120. 風の谷のナウシカ 〜混沌の物語 (2002/2/13)


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このまえまた宮崎駿の「風の谷のナウシカ」をやっていた。最初は見るつもりはなかったのだが、結局見てしまった。見て良かったと思った。前に見たのはいつだったか忘れたが、今回新たに思ったことも色々あったからだ。ちなみに週刊文春の堀井憲一郎の調査によれば、今回がなんと 12回目の放送だそうである。

そこで改めてもう一度原作のコミックス版を読み直してみた。すると、また新たなことが色々分かってきた。

今回はストーリーの内部を説明せずには成り立たないので、まだ見ていないかたは読まない方が良い、というか読んでも理解不能だろう。それから、私は作者の意図を好意的に解釈するようなファンではないので、作者に対してネガティブなことをたびたび口にするだろう。

■後半の怪

映画版の分かりやすさに比べ、この作品の後半は奇妙奇天烈な展開に突入していく。あれほど広大な世界が広がっていたと思われた前半部が一気に吹っ飛び、世界が急に小さくなってしまう。延々と続くかと思われたトルメキアとドルクとの戦いがあっと言う間にぶち壊される。強大な力を持っている存在として描かれていたドルクの支配者の魂が、おぞましくて哀れな生き物として子供のような姿で描かれて、ナウシカの精神世界の中で成仏する。

ドルクの支配者の「皇弟」に代わって新たに「皇兄」ナムリスが現れるあたりから物語はいよいよ怪しくなっていく。このいかにもとってつけたようなアニメ的な人物ナムリスは、一人で物語を操る役目を担い、彼の口から語られる様々な事実が物語を誇大にしていく。もともと、巨神兵は生物兵器ではあったが、現在生き残っている人間たちには操りきれない超常の存在としてここまでは描かれていた。しかしここにいたって、ヒドラという人造人間が登場し、皇兄ナムリスが自らの抱える博士たちによって普通に管理している存在として生物兵器が描かれてしまう。ナムリスはヒドラを遣わせてクシャナを捕獲し、自信たっぷりに自分の妻になれと呼びかける。クシャナはナムリスと顔をあわせるなりこう言う、やはりナムリスおまえだったか、と。

あげく、あれだけ恐ろしい存在として描かれていた巨神兵が、ついには主人公ナウシカの子となる。こうなると善玉も悪玉もなくなる。クシャナが憎んだ残りの二人の皇子たちが急に善玉として描かれるようになり、名前だけの存在かと思っていたトルメキアのヴ王が突然コミカルに描かれだしてしまう。そして、永遠に失われてしまったと思われた世界を回復するための手段が隠されているシェルターと、そこに住まうヤマト人のような髪形をした超常者、そして彼がとうとうとナウシカに語り出す真実。人知を超えたものを描き出すには、人知を超えた存在を用意して語らせなければならないのか。それにしては安易すぎるのではないか。

■ナウシカ

この作品についての根本的な誤解は、「自然を大切にしよう」といった主張なぞ微塵も存在しないというこの一点である。

欧米人の考える自然とは、人間にとって過ごしやすい、という条件がつく。だから、彼らからすれば、人間が住むのに困難な土地は、彼らが守るべき自然とは言えない。一方、東洋人とくに日本人の考える自然とは、時に人間を拒むほど荒ぶるすべてを指す。だから、腐海やそこに住む人間にとって危険な生き物たちを愛でるナウシカという存在は、おそらく欧米人にとっては理解に苦しむであろう。それに対して東洋人とくに日本人は、このナウシカの心情に一応の共感を持つことができる。人間はうまく危険をさけていればよく、人間と森の生物が互いの領分を守り尊重しあうという精神を持っている。

しかし後半部で描かれるナウシカは、さらに一歩先を行ってしまう。人間を殺すために作られた巨神兵までも一つの生物だと認めて慈しむ。これまでに何千何万と民を虐殺してきたのではないかと考えられる皇弟さえも許してしまう。

ここで我々多くの読者は置いてきぼりを食らうのではないだろうか。

しかし、ナウシカという一人の人間について考えると、この流れはそれほど不自然ではないように思う。というのは、ナウシカというのは一種の変人だからである。少なくともナウシカは普通のヒロインではない。

もっとも、私は作者ですらこのあたりをあまりよく考えないで描いているのではないかと思えてならない。たとえば、物語の最初の方に、ナウシカの船出を見送ってチコの実を贈る子供たちが出てくる。姫姉さま、と口々に別れを惜しんで泣く子供たち。その子供たちがもし仮に、物語の後半部に出てきて、ナウシカになついている巨神兵のビームの余波を食って死んでしまったら、果たしてナウシカはどういう反応を示すだろうか。私の想像の中のナウシカは、悲しみながらもそれにより巨神兵を拒絶しようとはしないだろう。そんなナウシカ像は、読者に、そして作者に、許容しえるのだろうか。

ナウシカは混沌を信条とする人物である。そうでなければおかしい。

それどころか、こう言い切っても良いと思う。ナウシカは邪悪な存在であると。

■超常者

アニメ制作者にありがちなパターンとして、超常者の存在がある。

超常者とは便利なツールである。アニメ作品の最後にはたびたび、全てを操っていた超常者があらわれる。すべてはその超常者のしわざだった、として物語をまとめにかかる。主人公たちの前で、終始余裕を見せる超常者。ただただ立ち向かうしかない主人公。最終的に主人公たちは、単純な真実を題目として唱えはじめて、超常者の予測を上回る奇跡を起こして勝利する。

宮崎駿もその誘惑から逃れられなかったのか。それとも、真実を読者に知らせるために他に良い方法が見つからなかったのか。

ナウシカにおけるもっとも大きい SF としての仕掛けは、火の七日間戦争によって失われたとされる旧世界の文明が実は残されていた、というものである。かろうじて生き残って人間社会を復興させてきた人間たちは、実はあくまで旧世界の事物を残すための単なる道具でしかなく、地球が浄化されたあとには全て滅びるしかないのだという絶望的な事実である。

この設定自体は非常に秀逸なものである。しかし、これまで丹念に丹念に描かれてきた魅力的な世界が一気にしぼんでしまうほど私をガッカリさせた。

この事実をナウシカは、たまたま迷い込んだ旧世界のシェルター、その中にいる旧世界の番人から直接聞く。超常者である番人が語る真実。その場には主人公ナウシカしかいない。必然的に宮崎駿は、番人に相対する荒廃世界側の人類のカウンターパートをナウシカにせざるをえない。

ナウシカを、理屈で物事を理解するような人間として描いてはならなかった。私はそう思う。ナウシカの代わりに他の誰かを聞き手にすることをなぜ選ばなかったのだろうか。ナウシカは何の説明を受けなくても、感覚的にそれとなく理解するような存在として描くべきだったはずだ。あるいは、超常者に真実を語る前にどこかでナウシカを殺してしまい、登場人物の心の中の存在にしておくべきではなかったか。

■生き物の定義

宮崎駿がこの作品の最後になって語るのは、生き物の存在自体の定義を読者に突きつける、非常に激しい主張である。地球が浄化されたらもう生きてはいられなくなる荒廃世界の人類とその代表ナウシカ、地球が浄化されたあかつきには全員に手術を施して生き残れるようにすると約束するもう一人の超常者。あまりに陳腐で卑小な設定も、生き物の存在をとことんまで突き詰めようとした宮崎駿の思考活動の排泄物と考えれば仕方がない。

ナウシカは、超常者のコントロールを拒む。この判断自体は自然なものである。ただ、その振る舞いがどうにもナウシカらしくない。少女は短期間のうちに成長したということなのだろうか。これまで積み上げられてきた「さわやかな風」としてのナウシカが見る影もない。

まあそれには目をつむり、改めて宮崎駿の主張を吟味してみよう。

彼の主張を一言で言えば、生き物とは生かされるものではなく生きるものなのだ、という定義である。

これをかみ砕いて説明するのは少し難しい。生かされるのはよくない、という主張ですぐに思い出すのは、延命治療や安楽死の問題である。安楽死を主張する人々は、むやみな延命措置は人間の尊厳を傷つけると言う。それよりはむしろ自ら選択した死により自分の尊厳を守った方が良い、と彼らは言う。この考え方は、生き物は生きてなんぼ、という一般的な考え方と真っ向から対立する。生き物を、生きているときだけでなく、生まれてから死ぬまでの全てでとらえようというのだ。どう生きて、どう死ぬか、これを自ら主体的に決定することのできないものは生き物ではない、あるいは生きる価値がない、ということなのだろう。

宮崎駿の主張を私が飛躍させると、つまり彼はシステマティックに生き物を管理することを否定したかったのではないだろうか。たとえば、たった数年あるいは数カ月生き長らえさせるために仰々しいことをしたり、子供にかすり傷さえさせないように環境を作り替えようとしたり、生命の危険を多少なりとも覚悟した物好きだけが行けば良いような場所を観光地化したり、というようなことをである。

生き物が自らの存在をシステマティックに防衛するようになると、もはやその存在が生きているとは言えなくなる。自らの持つリスクを、自らの思い至らないなにものかによってヘッジされてはならない。

■外敵

腐海に住む巨大な虫たちは、人間から攻撃を受けると反撃してきて人間を殺傷してくる。つまり、人間が誤った判断をすると虫たちに殺されてしまう。

さすがに現実世界にはこのような巨大な虫は存在しない。しかし、昔から人間には、ひとたび判断を誤ると命を落としてしまうものがいくつもあった。人間は、人を食らう獣を、ただ人を食らうという理由で絶滅させてきた。放っておくと、大なり少なり人間が殺されてしまうのだから、その判断は正しいように見える。そこにあるのは、人の命は地球より重い、という考え方である。

人間は、自分たちが相応に武装したり、外敵にむやみに接近せずに、正しい知識を子々孫々に伝えていけば、十分に外敵から自分たちを守れた。もちろん、年に何人かはそれでも殺されてしまうかもしれない。人間は最終的に、その何人かの死にいたたまらなくなり、数万匹以上の外敵をシステマティックに殺すことを選択した。個々の猟師が自分たちの意志で虐殺を実行したのではなく、人間たちが自らをシステマティックに統合して、初めて虐殺という行為が可能になる。

猟師で思い出したが、これまで人間は象牙や鯨油や毛皮の乱獲を目的として、種を絶滅あるいは絶滅寸前まで追い込んだ。これもまた、経済という名のシステムによって、人間一人一人の欲望たとえば毛皮を所有したいといった欲望が増幅され、需要が増幅された先に供給が生まれ、その結果として大量虐殺が生まれたのだ。

システムを否定するということは、つまりこういうことである。人間一人ぐらいが猛獣に殺されたところで放っておけ。

■歴史が否定する

しかし、このような考え方はいままでのところ、歴史が否定してきた。

たとえば、あなたは今日おいしいものを食べられるかもしれないが、何も食べられないかもしれない。さてどうか。それよりは、システム化して毎日おいしいものを食べられるようになったほうがいいだろう。我々はそうして、一年を通じて本来季節物のはずの野菜を食べるようになった。山奥で新鮮な海産物を食べるために交通網を整備し自動車を作り改良してきた。

わずか一握りの身体障害者のために、我々の社会の施設が彼らにとって使いやすいように作られるべきであるとする考え方が支配的である。これもシステマティックな考え方である。本来は、周囲の人間がそれぞれの意志で彼らを助けたり助けなかったりするのだが、我々はとにかく全員が無条件に一定額の資金つまり労働を彼らに対して援助していることになる。このような援助が人間らしいかどうかという議論はここではしないが、我々の多くはこのことにあまり疑問を持っていない。

宗教はシステマティックではないだろうか。特に、人工的に作られた教会や聖歌や象徴や物語によって人々の信仰を支える一神教は、人間の作り出した最高のシステムの一つであると言える。それらを否定して、自然物に対する人々の自然な畏敬が集まって自然に作られたシャーマニズム、多神教のみを肯定しなくてはならない。しかし人類の歴史を見ると、数少ない一握りの一神教によって多くの多神教が邪教とされ消え去っていった。

これらのシステムを否定することは、混沌を意味する。

■混沌は劣勢

混沌とは悪い意味ではない。たとえばそれは、愛する者を守るために冷酷になることを肯定する。人をあやめてはならない、汝の隣人を愛せよ、右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい、といった外なる原理を尊重し守るのではなく、あくまで自分の内から沸き起こる気持ちにのみ正直になることを肯定する。

かつて人類は混沌の中に暮らしていた。ところが、人類の歩みは結果として秩序へと向かった。我々の打ち立てた秩序は、通常モロいものと考えられ、我々が最大限の努力をもって守っていかなければならないものだと教えられてきた。ところが結果を見ると、実際は混沌よりも秩序のほうが強いことが分かる。

犯罪でさえも秩序でもって行われるのだ。

■まとめ

一人一人の人間が好き勝手なことをやっているよりも、集まって一つのことをやったほうが強力な力になる。ただしそのためには、一人一人が自分のやりたいことを我慢したり、あるいは一人一人のやりたいことを押さえつけておく必要がある。

我々は力を合わせなければ生きていくことが難しい。力を合わせることで快適な暮らしを送ることができる。しかしそれによって一人一人が個を失ってはならない。混沌の物語は、それを伝える物語である。

風の谷のナウシカもまた、混沌の物語の一つに分類できると私は考える。しかしこの作品は、作者である宮崎駿のこのような主張にも関わらず、むしろさまざまな人々の生きざまの物語としての方がはるかに優れている。それを作者が後半でぶち壊してしまったのは非常に残念である。

つまり、ここまで散々私が書いてきたのは、「風の谷のナウシカ」という物語の中で作者が本当に語りたかったことであり、そしてこの素晴らしい物語の中では本当にどうでもいい部分である。


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gomi@din.or.jp