写真はどうだろうか。これは難しい。大体現実そのまんまなのだ。天気のいい日に実際に目で見た風景が記憶に残っているときに、同じ場所で同じ風景だけど夕日が鮮やかなときに撮った写真なんかを見ると、おお、と思うこともある。しかし、現実に夕日の天気・時間帯のときに同じ場所に景色を見に行けばやはり同じである。

ただ、いくら現実のコピーとはいえ、現実のどの部分を切り取ったのか、という創造者のセンスは大きい。この世のどの風景でも、どの物体でも、特別なものでなければ、写真に写すのは簡単である。その中から、これ、というものを選び出すのが、プロの写真家ではないか。

▼俳句

俳句を構成するのは、五七五でたった 17音、とそれを表す文字だけである。わずが十数文字で一体何を創造できるというのだろう。

以下は、多分一番有名な俳句である。

古池や 蛙飛びこむ 水の音

要するに、古い池にカエルが飛びこんでポチャンと音がしたんだろうな、という作品である。これのどこが芸術なのだろうか。

確か学校では、この句について数行にわたって解説した文章が載っている教科書で勉強した覚えがある。詳しい内容は忘れたが、情景が浮かぶだの、音が本当に聞こえてくるようだ、などと解説されていた。

私が次に浮かんだ疑問は、俳句を味わうには解説文のようなことを色々と想像することになるのだろうから、どうせなら解説込みにしてしまえばいいのに、というごくごく当たり前の疑問である。なぜわざわざ 17音だけで語ろうとするのか。なぜ五だの七だの制限しなければならないのか。表現したいものがあるなら自由に表現すればいいじゃないか。

これは西洋の詩にも言える。西洋の詩には文字制限などというものはないみたいだが、韻を踏まなくてはいけないという奇妙な制限がある。日本の俳句や短歌にも、似たような音の単語を想像させるテクニックがある。たとえば有名なのは、黒船来襲のときの歌で、蒸気船をお茶の銘柄だか葉っぱの種類だかと引っかけている。俳句には季語が必要だし、枕詞なんていう一種の予告編まである。

それでじゃあ何を表現しているのかといえば、なんてことのない日常の一コマだったり、とてもありきたりな人間の感情だったりする。カエルが池に飛びこんでさあどうした、と突っ込み放題である。

むしろ詩全般は、国語に属することではなく、むしろ数学に属することなのではないかとさえ思う。うまいこと規則を守って、積み木細工のように言葉を当てはめるのだ。言葉遊びの範疇なのではないか。

ただやはり、現実をいかに切り取るか、ということで、写真と同様に作者のセンスが重要である。現実を切り取るのだから、くどくどと、どうでもいいことまで、いちいち説明するのは無駄である。言葉というのは、重大なことも些細なことも、同じ長さで表現してしまったら対等に扱われてしまうものである。

昔の人が、あるときふと感じたこと、風景や情景を、短い言葉に凝縮して切り取り、心の中のアルバムに保存しておく。それが詩の役割なのではないかと思う。詩であれば、ちょっとしたことで会話のネタにすることができる。つまり、人々と共有しやすいのである。詩というのは実は、芸術の中では非常に手軽に鑑賞し、みんなでいじりまわすものなのではないか。

■引用と芸術、言葉

写真と俳句に共通するのは、引用が最も重要なことである。引用、つまり、どこかから引っ張ってくることである。写真は現実の風景をそのまま映像として、俳句は現実の風景を想起させる言葉や句を、引っ張ってくるのではないか。

ところが、近代以降になって、現実を引用するのではなく、かつて作られた芸術作品から引用してくるものが増えた。近代以降の芸術家たちは、社会と技術の発展により、いくらでも自由に先人たちの芸術作品に触れることができるようになった。彼らの頭の中にある先人たちの芸術作品は、現実と同等の、いやそれ以上に現実性のある引用対象となった。

我々も無論同じである。たとえば、ぬけるような青空、という表現がある。我々は青い空を見て時に感動するが、その感動も先人たちの表現を借りているのだ。我々は知らず知らずのうちに、むかし読んだ本やテレビの表現を借りてきている。言葉もまた芸術であり、我々は言葉を介して現実を感じて心を動かされている。

もちろん原体験も欠かせない。原体験が言葉と結びつくことで、我々はいつか感じた原体験をいつでも言葉を通じて引き出せるようになる。我々が単なる記号に過ぎない言葉で感動できるのも、原体験と結びついているからである。

■引用対象としての仮想体験

芸術を鑑賞する人にとって、その芸術が引用している対象がなんであるかが、一番重要なのではないだろうか。たとえば写真を例にとってみよう。男は概してグラビア写真が好きである。若い女性が水着になっているものは特に好きだろう。しかし女性からすれば、あるいは特殊な趣味をもっている人、もう若い女性への興味を失った男性からすれば、グラビア写真はどうでもいいものである。雄大な自然を写した写真、世界の現状を切り取ったジャーナリズムとして一級の写真、かわいい子猫の写真、などなど、人の好みは多種多様である。

数ある引用対象の中で、もっとも根本的なのは、遺伝子に組み込まれたものだろう。欲情している異性だけではなく、我々人間は哺乳類であり、姿形のかわいいものを愛でる傾向にある。また、自分が幸せだった頃の思い出を思い起こさせるもの、夢をかきたてるもの、生命、破壊、感傷、など。

しかし我々現代人にとって、いま何が一番感動的なのかというと、本や映画やテレビなのではないだろうか。

我々の多くは、人類未踏の秘境をさまよったりしたことなど一切ない。ところが、我々の多くは、インディージョーンズなどの映画を見て仮想体験をしている。映画の中の作り物の世界から多くの感動を得ている。その中に描かれる秘境のイメージは、分解すると我々の原体験に結びつくのだろうが、その原体験が複雑にあわさってさらに高度な仮想体験が作られてしまうので、我々はもはや原体験に依存することなく豊かな感動が得られる。

我々は、いままでに果たしてどれくらい本を読み、果たしてどれだけの映画やテレビを見てきただろうか。いままでにどれだけの仮想体験を味わっただろうか。

豊かな仮想体験を持つ我々は、仮想体験を引用した芸術に感動することができるのだ。わざわざ原体験を重ね合わせることはない。

ちなみに、インディージョーンズシリーズには、監督の趣味で必ず一カ所は虫が大量にでてくる。これは原体験を想起するかなり強烈な手段である。

■主に仮想体験を引用する芸術の隆盛

いまの世の中を見渡すと、本当につまらない作品が多いことに気づく。私はその原因を、仮想体験の引用のしすぎに求める。制作者たちの才能や能力が悪いというだけでは説明がつけられない。

現在芸術を生産する制作者たちは、おそらくこれまで多くの芸術作品を鑑賞してきた人間である。だから、過去の芸術作品についてはかなり詳しい人間だろう。つまり、誰よりも多くの仮想体験を積み重ねてきた人々である。そんな彼らは、普通の人間が普通に感じてきた原体験よりも、主に芸術好きの人間がためこんできた仮想体験を元に芸術を作り上げようとしてしまうのだろう。原体験よりも仮想体験の方が感動が大きいのだから仕方がない。ついつい仮想体験を引用してしまうのは、仮想体験の引用が原体験の引用よりも簡単だからという理由もある。

たとえば、恋愛ドラマを描くとする。原体験を引用するならば、丹念に人物の描写をしていくところである。登場人物一人一人について、どんな心情なのかを、細かく表現していかなければならない。ところが仮想体験を引用するならば、シチュエーションだけ設定してやればいい。たとえば、対立するグループ同士の中にあって一組の男女に愛が芽生えた、という作品はこれまでにもハムレットだとかウエストサイドストーリーだとか色々ある。だから、多少なりとも読書したり映画を見たりしている人間からすれば、そのシチュエーションが再現されるだけでも、いや極端な話ナレーションだけでも、仮想体験を想起されてキュンとしてしまうものなのだ。

このような現在の状況は、一面では制作者サイドを怠惰にさせているが、もう一面では過去の名作を意識しなければならないツラさも作り出している。ハムレットに似た話を、いくら丹念に作っても、それはハムレットのリメイクだと言われる。かといって、ハムレットの仮想体験をベースにした引用作品を作っても、ハムレットを知らない鑑賞者にはあまり楽しんでもらえないだろう。

■駆け足の結び

「わかる人たちにわかってくれればいい」という態度は、芸術家として間違ってはいない。しかし、特定の原体験を共有する人たちだけに向けた作品というのは、どうしても病的なものになってしまう。また、特定の仮想体験を共有する人たちだけに向けた作品というのは、マニアックだと言われても仕方がないのではないか。それでも、特定の仮想体験を組み合わせた芸術作品というのは、その仮想体験を持った人々にとっては非常に強力な作品になることは確かである。その裏で多くの人々がシラけようとも、芸術作品として間違ってはいない。

世界中の人々に受け入れられる作品を作るには、日本人にしか分からないものを引用してはいけない。しかし、日本人にしか分からないものというのは、我々が文化的に共有している原体験・仮想体験であり、財産であるとも言える。そろそろ忠臣蔵が若い人々にとって理解不能になりつつあるような気がする。精神的な財産としては、リベラルな時代にはそぐわないのだが、芸術的な財産としては重要である。こういった作品は、古典を楽しむ上で欠かせないだけでなく、新たな作品を作る上でも土台として役に立つ。

現代の芸術家には、自分がこれまで蓄積してきた仮想体験を、ある程度は共通体験にまで分解することが求められると私は思う。ある程度多くの人が共有している原体験・仮想体験を便宜的に共通体験と呼ぶ。芸術家だけでなく、人に何かを薦める時にも重要になるだろう。自分にとって面白い物語が、人にとって面白いとは限らない。自分にとって最も感動的な話が、実はいくつかの別の話を想起させるからであり、それらを知らない人にとっては普通の話だったりするのである。

やぶけて中身の綿があふれた人形のぬいぐるみを見て感傷的になれる人というのは、そんなぬいぐるみを親しい人の所持品として目撃した経験を持つ人か、なんらかの仮想体験を土台として持つ人である。多分、仮想体験を土台に持つ人の方が多いと思う。そうでなければ、古い薄汚れたゴミか、せいぜいかわいいグッズの陰の面としか思えないだろう。


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gomi@din.or.jp