118. 私と文章 (2002/1/30)


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私は多分客観的に見ても文章を多く書くほうだろう。

珍しく私のページの掲示板にお客さんがやってきて、私の文章がどういう影響を受けているのかを尋ねてきたので、今回はあまり立ち入らない程度におおざっぱに説明していくことにする。それからついでに、私が文章について思うことを書くことにする。

■掲示係の壁新聞

私が不特定多数の人間に対して文章を書き始めたのは小学校四年生か五年生ぐらいのころまでさかのぼる。各クラス毎に、保健係だとか黒板係だとかがあったころである。新聞係というのもあり、クラス関係の情報を集めて壁新聞を作る係だった。

私は掲示係という係になった。掲示係というのは、本来ならば教室に張る掲示物、たとえば献立表だとか予定表だとかを張ったりはがしたりする係である。ところが私は、先生から与えられたものを張るだけでは飽き足らず、当時集英社の週刊少年ジャンプの巻末の投稿コーナーをパクって、教室のみんなから壁に張るものをお題付きで募集した。

この企画は大当たりし、新聞係の新聞よりも大きな事実上の壁新聞を作り上げた。更新頻度も極めて高く、短いときには三日に一回とかで次の壁新聞を作ったりもした。というのは、題材をクラス全員から絵として募集しているので、スペースを埋めるのが楽だったからである。

私は暴走しまくり、模造紙を使いまくって壁新聞を乱発した。マジックで大きめの字で模造紙に文章も添えた。これが多分私の文章のはじまりである。

ついでに言うと、このとき調子に乗って自分でイラストでキャラクターまで描いた。帽子をかぶって大きく口を開けた二頭身の男の子で、名前までクラスで募集して、掲示係の「けいくん」という名がついた。

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余談だが、後日私はこのキャラクターを、とある携帯情報端末のおまけのゲームに使った。この仕事は下請けでやったのだが、専門のデザイナーを雇うつもりはないみたいなので絵は自分で描いた。ゲーム自体はハングマンという、プレイヤーがミスをするたびに画面の中の人物が首を吊る動作に入っていく陰湿なゲームである。しかし、向こうの社内でこの絵柄が問題になり、少年が首を吊られるのはよくないということであえなくボツになった。向こうの技術者のリーダーのかたが、がんばって擁護してくれたようなのだが、主に営業サイドの方で多くの人が反対したらしい。そこで、少年の頭上で風船が大きくなってついには破裂するという絵柄に変更された。その絵は相変わらず私のキャラクターではあったが、向こうの技術者が適当に絵を縮小したために、私の絵が雑になってしまった。それと、さすがに意味もなく帽子に「け」の文字を入れるわけにもいかなかったので、たとえ当時のこのキャラクターを覚えている人がいたとしても、判別は難しいだろう。

■活字の読書はほとんどしなかった

というライターとしての華々しい(?)活動とは逆に、私は読書をほとんどしなかった。親が私に本を読ませようと、シャーロック・ホームズのシリーズを五冊ばかり買って私に買い与えたのが中学に入ったばかりの頃だっただろうか。私は読もうと努力はしたものの、ついにほとんど読めなかった。

本を読んで初めて面白いと感じた思い出の本があれば良いのだが、どの本なのか特定できない。思い出すのは、映画にもなった宗田理「ぼくらの七日間戦争」と、モーリス・ルブランのルパンシリーズの子供版である。ホームズが読めずにルパンが読めたのはどういうことか分からないが、ルパンは二十冊近く読んだのに量のわりに面白いとは思えなかった。

小学校中学校までの私の愛読書は、文学などではなかった。確か、コロタン文庫だとかケイブンシャ文庫だとかいう名前の、子供向けの小さくて分厚い本をよく読んだ。私が小学校高学年ぐらいの頃に、私の母親が本屋のパートをやっており、親がパートで働いている間によく漫画や子ども向けの写真満載の文庫本を読みあさった。

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ついでに言うと、小学校四年生の頃にこの本屋で出会った、すがやみつるの漫画のコンピュータ入門本にハマり、ついにはいまの職業まで進んでしまうことになる。この本は、当時流行っていた「ゲームセンター嵐」という漫画のキャラクターたちが、当時のコンピュータでよく使われていた BASIC という処理系を懇切丁寧に説明するという趣向だった。小学生の私が論理的思考を身につけた第一歩を導いた偉大な本なのだが、いまではもう失われてしまった。このあたりのことは、多分いつかまた今回のように私のコンピュータ歴を説明する回を別に設ける予定なので割愛する。

■W

中学の終わり頃に W と出会う。彼は私の出会うコンピュータ仲間で、初めてそれなりにプログラムのできる人間だった。彼なくして私のコンピュータ技術や文章技術もなかったのではないかと思える。というのは、中学を出て学校が別々になってからも、週に一度ぐらいの頻度で、コンピュータプログラミングの技術交流をやったからである。

この技術交流がなぜ文章に関係があるのかというと、彼が自分の作ったプログラムに、とてもしゃれのきいた文章を付属させてきたからである。私はそれに大いに刺激を受けて、自分も文章を書くようになった。いまで言うと、インターネット上で面白い日常レポートを書いている人がいるが、ちょうどそんな感じである。

このやりとりもまた私の中でかなり暴走し、いわゆる小説を書いて互いに見せあうといったこともやった。いまも完全な形で残ってはいるが、とても読めたものではないので封印してある。

いまになって思うのは、W が読みやすい文章を書こうとしていたのに対して、私は技巧的に書こうと努力していた。特にその最たるものは、日本語を拡張すべきだとの題目の元に、文章の曖昧な読点を二つのタイプに分けて、明らかに文章が分かれる場所には読点を二個続けて書いたりしていたことである。今にして思えば非常に馬鹿馬鹿しいのだが、反面分からなくもない。むしろ、当時から言語の欠点が気になっていたことが無謀ながら驚かされる。

それから、W は読書が好きで色々本を読んでいたが、私は相変わらずそんなに本を読んでいなかった。この読書量の差が、文章の自然さ、きれいさの差となり、私の当時の文章はいま読んでいても多少ぎこちなく思える。私は読みやすさよりも論理を重視していた。それでいてレトリックにはそれなりにこだわった。まあ一言で言えば、嫌らしい文章を書いていたということである。

高校在学中の三年間は、私は多分信じられないくらい文章を書いていたと思う。次はどんなプログラムを書こう、みたいな雑考を逐一書いていたし、今日こんなことがあったということも読んだだけで分かるくらいに詳しく書いていた。読者は W だけだった。このときの私の「読者を意識しない」で書き続けた期間は、多分いまの私の文章を決定づけた大きな要因であるように思う。このとき私は、無意識に文章を書き綴ると独白になるという体質になったのだと思う。また、書く=考える、というある種いい加減な体質も身につけた。

それから、二人でかなり激しい議論もやった。文章は誰のためのものか、ということで激論を交わしたことが一番印象に残っている。私は解釈がすべてであると主張し、W はそれでもやはり作家の意図が第一であると主張し、一歩も譲らなかった。このような議論も私を形作った。

■会誌

高校に入った頃、中学の頃の友人が時々集まって遊んでいたのだが、その多くはテーブルトークRPG というゲームをやっていた。中学の終わりぐらいからやっていたのだが、高校に入ってからも多人数で遊びやすいので続いた。

ただ、八人とか集まることもあり、誰かの家で遊ぶには迷惑が掛かるだろうということで、公民館を借りようという話になった。公民館を借りるには、組織でなくてはならない。そこで、テーブルトークRPG で遊ぶサークルということにして、組織の名前を決めて取り繕った。

サークルという形になると、サークルっぽくしたくなったので、私が言い出して会誌を作ろうということになった。いま思えば、どうして私はこんなに積極的で建設的だったのだろうと変に感心するのだが、この会誌は十号くらい出して立ち消えるまで続いた。

編集のやりかたも変に進化した。最初はワープロで打ち込んだものをそのままコピーしてホッチキスでとめていただけだった。ところが最終的には、ワープロで細長く印刷した原稿を縮小コピーで小さくして、それを短冊のように切って紙面にレイアウトしながら張り付けていき、紙もわらばん紙を千枚購入して、公民館の印刷機で両面印刷までした。いまこういうことをやろうと考える人は、ホームページを作ってアップするだけで済むのである意味うらやましいが、当時くだらない中身なのにわざわざこんなことをしていたのはいまでは良い思い出である。

この会誌には、ゲームで遊んでいる様子をテープに録音して、テープを起こしてゲームを再現して載せたりした。それだけでなく、ゲームに関連した小説を書こうということで、原稿を集めて載せた。その中では、W が書いたものが面白さと読みやすさで一歩抜き出ていたように思う。彼は良い意味で開き直っており、半分くらいは内輪っぽい話を書いていた。私も、長めのものを一本書き、それがそれなりに面白いと W からの評価を得た。小さいギャグを所々に入れていて、いま読んでも読めないことはない程度ではあるが、全般としてやはり当時の文章を読みたいとは思わない。

中学のときの友人の集まりは、高校二年の最初ぐらいで立ち消えた。高校の友人と親しくなったりして、中学の頃の自分はあまり必要ではなくなったからだろう。それからは特定の友人だけと麻雀をやるようになった。麻雀は四人でやるものなので、コンスタントにはそれぐらいしか集まらなくなったのである。高校三年の半ばぐらいに、夜にバドミントンをやる集まりが定期的に開かれたが、受験勉強の気晴らしみたいな感じだった。

■大学内ネットニュース

大学に入ったら、すぐにインターネットが使えるようになった。当時はろくにウェブが発達していなかったので、コミュニケーションの中心は NetNews と呼ばれるテキストベースのシステムだった。この NetNews は階層構造になっており、ワールドワイドなものから、大学内だけのもの、特定の学年やクラスだけのものなど、階層分けされた BBS があった。

入学したての学生にそのまま好きにインターネットを使わせるというのではなくて、大学側はまず半年のカリキュラムで徐々にインターネットを使わせようとした。まずはワークステーションへの入りかた、次にメールの読み書きの仕方、そういうのがあってようやくネットニュースの読み書きの仕方を学んだ。技術的なことの他に、エチケットというのも教えられた。

ネット上のエチケットと言えばいわゆるネチケット、私の嫌いな単語の一つである。なぜ嫌いなのかというと、単純に言えば「あいさつをしましょう」みたいなことまで決められていたからである。また、ネット上を流れる大量の文章を毎日毎日読んでいる一部のヘヴィーユーザがネチケットを決めているので、くだらない内容をネットに流すなだとか、内容が分かりやすいよう件名をちゃんと書けだとか、非常に独善的な題目を唱えていたからである。

ともかく、私はこの広大な空間に強い興味を持って、講義で習う前に先輩に質問して、同輩に一歩先行して NetNews の世界に足を踏み入れた。そこに転がる記事を読むだけでなく、自分で記事を書いてみた(記事というのは article の訳語なので新聞の記事とかとは関係なくただ単純に一つの文章だと考えて欲しい)。ところが、私の最初の記事が気に入らないとみえる人がケチをつけてきて、その人に対して言葉を返したところ別の数人からたしなめる言葉が飛んできた。もはや私の元々の記事もそれへのフォロー(レスと同義で返信のこと)も残っていないので、ここで客観的な判断を仰ぐことはできないが、当時の私は極めて違和感を持ち、このあと一年ぐらいに渡って反骨的な記事を書き続けることになる。

NetNews と言えば私はどうしても熱くならなければならない主張があるので言わせてもらう。一言で言えばそこは、日本的な「身内とよそ者」の世界であり、権威主義と自由主義を最悪の形で結びつけたような場所であった。日本のインターネット元年は 1994年であると言われるが、その 1994年当時はほとんどのインターネットユーザは技術者で占められていた。日々活発に自由に情報交換を楽しんでいた中に、優れた技術者が一握りいて、彼らは意識していたかどうか分からないが、彼らを頂点とした目に見えない一種の階層構造を作り出していた。その中で、自分の位置を常に確認しながら傍若無人に振る舞う人々がおり、自分より上の人間の権威を支えると共に、自分より下の人間を作り出して自らの位置を保とうとしていた、というのが私の解釈である。

本当はもっと NetNews でのことを語りたいのではあるが、知らないかたにとっては退屈なだけだろう。ともかく私は、一年あまりにわたって学内の NetNews を読み書きし続け、その間にフレームウォー(ネット上の議論が際限なくヒートアップして記事がすごい勢いで飛び交い続けること)や、挑発されたり挑発したり、自己顕示したり相手を褒めたたえたり、というネット上の乱暴なコミュニケーションを体験した。NIFTY などのパソコン通信からはじめていれば、私のネット体験はもっと良い始まりを迎えられたのではないかと思うが、NetNews という特殊な環境は私を一歩覚醒させた。

余談だが、私はネット上でコミュニケーションが行われる限り絶対にフレームウォーはなくならないと思ったが、2ちゃんねるがあっさりと葬ってしまった。それは「煽り」という言葉の出現である。煽りとは、わざとフレームウォーになりそうな言葉を書くことによって、他の人が強烈な批判をしたりたしなめたりする返信を沢山つけてくることを狙った、一種の愉快犯である。仮によっぽどの勘違いな意見が大まじめに出されようとも、誰かが「煽りだから放置(無視)」と言い出してリミットが掛かるようになった。

■大学の頃の読書

私が本を読むことを趣味とするようになったのは、おそらく大学に入ってからである。というのは、高校の頃はとにかく時間がなかったからである。

主に読んだのは、筒井康隆の全集と、河合隼雄や岸田秀などの心理学系の本である。

筒井康隆の全集は、一巻から延々と読み続けた。詰まらない話や、筒井康隆が他人の本に書いた解説などを、少しも読み飛ばさずにひたすら読み続けた。別にこれといった意味はなかった。いまでも私は筒井康隆が好きなわけではなく、特に絶筆前後の話は一切読んでいない。というのは、全集を二十巻ちょっとまで読み、そのあと「虚人たち」に差し掛かってついに読み進むことができなくなったからである。その後の作品といえば、友人から借りた文庫本の「虚構船団」は読み終えることができたが、この作品も私にとっては中間部がどうにも冗長で読むのが面倒だった。彼は「文芸」というものを目指しているのだが、私は「物語」を楽しむこと以外には興味がなかったからだと思う。

心理学に興味を持ったのは、やはり人間の心理に興味があったからである。なぜ河合隼雄なのかというのがいまもよく分からないが、多分割合読みやすかったことが理由だと思う。もう一方の岸田秀についても同様だろう。私が心理学について他にいくつかの本を読んだ結果わかったことは、心理学というのは科学としては成立しにくく、学問としてではなく一つの教養としてみたほうが良いということである。

思い出したが、田中芳樹も読んだ。高校の頃だったろうか。銀河英雄伝説やアルスラーン戦記を読んだ。特に前者は非常によくできた作品だと思う。が、この著者の底には英雄崇拝の匂いを感じてどうにも一方的に好きになることが出来なかった。世の中の物語を二つに分けるとすれば、あきらかな英雄の出てくる物語と、なんでもない人々の織り成す物語があり、私は英雄の出てくる物語がどうにも好きになれなかった。

アシモフやディックなどの SF も読んだ。それなりに面白かったが、この両大家よりも日本人作家の書いた作品の方がずっと読みやすくて面白かった。具体名を挙げれば、草上仁、神林長平、星新一である。特に草上仁の「天空を求める者」やその他数々の短編はどれも面白く、私ともっとも波長が合った。作品自体はそんなに面白くはないながらも、サラリーマンの会社社会をネットワークRPG に持ってきてゲーム上と現実とにわたって描かれる作品があり、その発想には今から考えても驚かされる。ところで私は小松左京は食わず嫌いで一切読んでいない。

歴史小説も多少は読んだ。有名どころはほとんど読んでいない。歴史小説というものに関する私の現在の姿勢は、歴史小説の面白さは完全に作者の奥行きに依存するという点である。私がこう言うのもなんであるが、底の浅い作家による歴史小説ほど読んでいて脱力するものはない。一番印象に残っているのは、山本周五郎「さぶ」だが、これは時代背景だけを借りた現代小説のようなものである。

ミステリーは好きではない。親に薦められてフォーサイスを何冊か読んで、確かにそれなりに面白いとは思ったが、面白くなるまでに延々と詰まらない字面を追っていく作業をしてまで作品を楽しみたいとは思わない。アガサ・クリスティの有名な「オリエント急行殺人事件」も私にとってはカスのようなものである。日本人作家では、宮部みゆきの作品を確か二冊と半分読んだが、最初の二冊はどちらもそこそこ面白かったという程度で、半分というのは週刊誌に連載されていた「ゼプツェン」で、途中で投げ出すほどつまらなかった。

当時私が読んだ本は、活字よりも漫画の方がずっと多かった。私の結論は、活字よりも漫画のほうがずっと面白いということである。この点については、いくらかは既にこれまでの回で説明しており、またこれからも漫画について語ることがあるだろうから、そのときに説明することにする。

ノンフィクションは当時はあまり読まなかった。数少ない例外が、親に薦められて読んだ会田雄二「アーロン収容所」である。この本は、のちのち話題となる小林よしのりの「戦争論」にも引用されている本であり、私が読んだ当初は教科書問題などがまったく起こっていなかったので新鮮であった。ところが、この本を大学内のネットニュースで紹介したときは、誰からも何の反応も返ってこなかった覚えがある。

■初期のホームページ

私が自分のホームページを開設したのは 1994年の末ごろである。学内のサーバ上に作った自己紹介だけのページである。

1995年のいつだったか忘れたが、高校の頃に遊んでいたテーブルトークRPG の遊んでいる最中の録音テープを簡単に文章に起こしたものを載せた。これは相当の分量のある大きなコンテンツで、それなりの需要もあるとは思うのだが、現在はどこにも載せていない。ここに書いたついでにどこかに載せようかとも思う。

現在は有名で当たり前のように使われている Perl というスクリプト言語だが、私は 1995年の時点でこの言語のマニュアルを自分のページにアップした。そのマニュアルというのは、もともと 1991年に作られた GNU の CD-ROM に収録されていた日立の技術者のかたが訳した Perl のオリジナルのマニュアルであるが、Texinfo という形式だったために texi2html というツールの存在を学内の NetNews で教えてもらったのでそいつで html に変換して載せた。一時期検索エンジンで Perl と調べるとこのマニュアルが一ページ目に引っかかったこともあった。

1997年に研究室上に何かページを作った覚えがあるのだが、好きな音楽やなんかを紹介する程度のシンプルなページだった。

いまから考えると、私の技術者としてのピークも、書いた文章の量のピークも、高校二年あたりだったように思う。大学に入ってから、色々なことを知り色々な技術も身につけたが、高校の頃に培ったものでただ消化するという感じであった。高校の頃が一番忙しくて切羽詰っており、大学、そして社会人となるにつれて余裕が出来てきて、精力がなくなってきた。こう言い切るのもなんだが、社会人というのは本当に楽なものである。

そして 1998年にこのネットワークどを始める。それからのことは言うに及ばず。

■ポリシー

私が自覚している自分の文章の特徴は、大体以下の通りである。

▼高速

私はキーを打つのがとても速い。自分で言うのもなんだが、私のタイピングの速度は自他共に認めるほど高速である。タイピングの速さは、思考の速さにもなる。自分の考えがとても早く文章になるというのは、物事を考えるのにも非常に有利であるように思う。その反面、とにかく推敲せずにどんどん書いてしまうので、まとまりに欠けるのはまだいいとして、余計なことまでつらつらと書きつめてしまうことが多い。

余談だが、私がなぜキーを打つのが速いかというと、大学に入った直後に授業でまずタッチタイプつまりキーボードを見ずにキーを打ち続ける訓練をきっちりと行ったからである。担当教官の話では、最低二時間もあればキーボードを見ずに打つのは誰でも出来るのだそうである。これには私もうなずける。いまでは私の手はキーに張り付いていて、打ちたいと思ったらそのままそれが指の動きとなる。第二の理由は、私がギターで早弾きを練習しつづけたことである。ギターに限らず楽器をやっている人なら多分キーを打つのも速くなるだろう。現に私の職場で非常に高速にキーを打てる人がいたが、彼はピアノを弾く人間だった。ギターならではの利点は、きき手ではない左手の動きが音階にとって重要な点である。それから、楽器の演奏というのは、要するに音符を手の動きに変換することであり、まさに頭に浮かんだ文章を手の動きに変換することと同じである。

高校の頃も、キーボードを見ながらだったがそれなりに速かったように思う。その頃もなぜか速さを自慢に思っており、三十分で 6Kbytes というのをなぜか覚えている。6Kbytes は三千文字に相当し、原稿用紙七枚半をぎっしり埋める量である。文章なんてものは量では決してないのだが、このへんを自慢に思うあたりが私の屈折をあらわしている。

▼自己顕示と自重

私が文章を書く理由をとことん深く突き詰めていくと、自分が誰かに対して優位にあるということを主張するためではないかと思う。たとえば私は今回もこれまでに「当時なになに」というフレーズを使ってきたが、これも当時を振り返って自分の優位を主張するためである。

そして私にとって、あからさまな自己顕示は嫌悪の対象でもあるため、必然的に自重もするという奇妙なことになる。私の文章は、自己顕示と自重とのバランスで成り立っている。

私が好きな物語のタイプの中に、水戸黄門的な、あるいはメガネをとったら実は美人みたいな、そういう「実は…」という類型がある。つくだ煮屋の隠居が実は天下の副将軍だったり、地味なメガネの女性が実は美人であったり、一見普通の人だが裏では別の顔を持っているだとか、そういう美学に強く魅かれる。だから私もそれに習い、出来るだけ自分の限界を隠して余裕を持たせるよう努力している。限界をないかのようにほのめかせば完成である。

と、露悪的なことを言ってしまったが、私はむしろとても魅力的な人が自分の目の前にあらわれてくれることを何よりも望む。もちろん、悲しいことに、そんな魅力的な人の前では、出来るだけその人から関心を持ってもらおうと自己顕示をさりげなくしようとすることだろう。

▼オリジナリティに比重なし

私は自分の説がユニークであることを願ってはいるが、私の中ではユニークであることにそんなに比重はない。ただ、他人のユニークな説やレポートを紹介することにも強く喜びを覚える。したがって私は、何かについての紹介をする文章を書くことが好きである。それも、なるべく分かりやすく紹介して知のエージェントを気取るのも私の趣味にあう。

ただ、私が絶対に正しいと思うことについて本意不本意関係なくユニークとなることがある。そのときは当然誇らしく自説を語る。

▼文芸に比重なし

昔は芸術的な文章を書きたいと思っていたが、いまではとにかく読みやすければよいと思っている。特に、不要な漢字は使わない。逆に、わざとかなを多用するようなこともしない。レトリックを使いたおすようなこともしない。ただし、自然と浮かぶ範囲では、また日本語として整っていると思えば、あまりきかれないような表現も使うことがある。

推敲もほとんどしない。書き終えたあとに最初から読んで文章を一部修正するのは、多分これまでの事実だと五回に一回ぐらいである。

▼読者を想定しない

推敲をほとんどしないのは、私の文章を読んでくれる読者を想定していないからである。私のこのページはほとんど宣伝していない。宣伝しないのを誇りとしたいからではない。ただ単に宣伝する気になれないだけである。つまり読者の数が少ないので、多少推敲して文章を読みやすくしたところで、人々全体に与える影響はごくごくわずかである。読まれる時間より書く時間の方が多分多いだろう。私は一本の文章に大体二時間から五時間使う。多分大方の人は五分から十分もあれば読み終わるだろうから、最低でも 24人の読者がいないと書く時間の方が長くなる。

こう言うのもなんだが、文章量当たりの読者数ではこのページはかなり少ない部類に入るのではないかと思う。私が自分のページを確認しているときに、ある同僚がやってきてこのページについて聞いてきたことがあったので簡単に説明したのだが、ここまで文章が詰め込まれているページは読む気がしないと言っていた。多分そんなものだろう。だからこそ、思い切ったことが書けるのだとも言える。思い切ったテーマについては、現実世界で私を知っている人が何か聞いてもノーコメントということもありえるので注意。

しかしその反面、テーマが多岐に渡るにもかかわらず、日記という体裁をとっていないのは、それでも偶然訪れてきてくれる読者を想定しているからではある。私の中では、このページは遺跡発掘のようなものであり、時々迷い込んでくる旅人にまとまった話を提供することを指向している。私自身、ネットサーフィンで面白そうな人の日記に行き当たることがあるのだが、自分の興味のない話の中に自分の興味のある話が埋もれていたりすると発掘するのがとてもおっくうになる。せめてテーマごとにまとめておいてくれれば、あるいはどこかで区切りをつけさせてくれれば、と思うので、私のページはテーマごとに分けて書いている。初期の頃は関連する話題をつなげて楽しむこともあったが、最近はなるべく慎むようにしている。そうでないと 1001回には到達しないだろう。いやそうでなくても多分無理なのだが。

■ネットワークど

ネットワークどは、当初は複数の友人に対して同じようなことをメールでいちいち各人ごとに送るのは無駄だし失礼なので、共通性のある話を一回一回に分けて書くつもりで始めた。このページが終わりを迎える日については未だ考えていないが、そろそろ仕切りなおしをしたいというのもなくはない。というのは、これまであまりにダラダラと書き続けたからである。

もっと短く簡潔に、そしてプライベートにドロドロしたことを排除して、それから十分に宣伝をして読者を獲得したいとも思っている。が、やはり現在の路線は捨てがたいものがある。そこで、短く簡潔に書くというのも始めることにしたが、自分ひとりではなく友人や不特定多数の人に頼むことにした。私は、自分の意見も主張したいし読者も得たいのであるが、必ずしもそれらがリンクする必要はないと思っている。つまり、自分の意見をドロドロと主張するページと、それとはまた別のみんなで作る文章主体のページとがあってもいいと考えている。

そこで私は、いかにも本格的っぽいように体裁を整えてみんなで文章を書いていくサイトを作ってみた。

http://manuke.com

何かについての批評ということであれば誰でも何かしら持っているものだし、批評は人それぞれで何を書いても良いので、出来るだけ多くの人に書き込んでもらいたい。2ちゃんねるや 1ch TV や Yahoo, amazon.com のレビューページのような参加型サイトに対する私の回答はこうである。

■さいごに

ただ、私にとって創造というのは、やってもやらなくても良いものである。私は別に自分の創った何かを世の中に残したいだとか、多くの人に知ってもらいたいだとかいうことよりは、誰かの作った素晴らしいものを楽しみたいと思う。だから突然創造をやめるかもしれない。しかもその理由が、ゲームをやる時間がなくなったから、といったものである可能性もある。これは免罪符ではなく実際にそういうものだ。


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gomi@din.or.jp